異音
†
古木の香りやシックな色調の大広間は、本来であれば大層居心地がよい空間だったのだろう。
だが、有り合わせの毛布類を寄せ集めただけの寝具が足の踏み場もない状態ですし詰めにされ、集まった人々も夜が近づくにつれ浮足立っていくような空気感であれば――これを快適に思えるような者は、まず存在しないだろう。
横になりながらも不安そうに封鎖した窓や扉を何度も振り返って確認する者もいれば、全てに背を向け耳を塞ぎ丸まって震えている者もおり。
「……あんな鍵で本当に大丈夫なのかな」
アカリもまた周りに倣い、身体が痛くなりそうな野宿用の毛布に身を横たえながらも、不安げに窓を眺めていた。
鎧戸を締めて、内側の窓を閉ざし、窓についた真鍮製の金具を掛けて終了。
もっとこう適当な木板を集めてきて釘で打つ等、色々出来る事があるのではないかと、見れば見る程に不安を煽られる。
「いや、それがあの程度でも全く破られねえんだよな。歌での洗脳は得意なようだが、腕力は大した事ねえらしい」
隣に横たわるアデルの一言に完全に安心とはいかないまでも、窓から注意が逸れるくらいには平穏を取り戻す。
既に数日ティリセンで夜を明かしているアデルが言うのだから間違いはないのだろう。
「内側から窓を開けなけりゃ大丈夫な筈だ。誰かが洗脳にかかっても、あれだけ使用人が待機してるなら取り押さえられるだろ」
窓から少し離れた位置に燕尾服を纏った男性達が二人ずつ配置されているのが伺える。
彼らを含め、おかしな動きをした者がいれば即座に止めに入れるよう万全の体制が整えられているのだ。
「フィルもいるしね……。あ、手振ってる」
ホールを擁するように伸びる階段の先、吹き抜けになった二階に立つエルフ。
アカリとアデルを見つけたようで満面の笑みになり、両手を振ってきている。
――アイドルかな?
思わずそんなツッコミが喉から出かかるも、この場に『アイドル』なる単語が理解できる者がいない事を思い出して言葉を呑み込んだ。
とりあえず普段と変わらずのほほんと過ごす姿に癒されはするので、何だかんだで思わず手を振り返しはする。
「フィルってさ、存在自体が癒しだよね。なんか人形っぽいっていうか」
同じく横たわるアデルが首を傾げ、階上に立つ件の人物を二度見した。
直後、考える仕草。
「あー……確かに女はああいうの好きそうだな。よく教会にいた女のガキが持ってる着せ替え人形にあんなんいた気がする」
「着せ替え人形」
思わず吹き出すが、確かにアカリも幼少期に金髪の着せ替え人形を気に入ってよく遊んでいた。
「何か本当に着せ替え人形にしても怒らなそうだよね」
「あー、絶対怒らねぇわ。アイツが怒った所なんか滅多に見ねぇし」
話題になっているエルフを一瞥し、深い溜息をつくアデル。
つられるように、アカリももう一度視線を上げる。
「……だからこそ好きな小説としてあたしの心に残ってたって考えると、皮肉な話だよね」
身体を休める以外に特にする事がなく、眠気も未だに訪れないため会話が途切れない。
「あたしには真似できないなって思いつつ、憧れはするよねー。……特別大切な人のためならまだ頑張るかもしれないけど、分け隔てなくなんて絶対無理」
間髪入れずに二回も首肯するアデルを見て、何だか安堵した。
フィルの一番側に居ただろう彼なら、共感してくれると思っていたからだ。
「それな。……最近お前にもあいつにも、城で『逃げ遅れてヘマした』事を言われるけどよ」
未だにアカリとフィルを庇ったとは言うつもりがないらしい。
もはや意地なのだろうかと勘繰っている間にも彼は話し続けているので、ひとまず耳を傾ける。
「後ろにいるのがお前ら二人じゃなかったら逃げ遅れなかった、そう断言出来るぜ。……なのに、称賛されてもな」
バツが悪そうな面持ちで伏し目になる彼を見て、古城で彼が気絶している間フィルと会話した時の事を思い出した。
あの時のアカリは自分とフィルの善性を比べてしまい軽く自己嫌悪に陥ったが、もしかすると目の前の彼も今似たような状況にあるのかもしれない。
――だとすれば例の飴玉についての感想等小さい事も含め、アデルと感性が似ているのかもしれない、とアカリは思った。
「それでいいじゃない。あたしも多分、嫌いな人と一緒だったら最後まで戦えなかっただろうし。あたし達はフィルみたいな善人にはなれないかもしれないけど、他を見ない分大切な人を守る事に集中しようよ」
アデルを慰めるようでいて、自分に向けた言葉なのかもしれない。
だが、気持ちに嘘はなかった。
「……大切な人か……」
「博愛主義も結構だけど、人類全てなんて救える訳ないんだし。割り切った分自分に出来る全てをかけて少人数を守り抜くの」
数秒程は目が自らの手元に伏せられたままであったが、やがてアデルは自信を取り戻した様相で顔を上げる。
「……たまにはいい事言うじゃねぇか、アカリ。フィルといると洗脳されそうになるが、お前がいると自分を思い出せるわ」
『たまに』は余計だが、言われた本人も悪い気はしていなかった。
二人で話題の人物を同時に見上げると、彼は何やら慈しむような眼差しで此方を見下ろしているようだ。
「自分にできる全て、か……」
先に視線を外したアデルがひとりごちた直後だった。
――リン、
鈴の音。
館内の誰かが所持している訳ではない。
外に設置した鳴子に、何者かが触れたのだ。
「……来た……」
アデルとの会話に集中していたため意識の外に追いやられていた他の人々が、存在を主張し始める。
数秒前まで小声で雑談していた空気が一瞬にして張り詰め、周囲の誰もが身を強張らせた。
「――大丈夫、貴方達は偉大なる月神レネティースに守られています。不浄なる者の呪歌になど惑わされず、ただ一心に神に祈りを捧げてください!」
今のフィルには普段の色々と緩慢な雰囲気が一切感じられず、厳かに説教を説く姿はいかにも聖職者然としている。
普段が素なのだろうが、人々の不安を煽らぬよう意図的に厳格に振る舞っているのだろう。
人々が横たわったまま瞼を降ろし、両手を組んで祈りを捧げ、アカリもそれに倣う。
目を閉ざす途中でアデルも無表情気味に同じ所作をする姿が伺えたが、内心でも嘘偽りなく月の神とやらに帰依しているのだろうか。
――視覚が閉ざされれば、聴覚が冴えるものだ。
暗闇に音だけ、そんな世界は想像を掻き立てる。
不規則に、不揃いに鳴り続ける鈴の音。
次々と鳴子を踏み越える手足は全て粗末な枝で、磔にされたそれは自由に曲げられず、ガタガタと不格好に全身を揺らしながら縄に引っかかり地面に倒れ込み、それでも全員が全員執念深く立ち上がって、または這ってただ一人の脱落者もなく屋敷に向かう。
微かに、遠巻きに歌も聞こえてくるようになった。
足並みはてんでバラバラの癖に、四拍子の軽快なリズムは一糸乱れずに維持されている。
――びたっ!
ひとつ、小さな破裂音めいた音が聞こえた。
続けて、ふたつ、みっつ、よっつ――雨脚が強くなっていくように、次第に間隔が短く勢いを増していく。
やがて屋敷まで到着した案山子の数が増えれば、壁を叩く音と振動はもう回数の区切りを付けられない連続となり、容赦なく人々の精神に降り注いでいく。
――だが、それは唐突に遠退いていき――否、人々の聴覚から悉く排除された。
見目麗しい森の妖精らしく、男女ともつかぬ澄んだ美声。
人々が寝静まる静かな夜に遥か彼方の空から慈愛と共に人々に降り注ぐ月光のような、穏やかで優しい旋律。
呪歌に惑わされざわめいていた心は神に導かれるまま、安寧を取り戻していく。
もう、屋敷の外から発した音は完全に遮断された。
あとは偉大なる神に身を委ね、安らぎのままに朝を迎えるだけだ。
そう、この場の全員が思っていた。
――ガチャリ、
屋敷の奥側からドアノブを捻る音がした。