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向こう岸へ

「……気持ち悪い……」




 第一声はそれであり、また異様な光景を前にした衝撃が大きすぎて、それ以外の形容詞が全く出てこない。


 ようやっと届いたランタンの光が照らし出すのは、壁一面が蜘蛛の糸のような、それにしては一本一本が太い粘性の何かで縦横無尽に埋め尽くされている様相だ。


 腐肉めいたくすんだ青緑色の、それでいて質感は植物の繊維に似たそれらは複雑に絡み合い、壊れた椅子やら絵画やら人骨やらを絡み取って壁面に縛り付け、不揃いで悪趣味な無機物の標本を作り上げていた。


「通って大丈夫かな、これ……」


 不安げに呟くアカリ。

 正直安全性を保証されてもこの不気味極まりない空間を通りたいとは思えないが。


「中腹あたりの床が抜けているようですね……。

 ここからだと大きさがよく解りませんけど、飛べる高さなら良いのですが」


 床は一階と同じく、白い木材でできている。

 白いと言っても狭間の図書館にある本棚のような不自然な白さではなく、微かな赤みを残した現実味のある木の白さだ。

 渡り廊下もまた同じ素材が続いており、恐らくは経年劣化で腐食し崩落したのだろうと予想できる。


「床が抜けないか心配ですが、戻るよりかはマシですかね」


 一階に戻って再び渡り廊下を目指すとなれば、言わずもがな敵に遭遇する確率が上がる。

 しかも、リスクを負って一階に降りたところで渡り廊下の状態がここより良いという保証は全く無い。


 それならば、ひとまず床の状態を確認してから判断しても遅くはないという暗黙の了解が生まれたのか――全員が目を見合わせて首肯。


「どうする? 俺一人で行くか?」


「見た感じ、まだ足元は頑丈に見えますし……ひとまず全員で大丈夫だと思います」


 方針が決まれば廊下に向き直り、それぞれが一歩を踏み出した。




 †




「うーん、確かに傷んではいるけど……やっぱり抜けそうな感じはまだしないね。」


 一分程度は歩いたが、床は微かに軋む音を立てつつも踏み抜いてしまうような事は一度も無かった。


「もうすぐ崩れた場所に着きますが、一部だけ痛んでいたんでしょうかね?」


 こうしてフィルと会話をしていても、周囲の惨状にどうしても目が向く。

 たった今口や目に糸が入り込み壁の一部となった白骨死体を通り過ぎ、アカリは思わず小さく呻いた。


「着いたけど、三人程度じゃ崩れる痛み方してねえな。一体何したらこんな大穴あくんだよ」


 最初にアデルが足を止め、次いで後方の二人も同様にする。


 ぽっかりと口をあけた目の前の穴は長さこそ五メートルに満たない程度だが、幅は壁まで到達していた。

 やや壁際に寄れば長さは少し短くなるが、穴周りの床は流石に脆いだろう。

 よって少し早めに飛ばなければならない。


「俺は余裕だけど、お前らはどうなんだよ」


 猫の跳躍力の秀出ぶりは素晴らしいが、猫の特徴を持つアデルもまた、恐らくは難なく穴を飛び越えられるのだろう。


「あたしも助走つければ多分いけるかな……」


 アカリが高校の授業の走り幅跳びを思い出しながら、微かに見える向こう岸とこちら側の床を見比べてひとりごちる。

 そしてごく自然に、二人の視線は先程から全く喋らないフィルへと集まってしまう。

 注目の的となった彼は普段通りの柔らかな笑みを浮かべていた。


「骨は拾わなくて結構ですよ」


「何でよ」


「気合で飛ぶか無理なら一階目指すぞ」


 さらっと辞世の句ならぬ辞世の言葉を告げた彼に、すかさず二人分のツッコミが入る。


「ふふ、半分は冗談です。

 けど正直向こう側の床次第ですかね……。

こちら側と同じくらいの強度があれば良いのですが」


 可笑しそうに小さな笑声を零すエルフに呆れた眼差しを向けながら、アデルがかぶりを振った。


「俺が先に行って確かめるからお前らは待ってろ。足踏み外して死ぬとかゾンビに襲われるより死に方ダセェぞ」


 肩を竦めた後、獣人の青年が一歩前に進む。

 たいした助走もつけずに地を蹴り、軽々と跳躍するまで一瞬であった。

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