白と黒とほんの少しの紫と※
自室のノートから聞いた時とは違い、男の声は直接鼓膜を介して聞こえてくる。
つまり今度は肉声であり、発している本人は本を介さず同じ世界から直接語りかけてきているという事だ。
声の方角は光の中心。
見遣れば、光源である黒い燭台――ただし炎の色は白――が置かれたテーブル、その側の椅子に腰掛ける男の姿。
彼のみがこの空間で、アカリ以外に生物めいた色彩を持っている。
色々と特徴のある姿だが、まず紫色の髪が目を引くという事実が余計にそう思わせるのもあるだろう。
件の彼を間近で見ると、大人びた声の割には幼い印象を受けた。
顔の上半分を覆う仮面のせいで顔立ちはよく解らないが、肌艶や線の細さからするとアカリと同年代くらいだろうか。
そんな不思議なアンバランスさを持つ悪魔の男は、絵で見た時と変わらない様相で口元に笑みを形作っていた。
ひどく血色が悪い青白い肌色のため、この薄暗い空間では幽霊じみた不気味な印象も割増で感じられる。
「ん、……」
アカリはとりあえず喋ろうとして、くぐもった一声のみを出してやめた。
手を前に出し、『待って』の意思表示。
自室で食べていたワイン飴もどうやら一緒に来てしまったようで、まだ口の中に残っていた。
よく見れば手に持った不織布の包みも、金色のキーホルダーのついたスポーツバッグ状の学生鞄まで一緒に来てしまったようだ。
「はは、ゆっくり味わいたまえ」
他の飴なら急いで噛んでも良かったが、この飴は並外れて硬いのである。
噛もうにも容易には砕けず、うっかりしていると歯から滑らせて喉に詰まらせそうだ。
よって、愉快そうに肩や矢じりを思わせる尻尾の先を揺らす悪魔の言葉に甘えて、待ってもらう事にする。
「では飴玉が溶けるまでこの場所の説明でもしようかね。……ここは様々な世界が本の形で観測できる場所。この辺りの書架は創造主にうち棄てられ時が停滞した世界達が収められている」
あまりにも非現実的な内容でアカリはひたすら呆然としているが、五感は冴えておりそれが夢ではない事を物語っているのだった。
混乱も動揺もあるものの、ひとまずは話に集中するとして、残りの飴玉が入った不織布の包みを制服のポケットに突っ込んだ。
「生きた世界への道となる書架もまた存在するが、あちらはあまり長居したくないものでね……。そちらがお望みだと確定したら案内するのだよ」
悪魔が手を組み、その上に顎を乗せ頬杖をつくのと同時に、テーブルの奥から一度引っ込んだ尻尾の先が再び覗く。
聞き手であるアカリはというと、ようやく口内の飴玉が消失し喋れるようになったところだ。
「えーっと……色々唐突すぎて受け入れきれてないんだけど……夢ではない、んだよね?」
ははは、とすかさず愉快そうな笑声が悪魔から溢れる。
「どこの世界から訪れても夢に例える者が多いのは面白い。だが勿論、夢ではないが夢だった事にして元の世界に帰っても良いのだよ?」
正直この男の怪しさ満点っぷりからして、帰る選択肢もアカリの中で捨てきれない。
が、どうしても気がかりな点があったため彼女は頷かずに問いかけた。
「……あのさ。行きたい世界に行けるって言ったよね。それって例えば小説の……ううん、小説にすらなっていないというか……、世に売り出されていないような作品の世界でも、行けたりする訳?」
「勿論だとも」
即答には思わず目を丸くする。悪魔は楽しげに笑い、続けて問うてくる。
「その様子だと、既に行きたい世界の明確な希望があるようだね」
アカリは小さく、だが間髪入れずに頷いた。
仮面の内の瞳は伺えないが、目があるだろう位置を真っ直ぐに見据え。
「ネット小説の投稿サイト『小説家を目指そう』に投稿されてた、『遺跡世界アドロスピア』って小説なんだけど……」
訥々と、件の小説について語る。
とはいえ、伝える内容が数分で尽きてしまう結果となった。
何しろこの小説、書籍化やアニメ化もされておらず何かの賞を取った訳でもなく、それどころか未完のまま放置されているのである。
当然マイナーすぎて周りにもネット上にも話題に出す者はおらず、アカリ本人も偶然更新されていたタイミングでたまたま見つけて読んだだけであり、ランキング等から見つけ出した訳ではない。
知る人ぞ知る、というか―――
「君だけが知る世界という事かね」
「うん、ほとんどそう。下手したらあたしと作者しか知らないかも」
悪魔の一言に迷いなく頷ける程の知名度。
何回か家族の前で話題にした事もあったが、十中八九忘れ去られているだろう。
そんな世界を挙げた事に疑問を持たれるかと思っていたが、予想に反して仮面の彼は質問を投げかけてはこなかった。
「君だけに望まれた世界、か。アドロスピアだったかね、その世界も中々幸せ者ではないか」
アカリは目を丸くし、
「……え、何でそんなマイナーな小説がいいの、とか訊かないの?」
思わず感じたそのままを相手に問いかけた。
が、問われた本人は口元に弧を描いたままで何ともないように答えたのだった。
「何を愛し何を望むかは魂それぞれの個性ではないか。何故咎めるような言葉を告げねばならないのかね」
言われた直後の数秒は、あまりにアカリのいた世界の人々――主に現代を生きる日本人と反応が違いすぎて戸惑っていた。
が、ややあってそれが不愉快な感覚ではなく、むしろどこか安寧にも似た、満たされるような感覚だと気づく事になる。
――『私と対話出来ているという事はつまりだ。君、魂が異世界に惹かれているのだろう』
狭間の図書館に来る前に、悪魔に言われた一言を思い出す。
入口である本のページに、惹かれるように触れてしまった理由も――今なら何となく解る気がした。
アカリは、窮屈な世界に嫌気が差していた。
それを見透かしているのか、悪魔は笑って言う。
「少なくとも今この場に君を否定する者は存在しないのだよ。安心して願望をありのまま告げたまえ」
色のない炎が、矢印めいた尾が揺れる。導かれるようにアカリは仮面を真っ直ぐ見据えて口を開き、こう告げた。
「あたし……助けたい人がいるの」
アカリの淀みない表明は、停滞していた空気を震わせる。
宿る意志そのままを表したような声に、悪魔が興味深そうに笑みを深めた。
「ほう、助けたい……か。先の話の通り、もし本当に作者が執筆を放棄しているとしたら――あるいは可能かもしれないのだよ」
そもそも明確に死んだと書かれていたキャラクターであるために、救済は不可能だと言われる可能性も考えていた。
のだが、先の悪魔の発言である。
思わずアカリは歩み出て、勢いよく白い丸テーブルに両手をついた。
「本当っ? その人小説の中で死んじゃうんだけどっ!」
木板が打たれる軽やかな音と、直後の「おおっ」などという悪魔によるやや大仰な、それでいて愉快げかつ控えめな声量の驚愕。
傍らに置いた燭台が揺れるも、彼がさり気なく伸ばした手により転げ落ちるには至らなかった。
「君の動き次第だが、おそらく不可能ではないだろう。――さて。理屈なり何なりは、移動しながら説明しようかね。そろそろ実際に件の世界をこの図書館から探したいだろうし……」
転倒を止めた手でそのまま白黒の燭台を掴み、悪魔の男が立ち上がる。
それに伴い、改めて周囲を見渡してみるも――蝋燭で照らされた半径5メートル程の範囲内しか視認出来ない。
隙間なく立ち並ぶ巨大な本棚には大小の背表紙達が所狭しと並び、床もまた単調な市松模様のパーケットリー。
それ以外、天井や進行方向には茫漠とした闇が広がるだけだ。
そして何より、改めて思うが彩度が全く無い。
何もかもが停滞し、石化したような――まるで生の気配がしない空間に、鳥肌が立った。
「はは、怖気づいたかね。……燭台は君が持ちたまえ、光が手元に無いと不安だろう」
燭台も炎もまた色彩を欠いているが、手渡してきた男は――本来、紫色の髪や悪魔めいた風采は不気味である筈なのだが、風景との相対で安心感を与えてくれた。
それに加えて、不安よりも遙かに膨大な高揚感。
礼を告げ燭台を受け取る際に見上げた瞳には、よく心情が映りこんでいただろう。
「まあね、やっぱりここ不気味。でもね……それ以上にワクワクしてる。異世界に行けるなんて、普通に生きてたらまず体験できないもん」
伝えた正直な内心に満足したのか、悪魔の口元の笑みが深まる。
やがて踵を返した悪魔をすぐ追い始めるも、ふと足元に金色の反射光を見咎めた。
その正体はどうやら自分と一緒に連れてきてしまったらしい学生鞄であり、ファスナーにつけていた金色の――葡萄と月をモチーフにした、先程までアカリが持っていた飴の袋と同じく『御月ワイナリー』と銘打たれた透かし彫りのキーホルダーが光を反射したらしい。
少し迷ったが、何が起こるか解らない中教科書入りで重いだけの嵩張る荷物を背負う気にはなれず、そのまま置き去りにする事にした。
そして悪魔に思うままに進むよう言われ、言葉のままに歩き出したのである。
「……その小説、登場人物が二人しかいないんだけど……主人公の猫獣人アデルと、友達の……エルフの僧侶フィルナート。」
男に、『遺跡世界アドロスピア』について語り始める。
アカリの視界から外れないためであろう半歩前を歩く背に、時折振り返る青白い顔に。
「死んじゃうのはフィルの方で……。古いお城に入るんだけど、太刀打ち出来ないゾンビの寄せ集めみたいなでかい敵が出てきちゃって。アデルを庇うために、自分が犠牲になるんだよね」
語り続ける間も歩を止めていないが、全く景色が変わらない。
本当にこの膨大な、無機質な本の羅列から目当ての品が見つかるのかと不安になってくる。
「アデルの方はそのお陰で生きてお城から逃げ帰るんだけど……。小説ここでエタって……じゃなくて投稿が数年前で途切れてて。何か、お城の不気味さとかゾンビの恐ろしさの描写がリアルで上手かっただけに、フィルが振り絞った勇気が直に伝わってきちゃうというか……。」
黙って耳を傾ける悪魔に一方的に話すうち、思い出しながら当時のやるせない感情が蘇ってきてしまったアカリは、その内心を声音から隠さない。
「何でそんな怖い敵相手に命がけで友達守るようないい人が死ぬ訳? って思うのもあるし、せめて生き延びたアデルが冒険続けてれば多少は報われたかもしれないのに、そこで更新終了とかあまりに悲しすぎるでしょ」
途中から取り留めがなくなり、本の内容というよりはアカリの不完全燃焼気味な感想を述べている状態になっていた。
だが、悪魔は聞き流したりせず興味深そうに耳を傾けている様子だ。
「とにかく二人とも生きて冒険を続けてほしくて仕方なくて。だからフィルを助けられたらいいなー、って前から思ってたの。小説の中だからどうしようもないって解ってるんだけどさぁ……」
ふむふむ、などと相槌を打ち、足を止める事もないまま唐突に、悪魔は変わらぬ薄い笑顔のまま振り返った。
「で、君の世界――カルールクリス、といったかね。かの世界ではフィルのように助けたいと思えるような心優しき人間は存在しないから、異世界に赴きたいと」
アカリは目を丸くする。
アカリの元いた世界を恐らく呼んだのだろうが、あまりに耳慣れない名で面食らったというのが一つ。
だがそれ以上に、まさしく図星であった事実をより気にしてしまう。
半ば無意識に、怪訝そうな眼差しが悪魔に向かった。
「失礼、深淵に飛び込む程に強く異世界を望むというのは――言い換えれば、願望と同じだけの絶望を現状に抱いているという事に他ならないだろうからね。……気分を害したかね、それなら謝ろう……ふふ。」
男はまた前方に向き直り、歩みを進める。
一度止まりかけたアカリも我に返り、再び一歩を踏み出しつつ自嘲気味に笑って答えた。
「色々見透かされるのは得意じゃないけど……今に限ってはいかにもファンタジーに出てくる悪魔、って感じでかえって信頼できるかなぁ。色々先回りされた方が希望する世界に辿り着けそう」
隣に辿り着いたアカリに、仮面の下で悪魔が一瞥をくれた気配を感じた。
直後に小気味よい笑声。
「ははは、君は中々に面白い。……さて、滅びた城で命を落とす心優しい妖精の死に心を痛め。感動を、彼の勇姿を誰かに語りたくとも同胞には見向きもされない。望むものは元来た世界の何処にもありはしない――ならばそれらを振り返らずに、ただ一心に楽園を求めたまえ。君にとって無価値な某が何と言おうと、君の心には響くまい!」
高らかなテノールの声がアカリの心に一切の嫌悪感なく浸透する。
無名で未完の小説は、またそれに魅せられたアカリの心は、昔の自分の生き様のように誰にも受け入れられなかった。
だが、今は聞いてくれる人がいる。
素直な想いを、一切否定せずに。
心を肯定してくれる。
だから、思うまま求める事ができる。
――ふと、少し先の床に横たわる何かを発見した。
燭台を掲げ光を向けると――判然としなかった輪郭が形を成し、やがてそれが一冊の本であると理解出来た。
「……もしかして」
口調こそ断言ではないものの、アカリには何故か床に横たわる一冊が目当ての品である気がしてならなかった。
他の本と同じ白一色で、装丁に差異がある訳でもない。
それでも何故か――妙に懐かしいというか、心惹かれるというか――形容しがたい魅力が、アカリを引き寄せるのだ。
本能に抗う事はせずに、一歩、また一歩。
近づいて、近づいて、やがて本を手に取った。