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グウェンはアストールの伯父、エルシェンバード公爵の背後に立ち、観衆で賑わう神殿前の広場の桟敷席で巫女――エヴィーが『女神の塔』を上っていくのを眺めていた。公爵の隣にはアルバドスの執政官を名乗るウィズールがいる。
本当はアストールと共にいたかったが、『公女アスティア』に近しい者が誰も聖大祭にいないのは不自然だというアストールの主張に従った。グウェンは『公女アスティア』が表に出る時には護衛としてそばに控えていることが多かったので、公爵もウィズールも不思議には思わなかったようだ。巫女は神官の他は誰も近づけてはならないので、今日だけはこちらに来ていると思ったのだろう。
グウェンにとって、アストールの存在は自らの生命よりも重い。
十数年前、相次いで親を失い路頭に迷った上に、怪我をして動けなくなっていたところを助けてくれたのが幼いアストールだった。その『奇跡』の力で救われたグウェンは、アストールの為ならば何でもするつもりで生きてきた。今回の一件も、もしも少しでもアストールが嫌がる素振りを見せようものなら、公爵を殺してでもアストールの意を通そうと思っていたが、予想に反してアストールが望んだのは身代わりの少女を連れてくることだった。
事情を察しているであろうレイはともかく、エヴィーには悪いと少し思う。だが彼女には何の思い入れもない。アストールが望むこと、それがすべて。
エヴィーが身にまとう白い巫女の衣装が徐々に小さくなって、曇り空に吸い込まれてゆく。
「……雨にならなければ良いですな」
それまで黙っていたウィズールが口を開いた。
国王ヴォルフィウス十三世の失踪後、いくつかの小さな組織に分かれ、倒れていった政敵を踏み台にして執政官の地位を得た男だ。年は三十を超えたばかり。その若さを武器にし、島民からの人気は上がってきているが、その座は今のところはまだいつ失ってもおかしくないほど不安定なものでしかない。王政を廃止し、共和制への移行を唱えてはいるが、未だに根強く残る王家への親愛を持つ人々の反感を買いたくないが為に手をこまねいているのが現状だ。その共和制への移行にしたところで強い信念を持っているわけではなく、それを一つの材料にしてこの島の覇権を確実なものにしたいだけなのだ。だからこそ、『公女アスティア』を聖大祭に引っ張り出すなどということも平気でやってのける。
「無事に神事を終えられたら、公女殿を花車に乗せてレスタの街を一周しなければなりませんが、雨となるとそれも難しい」
「そうですな。そこはアスティアの『奇跡』の力に期待するしかないでしょう」
呑気に答える公爵の言葉に、グウェンは内心で笑った。
「ところでグウェン、アスティアの調子はどうなのだ?」
「……どう、と仰いますと」
「先日、巫女の話を持って訪ねた時、風邪をひいたとかで声も少しおかしかったし、立ち上がりもしなかっただろう。元々あまり丈夫でないのは知っている。その後、体調は回復しているのか?」
今更何を。そう思ったが、グウェンは表情を変えることなく言った。
「問題ありません」
エヴィーなら健康そのものだ。
「そうか。それなら良いのだが」
「まあ、『女神の塔』に上るとなると相当な体力が必要ですからな。普段あまり外においでにならない公女殿にとっては、大変なことでしょう」
「そうなのです。私もあまり構ってやれませんので心配ではあるのですが、この聖大祭の巫女となると名誉なことですので、本人もやる気になったようでして」
反吐が出る。
無表情なのは生まれつきだし、感情を表に出さずにいることは苦ではなかったが、この二人の会話は聞いているだけで苛立ちが増すばかりだ。気を紛らわせようと塔の上部に目をやると、エヴィーが頂上に辿りついたようだった。
「……到着されたようです」
「おや」
グウェンの声に、二人は上空を見上げた。
エヴィーが舞い始めた。その姿はすっかり小さくなってよく見えないが、時折白い裾がひらひらと揺れるのがわかった。エヴィーが石段をのぼりはじめた頃はざわめいていた観衆も、彼女が上へ上へと向かうにつれ、その緊張が伝染するように静まり、今では固唾を呑んで彼女の舞を見守っている。
十数日で叩き込まれたにしては、それなりに様になっているようにグウェンには思えた。もっとも、グウェンとて前回の聖大祭の記憶はあってないようなものなので、その動きが正しいのか間違っているのか判然とはしなかったが。
いくらかの時間が経った頃、広場の観衆が再びざわめきはじめた。ありえないはずの羽音が聞こえる。遠かったそれは瞬時にグウェンたちの頭上に到達し、制止の声をあげる間もなく巫女を抱きかかえて西の空へと飛び去った。
「…………何だあれは?」
呆気に取られたように公爵が呟く。
それはウィズールも周囲の観衆も同じだったようで、皆一様に呆然とそのさまを眺めていた。一瞬おいて、地の底から湧き上がったような怒号や悲鳴が飛び交い始める。
「どういうことだ……? 巫女が……!」
ウィズールがうろたえたように辺りを見回した。
「追え! 早く!」
誰かが叫んだその声を合図に、広場に押し寄せた観衆を整理する為に借り出されていた若手の神官たちがその背に翼を現し、飛び立っていった。白い羽が何枚もあたりに飛び散り、白く染まった視界は混乱を更に加速させる。我も我もと後に続こうとした若者が翼を広げたが、騒ぎを聞きつけて出てきたカーディスがそれらを一喝した。
「静かに!」
水を打ったように一瞬で静まり返り、新しく登場した主が場を支配する。
「本来ならこの日は、我らに翼を与えてくださった女神に敬意を表し、人として静かに暮らさねばならぬ日。無闇に翼を広げることは感心できません」
「ですが大神官様。今の者は聖大祭を汚しました。神殿に対する冒涜でもあります!」
「そうです。ですから、神殿の者が手を打ちます。皆さんは静かに、ただ女神の御心を信じてお待ちなさい」
今にも飛び立とうとしていた若者たちが翼をおさめると、カーディスは彼らに向けて深く頷いた。
「こうした非常の時にこそ、人は試されます。落ち着いて、逸って行動を起こさないよう務めてください」
カーディスは言い残し、また神殿へと入っていった。
混乱はやや落ち着いたようだったが、それでもまた密かにざわめきは生まれ、人々の合間を駆け抜けていく。誰もが主役の消えたその場を立ち去ることが出来ずに、どよめきが尾を引いて、まるでいつまでも消えない火種のように。
「どういうことだ! 何者だあれは!」
「聞きたいのは私の方だ!」
公爵とウィズールは、互いに責任を擦り付け合うように相手を問いただしている。二人だけではない、何の関係もない島民たちまでもが、目の前で起こった椿事に興奮し、喚きたてている。
「聖大祭が……! 『奇跡の公女』が……!」
収拾のつかなくなった広場を見回し、グウェンは踵を返した。
「グウェン! どこへ行く!」
「アスティア様を探しに参ります。では失礼」
アストールも、きっとどこからかこの光景を眺めているだろう。