(2)
朝からアストールとグウェンの姿が見えないことにレイは気づいていたが、エヴィーには言わなかった。
どうにもあの二人は信用ならない、と思う。
元々、妙な仕事だったのだ。――わざと捕まれ、など。
アストールの顔を見て合点はいった。彼のことは知らなかった。ただ、エヴィーを連れてエルシェンバード公爵家の別邸に忍び込め、とそう言われただけなのだ。
身代わりを依頼するなら正攻法でも良かったはずだが、ただ普通に依頼しただけではおそらくエヴィーは引き受けまい。彼女は翼を持たないことに激しい劣等感を持っており、この島に複雑な思いを抱いているようだ。聖大祭の巫女など、彼女が最も避けて通りたいものだろう。金を積んで依頼するのでも、ただ拉致して強要するのでもなく、弱みを握る形で相手を操縦しようというアストールの意図を、レイはなんとなく理解出来たつもりでいる。
この邸に『女神の涙』などないことを、レイは最初から知っていた。エヴィーが食いつかなければ意味がない。それならば、島に住む者なら誰でもその重要性を知っているものにすればいい、そう言ったのはアストールの側だ。
あの晩、レイは初めてアストールに会ったのだが、その演技力には心の底から感心した。よくもまあ、あそこまで『偶然出会った振り』ができるものだ。そして同時に、彼を信用することをやめた。
エヴィーの部屋の窓から、神殿の馬車が遠ざかり角を曲がってその姿が見えなくなるのを眺めていると、見送りに出ていた侍女の一人が戻ってきた。
「……オルレード様」
この部屋に彼がいるとは思わなかったらしく、驚いたように足を止める。
「どうした? エヴィーは行ったんだろう?」
「あ、はい。ただ、これを」
「何?」
「神殿からのお迎えの方に外していくように言われたので、お部屋に置いておいて欲しい、と」
そう言って彼女は、手にした鍵を見せた。いつもエヴィーが身に付けているものだ。
「じゃあ俺が預かっておこう。それはエヴィーの大事なものだ」
「そうですよね。いつも持っていらっしゃいますもの」
侍女の少女は安心したように微笑み、レイに鍵を手渡した。
「すみません、それじゃよろしくお願いします」
「ああ、エヴィーが戻ってきたら俺から返しておこう」
侍女が下がるのを見送って、レイは受け取った鍵をしげしげと眺めた。掌にすっぽり収まるほど小さな真鍮の鍵は、鈍い光を放っている。握りの部分に円蓋状の飾りがついており、それを取り囲むように凝った紋様が掘り込まれている。
ヴェールンの街でエヴィーと知り合ったのは偶然だった。使っていた時計が壊れ、修理屋を探して彼女の部屋を訪れた、それだけだった。その手先の素早さに驚嘆し、試しに錠前を破れるかと尋ねてみたら、エヴィーは少し考えてから、破れると思う、と答えた。手に入れたは良かったが、開かないまま放置してあった宝石箱を持ち込んでみたところ、彼女はあっさりとそれを開けてみせた。以来、錠前破りを必要とする仕事には彼女を同行するようになった。彼女はレイがそれまでに共に仕事をしたどの『鍵師』よりも優秀だった。エヴィーがそれらの仕事を不本意に思っていることは知っていたが、仕事が確実で、周囲に親しい人間がいないエヴィーは、レイにとって使いやすい人間であることは間違いなかったし、彼女が金に困っていることが多いのも都合が良かった。それに一度この仕事に引き込んでしまえば、あとは一蓮托生だ。
あまり自分のことを語らないエヴィーがアルバドス島の出身であることを知ったのは、共に仕事をするようになってしばらく経ってからのことで、これも偶然だった。酔ったエヴィーが口にした劣等感はレイにはあまり理解出来なかったが、奇妙な縁だと思った。そして覚えておいたのは正解だった。
人生何がどう転ぶかわからない、とレイはいつも思う。
階下へ下り、使用人の姿が見えないことを確認すると、レイは邸の外へ出た。外出は禁じられていたが、それはエヴィーに対する建前だ。もっとも、常に彼女の目があった以上、これまではそれを守るしかなかったのだが。アストールとレイの間で交わされた契約を知らない多くの使用人からは見咎められるかもしれないが、口先だけで丸め込める自信はあった。
手当てされた腕の包帯を解き――もちろん最初から怪我などしていない――、悠々と門を出た。今、島民たちの視線は『女神の塔』に向いている。辺りは閑散としており、人影はない。
ちょうどいい。祭りに背を向け、レイは指定されていた場所へ足を向けた。
この島は、聞いていたとおりの島だった。目に見える『翼』というものの存在が、自分たちと他者との間に明確な境界線を引く。アストールの邸の使用人たちは、レイとエヴィーが大陸からやってきたアストールの客人であると思っていたので、アストールの手前、あからさまに差別するようなことはしなかったが、態度や言葉の端々にその意識が見て取れた。自分は本当にこの島の人間ではないし、一歩引いたところから見ればどうでも良かったが、幼い頃から一人その蔑んだような眼差しを浴びせられ続けたエヴィーが重く受け止めてしまうのも無理はないように思えた。
レイはエヴィー以外のアルバドス人を一人だけ知っていた。昔、この島から大陸へ移住した珍しい人だったが、一度もその翼を見たことはなかった。
『もう捨てたから』
それが彼女の口癖だったことを覚えている。
レスタの街を縦断し、レイがやって来たのはエルシェンバード公爵家の別邸よりはやや小ぶりではあるものの、それでも立派な門構えを備えた邸宅だった。来意を告げると、すぐに奥へ通される。
「遅かったな」
レイを迎えた男は、開口一番不機嫌な顔で言った。革張りの椅子に深く腰掛けたまま、横柄な口調で対応するのは、レイの顧客としては珍しい態度ではない。
年の頃は四十の手前といったところか。全体的に痩せてはいるが、腹の周りにだけ少し肉がつきはじめている。名をロサスという。
「もう少し早く来られなかったのか」
「悪かったよ。でもこっちにも事情があるってことをわかってもらいたいね」
「事情があるのはこちらも同様だ。おまえが今日来ると言うから、まだ聖大祭にも顔を出していない」
「行ったところで、でかい顔してるのはあんたの敵なんだろ」
レイは鼻で笑ったが、それについてロサスは何も言わなかった。
「で、持ってきたか」
「持ってきたよ」
机には、小さな宝石がいくつもちりばめられた小箱が置いてある。レイは懐からエヴィーの持っていた真鍮の鍵を取り出し、その隣に置いた。ロサスはそれを奪い取るようにして手に取ると、指先で撫で回すようにして眺めた。
「本物だろうな?」
「たぶんね」
「翼を持たない娘が持っていたんだな?」
「そうだよ。……その箱に入っているのか?」
「あの鍛冶屋が『女神の涙』を持っていたのはわかっているんだ。あの男が持っていた中で、この箱だけが何をしても開かなかった。島中のからくり師にも開けられなかったし、壊すことも出来なかった。娘を逃がしてしまったのは失敗だった」
だがこれで、とロサスは口元に笑みを浮かべた。
「これでウィズールにも勝てる」
こんな小さな島の覇権を取ったところで何になるのか、レイはそう思わなくもなかったが、この男が大事な顧客であることは間違いないので黙っていた。
レイがアルバドスに来たのはこれが目的でもあった。エヴィーが持っている鍵を奪い、この男に渡すこと。それがこの男からの依頼。だがエヴィーは鍵を肌身離さず身に付けており、偽物とすりかえることも難しかった。ちょうどその頃、アストールからの依頼があり、その策略に乗ることにしたのだ。そうすれば、レイがアルバドスに行くのも不思議ではないし、鍵を手にする機会もあるだろう。聖大祭の巫女が決められた衣装以外は身に付けられないということはアストールから聞いていたので、この日を狙っていた。
エヴィーには悪いが、利用できるものは利用する。それがレイの信条だ。
ロサスは、今度は小箱を手に取ってそれを撫でた。もう手に入ったと確信し、その表情は恍惚とさえしている。
「俺にはわからないね。たかが宝石一つに何をそんなにこだわる?」
「確かに『女神の涙』はこの島の権力の象徴だ。だがそれ以外にも意味はある」
「それ以外の意味?」
「昔から言われているのだ。触れたものには不思議な力が宿ると。その力で代々の国王は島を支配してきた」
ますます眉唾ものである。レイはひそかに顔をしかめたが、ロサスはそれには気づかず、ゆっくりと、おもむろに鍵穴に鍵を差し入れた。
「…………」
ロサスの満面の笑みが、次第に渋面へと変わっていく。
「……回らない」
「え?」
「開かないじゃないか! どういうことだ!」
ロサスは何度も差し入れた鍵を回そうとするが、鍵穴の奥で固く閉ざされた壁はぴくりとも動かない。
「この鍵じゃない! くそっ、偽物だ!」
鍵を引き抜き、床に叩きつけてロサスは怒鳴った。
「ふざけるな! 私はこんなものを持って来いとは言わなかった!」
苛々と足を踏み鳴らし、レイを睨みつける。
「契約は無効だ。金は払えん。帰れ! そしてさっさと本物を持ってくるんだな!」
「ちょっと待てよおっさん」
レイは鍵を拾い、激昂するロサスに顔をしかめた。
「話が違うぜ。俺はエヴィーが持っている鍵を持って来いとしか言われてない。それで開くと信じたのはあんたの勝手だろうが。開くかどうかは俺の知ったことじゃない」
「うるさい! さっさと本物を持って来い!」
この鍵がエヴィーがいつも身に付けているものであることに間違いはないのだ。とすると、エヴィーは他にこの小箱を開ける為の鍵を持っているというのか? レイは考えをめぐらせる。
エヴィーはあまり多くを語らないが、基本的には正直だ。思っていることがすぐ顔に出る。だが彼女自身が『女神の涙』の在処を知らないことは確信しているし、何か重要なものを持っている様子は見せたことがなかった。
とすると、エヴィーが知らないうちに持ち物に鍵が紛れ込ませてあるのだろうか。この鍵にしたところで、エヴィーにとってはただのお守りでしかないようだったし、ひょっとするとそれは一見しただけでは鍵と気づかない形状なのかもしれない。だとするともうお手上げだ。
レイを罵り、果ては政敵ウィズールへの恨みまで垂れ流すロサスを見やって、レイは軽くため息をついた。
これでは無理だ。報酬は得られそうにない。さっさと退散するのが身の為だ。アストールからの依頼を成功させれば、とりあえずアルバドスまで来た元は取れる。
「待て」
出て行こうとしたレイを、ロサスが呼び止めた。
「何」
「翼のない娘……確か娘自身もからくりを作ると言っていたな」
「……ああ」
「それならその娘を連れて来い」
「え?」
「ダルトンの娘だ。父親から受け継いでいるものがあるだろう。その娘にこの箱を開けさせる」
「…………」
「ヴェールンにいるんだろう? 船なら出してやる。すぐに戻って連れてくるんだ。そうすれば約束していた報酬を支払おう」
彼はエヴィーがこの島に来ていることを知らない。
「本当は聖大祭までに『女神の涙』を手に入れたかったんだがな。――ウィズールが公女アスティアを引っ張り出してくるのに対抗するにはそれしかない。だがこの際、多少時期がずれても仕方がない。無事に『女神の涙』が手に入れば、報酬は、……そうだな、最初に提示していた額の三倍出そう」
エヴィーになら開けられるかもしれない。だが、この小箱を作ったのは彼女の師にあたる父親だ。彼女の持っている技術を上回っているかもしれない。しかし父親が作ったものだからこそ、エヴィーもその製作に関わった可能性もある。
そもそもどうやってエヴィーをここへ連れてくる? だが報酬三倍は捨てがたい。
何と答えたものかレイが考えあぐねていると、にわかに部屋の外が騒がしくなった。
「ロサス様」
扉を叩く音がして、男が一人入ってきた。
「どうした」
「今、知らせが入ったのですが、聖大祭で異変があったようで……」
「異変?」
まさか、巫女の正体がばれたのか。
レイは背筋が凍りつくのを感じ、ひそかに身体を強張らせた。
「『女神の塔』での奉納舞の最中に、何者かによって巫女が連れ去られたそうです」
「巫女が? ――公女アスティアが?」
ロサスが身を乗り出した。
「はい。詳しいことはまだ伝わってきていませんが、どうやらそのようです」
「……どこの誰かは知らないが、面白いことをしてくれるじゃないか」
祭りは失敗だ。これでウィズールの勢いも失速する。ロサスはくぐもった笑い声をあげ、肩を震わせた。
「喜んでばかりもいられないんじゃないの?」
「何?」
レイの言葉にロサスが顔を上げた。
「普通に考えればそうだろ。そのウィズールとやらは自分の顔に泥を塗った連中を探す。そうすると、まず最初に浮かぶのは自分の敵だ。――あんたの仕業だと思われても不思議じゃないさ」
「…………」
「『女神の涙』に血道を上げるのも結構だが、自分の保身も考えておくべきじゃないのか? 一刻も早く巫女が見つかって無実が証明されることを祈るんだな」
軽く手を振って背を向けると、レイは悠然とロサスの邸を後にした。
エヴィーを探さなければ。
それはレイとて同じなのだ。