プロローグ※
屍を拾い集めて無作為に接ぎ合わせたような――否、事実そのままの意味の巨躯の異形が、対峙した少女に掴みかからんと青緑色の腕を伸ばす。
傷だらけの両脚は恐怖に戦慄いて、今にも崩れて地に膝をつきそうだ。
だが、視界の端には既に膝を折った二人がいる。
本来死ぬべきだった一人と、たった一人で敗走する運命にあったもう一人。
運命は変わった。
ここまで生きた。
今、自分は彼らと同じ舞台に立っている。
同じ時を生きている。
こんなところで二人を奪われたくない。
だから、震える両手で全く馴染まない剣を必死に握りしめた。
†
時はそれから一日程遡る。
冷えた風やそれに運ばれてきた枯れ葉達が窓を打ち、軽い衝突音が響く。
日が落ちるのが早くなり始めた秋の空は、もうすっかり黄昏色に染まりきっていた。
「はぁ……」
微かな、されど憂鬱さを微塵も抑えない溜息。
あまり広くない部屋にはその程度でもよく通るものだ。
綺麗に片付いている、言い換えれば17歳の女子高生が住んでいるとしては殺風景気味な部屋の一角に置かれた勉強机。
溜息の主はそこに向かって、季節柄紅葉を連想させるであろう色合いの制服姿のまま着替えずに腰掛けていた。
「明日嫌だなぁ……。あーー、ほんっと最悪」
項垂れた拍子に、背で切り揃えられた明るい長髪が一束流れる。
帯びた哀調の深さは溜息と実に良い勝負だ。
が、食傷っぷりも捨て鉢っぷりも微塵も隠さない無遠慮さが、少女性という神秘を完膚なきまでに破壊していた。
とりたてて美人という訳ではないものの、よく他人に羨ましがられる丸くぱっちりとした目も今は完全に死に、これでもかという程に細められている。
何故こんなにも少女――小流灯璃が憂鬱なのかと言うと、明日の授業に苦手なプレゼンを控えているからである。
ただただノートに興味のない発表の内容を書き連ねる今の作業自体もだいぶ苦行なのだが、それよりも何よりも明日だ。
明日、大勢の前で注目を浴びながらひたすら緊張し、ノートと睨めっこをしながら『早く終われ』と呪いのように脳内で唱える、そんな拷問を受けている自分の姿が目に浮かぶ。
元々発表はあまり得意でもなかったが、中学でイジメを受けて以来余計に注目を浴びるのが嫌いになってしまった。
高校に上がってからは幸いターゲットにされる事は無かったが、クラスに友達はおらず二年生になった今でも孤立状態のため余計に浮くのが目に見えていた。
ならもういっそズル休みでもしようかと考えなかった訳ではないが、休んだところで発表日が後日に回されるだけだ。
流石に発表のためだけに、受験して勝ち取った高校入学及び将来を全部かなぐり捨てて不登校にはなれない。
よって、諦めて作業に打ち込み明日の処刑に臨むしかない。
幾度目か解らない、深い嘆息。
机に置かれているのは、既に一時間以上は眺めている図や表がメインの資料と、資料への補足を実際に読み上げるために内容を書き連ねている途中のノート。
罫線の合間にシャープペンシルが向かい、だがしかし黒鉛は紙面に触れず中空を彷徨い、やがて倒れる。
一向に文字は増えない。
「……駄目だ、流石に集中力死んだ……。慈悲の神様フィル様助けてくださーい」
再び深く嘆息してから一旦腰を上げ、床に置いていた学生鞄から白い不織布の小包を取り出す。
個包装された黄緑色の丸い飴玉はまるで白葡萄のようであるが、実際これは白葡萄を用いたワインの味である。
口に入れれば仄かに広がる葡萄の風味と飴ならではの糖の甘み。
だがそれよりも、どうにも形容しがたい酸味と苦味が口腔を満たす。
飴にする過程でアルコールは飛んでいるが、それでもただの果汁とは違いすぎた。
有り体に言えばあまり美味しくない。
近場で一番安物の葡萄飴を見繕った方がまだ美味しいだろう。
だがアカリにとって、ある理由からこの飴を食す事が自分自身を鼓舞する儀式となっているため、美味いか不味いかは完全に――とは言わないまでも、食べられる範囲であれば度外視しているのである。
「――『これで僕に月神の加護がもたらされるでしょう』! よっし、推し様ありがとうございまーす! もうひと頑張り――」
口から飴玉が消えるや否や、アニメや漫画の中でしか言われないであろう、しかも実際それがマイナーネット小説(しかも未完で放置)の一文であり誰にも通じないだろう台詞を一人で声も潜めずに言い放つ。
もはや狂気である。
だが今は家にアカリ一人きりだ。
狂っていようがやりたい放題である。
人生は一番上手に狂えた者が優勝だ、くらいに思わなければやっていられない気分なのだ。
ともあれ一息つき、最後にまた一粒だけ飴玉を口に放り込んでから勉強机の方に向き直る。
どう足掻いても再開したくない作業ではあるが、やはり休息を挟む以前よりは胸中に渦巻く厭悪も多少は軽くなったように感じていた。
――よし、今なら出来る。
そう意気込んで開いたままのノートに目を落とし、
次の瞬間、全く予想外の出来事に思考能力が消失した。
開きっぱなしのノート。
何の変哲もない量産品のそこには、機械的に引かれた罫線とシャープペンシルで綴られた文字が広がっている。
――筈だった。
『ごきげんよう、彷徨える魂の君!』