(1)
聖大祭の朝になった。
上空を厚い雲が覆っており、快晴には程遠い。だが十七年ぶりの聖大祭は人々の心を浮き立たせ、前夜から祭りの賑わいが島中に満ちはじめていた。
神事は正午から始まる。身支度を終えたエヴィーは、エルシェンバード公爵家の別邸で神殿からの迎えを待っていた。
「へえ、意外といい感じじゃないか」
部屋に入ってきたレイは、エヴィーの姿を見るなり言った。
「黙ってそうやってると、本当にお嬢様に見えるな」
事情を知っている侍女に巫女の衣装を着せられ、結い上げた髪には白い花を飾られた。踝まで届く白絹の衣装はさらさらと滑らかで肌に心地よく、こんな機会でもなければ着られそうにないほど高価な代物だ。巫女のしきたりで、右の足首には小さな鈴が二つ結わえつけられた。エヴィーが身動きをする度にちりんちりんと軽やかな音を立て、その音が更に華やかさを引き立てている。
日頃、部屋に引きこもる生活が多い為に、エヴィーの肌は海の近くで暮らしている割には白い。それが今回は役に立った。薄く白粉をはたいて唇に紅を刷き、鏡を見ると確かにそれなりに似合っているようで、悪い気はしない。
「とりあえずはなんとかなりそうだな」
「まだよ。今日が終わるまでは安心出来ないわ」
エヴィーとレイに対する待遇は盗人に対するそれではなかった。この邸の主人であるアストールの客人として丁重に扱われ、外出を許可されないことと、エヴィーには舞の稽古や公女としての基本的な知識を学ぶことを課せられた他は、何をしても自由だった。
邸の使用人たちはエヴィーがアストールの身代わりであることを知っていたが、二日に一度、舞の稽古をつける為に神殿から派遣されてきた女神官に対してだけは、エヴィーは『公女アスティア』として振る舞わねばならなかった。必要なこと以外は喋らず、尋ねられたことに答えられなければ黙って小首をかしげていれば良いというアストールの助言に従ってなんとか切り抜けた。とりあえず不審には思われなかったらしい。これ以上期間が長ければどうなっていたかわからないが、数日という限られた時間の中で、騙す相手が一人という条件であるならば、エヴィーの拙い演技力でもなんとかなるようだ。
だが本番はこれからだ。今日は初対面の人間とも多く顔を合わせることになる。そのすべてに対し、完璧に『公女アスティア』を演じてみせなくてはならない。頭の中で教えられた動きを確かめる。
正体を知られるわけにはいかない。アストールの為というよりは、それ以上にまず自分の為だ。
「……そういえばアストールはどうしたの? 今日まだ一度も見てないけど」
「ああ、坊ちゃんは今日一日邸の奥でおとなしくしてるってさ。誰かに姿を見られるのはまずいだろ。今日はあんたに会うこともないから、よろしく伝えておいてくれってさっき言われたよ」
これから神殿から迎えの馬車が来ることになっている。確かに、『公女アスティア』の顔をした人間が二人いるのはまずい。片方が男だとしても、だ。
本当は、エヴィーはアストールに聞きたいことがあった。だが会えないのであれば仕方がない。まずは祭りを無事に終わらせること。そうでなければ何も始まらないのだ。
扉が叩かれ、神殿からの迎えが来たことを告げられた。いよいよだ。もう腹を決めるしかない。唾を飲み下して、エヴィーは立ち上がった。
「俺もここまでだ。後はがんばれよ」
レイが肩を叩いた。軽く頷いてみせる。
侍女の先導で玄関へ向かうと、これまでアルバドスでは見たことがないほど豪華な設えの馬車が待っていた。女神が二羽の鷹を可愛がっていたという挿話に基づき、左右対称に翼と鷹の頭部をあしらった神殿の紋章が描かれ、馬車を引く二頭の馬も花で飾られている。エヴィーの姿をみとめると、白地に金糸の縫い取りのある、神職に就いていることを示す服装の男が二人、片膝をつく神殿式の礼をした。エヴィーもぎこちなく習いたての礼を返した。
「本日は、アスティア様におかれましては、まことにおめでとうございます」
口元に髭をたくわえた年かさの方の男が言う。巫女をつとめるということは、女神から直接祝福を受けられるというとても名誉なことであるらしい。実際には何も起こらないのに、とエヴィーは考えながら、教わったとおりに会釈を返した。
「この先、付き添いは認められません。よろしいですか」
「……はい」
「では、参りましょうか」
促されるまま、馬車に乗り込もうとすると、若い方の男がそれを制した。
「――少々お待ちください」
一瞬、エヴィーはぎくりとして動きを止めた。
まさか、もうばれたのか?
「この先は決められたもの以外、身に付けてはなりません。それをはずしていただけませんか」
男はそう言って、エヴィーが首から下げている鍵を指差した。衣装の下に入れておいたつもりだったが、結い上げた髪ではうなじがあらわになり、紐が見えてしまっていた。
「……これは私のお守りなのですが、持っていくことも許されないのでしょうか」
肌身離さず身に付けている養父の形見だ。何かあればこの鍵を触ることが癖になっている。これからというこの時に手放さなければならないのは辛い。
「申し訳ありませんが」
淡々と彼は言う。よく見ればまだエヴィーとそれほど年は変わらないような少年だというのに、その冷静な態度はまるで十も二十も年上に見える。
ここで揉めても仕方がない。エヴィーは首から鍵をはずすと、後ろに控えていた侍女に手渡した。
「部屋に置いておいて」
はい、と答えて、侍女が鍵を受け取った。
紐一本なくなっただけなのに、なんだか急に首が軽くなって落ち着かない気がした。あの鍵を持たずに出かけるなんて初めてのことだ。
「では参りましょう」
少年が御者席につき、エヴィーは改めて年かさの男と並んで馬車に乗り込んだ。
邸の使用人たちが出てきて馬車を見送る。この様子をレイやアストールはどこからか見ているのだろうか。エヴィーは邸を振り返り、いずれかの窓によく見知った顔を探そうとしたがかなわなかった。
レスタの街は、島の中心部ということもあって他の集落よりも比較的道が整備されている。馬車が目抜き通りに差し掛かると、道の両脇には晴れ着に身を包んだ人の波が出来ており、巫女の登場に歓声が起こった。今日は翼を広げてはならない日。人々は自らの両足で大地を踏みしめ、花籠を持った小さな子供たちが馬車を追って走る。
「緊張しておられるようですな」
それまで黙っていた男が口を開いた。髭のせいもあるのか、こちらの方は年齢がよくわからない。五十をいくつか過ぎているようにも見えるし、三十ほどにも見える。視線を落とすと、手の甲の小さな赤い痣が目に入った。
「……ええ、まあ」
それもあるが、口を開けばぼろが出そうなので黙っていただけだ、とは言えない。
エヴィーが固くなっているのは、巫女だからではない。本物の『公女アスティア』ではないこと、翼を持たないこと、知られてはならないことがたくさんあるからだ。巫女は確かに大役かもしれないが、今のエヴィーにとってそれは二の次でしかなかった。
「前の巫女の方もそうでした。やはり大舞台ですから、気持ちが高ぶられるようです」
「そうですか」
「立派におつとめを果たしていただけること、期待していますよ」
「……ご期待にお応えできるよう努めます」
道に沿って建ち並ぶ家々の向こうに、女神の頭部が見えた。近づけば近づくほど、その巨大な存在はエヴィーの心に重くのしかかる。馬車はかつての王宮の前を通り過ぎ、やがて『女神の塔』の足元へと向かう。女神の隣で、彼女の衣装の裾を広げるように建っているのがこの島で最も壮麗な建物だと噂される神殿だ。
アルバドスでは島をいくつかに分けて教区を設置し、そこに数人の神官が派遣されて日頃から島民に女神への信仰を説いている。その総本山と呼ぶべきなのがこの神殿だ。島そのものが小さいので、信心深い民は近くの神官の住居へ出向くだけでは飽き足らず、足繁くここへ通うものも多い。
神殿と『女神の塔』の前の広場には多くの民衆が集まっていた。巫女の登場を待っていたのか、馬車が止まると割れんばかりの拍手とアスティアの名を呼ぶ声が沸き起こる。御者の少年に手を取られ、エヴィーがゆっくりと地面に降り立つと、その声はいっそう大きくなった。
神事が終われば、この広場はただちに民衆の祭りの場に変わる。酒や菓子を売る屋台が軒を連ね、歌や踊りが満ち溢れた賑やかな夜が待っているのだ。今日ばかりは少しくらい羽目を外しても許してもらえる。揃いの衣を身に付けた若い神官たちが、早くも興奮して少しでも巫女に近づこうとする人々を制止し、神殿へと続く道を作っている。
「こちらに」
年かさの男に従い、エヴィーは立ち止まった。
神殿の奥、翼と鷹の浮き彫りが施された幾重にも連なる円柱の向こうから、ゆっくりと人影が近づいてくる。金銀の糸で織られ、鮮やかな刺繍を施された衣装をまとい、同じ意匠の冠を被った男が姿を見せた。大神官カーディス。この島の神職者の中で、最も高位にある人物だ。その力は王にも匹敵するとも言われている。男女入り混じった数人の若い神官がそれに続く。
観衆のざわめきは一瞬盛り上がり、カーディスが左手を上げたその瞬間に、すうっと彼の掌に吸い込まれるように静まった。
現在五十歳だと聞いている。黒い髪と髭には、ほんの少しだけ白いものが混じっている。顔にはいくつか皺が刻まれていたが、目鼻立ちそのものはすっきり整っており、その瞳の奥には底知れぬ冷たい光が感じられた。
いつの間にか、エヴィーを先導してきた二人の神官は姿を消していた。
カーディスの歩みがエヴィーの正面で止まった。エヴィーは教わったとおりに、両膝をついて手を組み、ゆっくりと三度腰を折る神殿式の最上の礼をした。その動作に間違いはないだろうか、一つずつ確認し、内心で恐れながら。
「……今日の善き日に」
カーディスは言い、付き従ってきた神官が捧げ持っていた杯を取った。エヴィーはカーディスの手からそれを受け取り、中身を飲み干す。『祝福の水』と言われているが、その正体はただの水だ。だが、エヴィーにはどことなく甘く感じられた。
耳に心地よく響く低い声で、カーディスは女神を讃える唄を暗唱しはじめた。だがそれはエヴィーの両の耳を素通りし、頭にはまったくその内容が入ってこない。頭を垂れていると、うたっているカーディスの視線が背中に突き刺さっているような気がしてならなかった。本当はその背に女神の民の印である翼がないことを見抜かれそうで、エヴィーは少しでも早くこの儀式が終わり、カーディスが立ち去ることを願った。
観衆は静まり返り、じっと大神官の唄に聞き入っている。小さな子供でさえも。
その声は人々の祈りを乗せ、風に乗り、空を支配する女神へと届く。
「――我らが運び手に、神の祝福を与えん」
カーディスが結びの一節を唄い終わると、拍手と歓声が沸き起こった。カーディスがエヴィーの髪に軽く口づける。そのまま差し出された手に促され、エヴィーは立ち上がった。
「つつがなく終えられますよう」
エヴィーの耳元に囁きを残し、カーディスは神官たちを引き連れて神殿へ戻っていった。エヴィーは人知れずほっと息を吐いた。
鳴り止まぬ拍手の中、残った若い女の神官がエヴィーを『女神の塔』へと誘う。
「これをお持ちください」
手渡されたのは松明だ。聖火台に火を点す為の火種。
ここからだ。
これまでは、特にエヴィーから何かをしなければならないことはなかった。言うべき台詞もなく、ただ導かれるままに。だがここからは一人。『公女アスティア』の振りをするという一点においては、対峙する人間がいない分楽になる。だが、聖大祭の巫女を務めるという点においては、少々事情が異なる。
エヴィーは自分には信仰心などないと思っていた。だが、いざこの場に立つと足が震えた。――二重に人々を騙しているこの状況は、はたして女神に許されるのだろうか。
大勢の観衆と神官たちに見送られ、エヴィーはひとり、『女神の塔』の階段を上りはじめた。
塔の外側にぐるりと螺旋状に巻きつけられた石段に手すりなどはなく、足を踏み外せば一貫の終わり、強い風が吹けばそのまま飛ばされてしまいそうだ。おまけに塔の外側は女神の姿を模している為、波打つ衣装の皺やゆるやかに流れ落ちる髪の部分などによって石段の傾斜は一定ではなく、身体の均衡を保つのが難しい。十七年に一度しか使われない石段は、朽ちてはいないものの古めかしく、ざりっと砂を踏みしめる音がする度に崩れてしまうのではないかという恐怖心をあおる。それでもこれまでの巫女には何の問題もなかっただろう。翼を広げることを禁じられているとしても、命が危険にさらされた時にはその翼が守ってくれる。だがエヴィーには何もない。
壁に左手をつき、それを唯一の拠り所としながらエヴィーは一歩ずつ歩を進めた。徐々に地上から聞こえる歓声が遠のいていく。少しずつ、空に近づいていく。
――もしも本当に女神がいて、奇跡が起こるのだとしたら。
ぼんやりと頭の片隅で考える。
――私がこの塔を上りきれば、翼を与えられたりはしないだろうか。
一方で、そう考えてしまった自分に驚いた。もう翼を欲する気持ちは消えたと思っていた。今更、何を。
――もしかして私は、アストールからこの身代わりの話を持ちかけられた時、密かにそれを願って引き受けたのではないだろうか。
それはないと強く否定する。今更、翼など欲しくはない。この島に戻ってくる気もないのだ。養父が殺されたあの晩に、私は故郷を捨てたのだ。
見上げれば先はまだまだ長く、気が遠くなる。見下ろすと手を振る人の姿は小さくなっていて足がすくむ。エヴィーはただひたすら目の前にある石段を見据え、一歩ずつ確実に足を踏み出してゆく。
この塔の内部がどうなっているのかは知らないが、一体どれくらいの高さがあるのだろう。十階に相当するのか、それとも二十階か。翼を持つこの島の人々にとって、高層の建物をつくることはそう難しくはない。だが、それだけの重みに耐えられるような建材は少なく、崩落の危険性が高いことからあまり高い建築物は浸透していない。例外がこの『女神の塔』だ。
やがて息があがり、汗が噴き出してきた。汗はたちまち大粒の滴となって、衣装の内側を滑り落ちていく。曇り空は太陽を覆い隠しているが、そよとも吹かない風に苛立ちが募る。右手には松明を掲げているから、余計に暑い。元々体力のある方ではないが、平地ならば歩き慣れているつもりだった。だが階段を上るという行為はそれとはまるで違うらしく、足の動きが鈍り、自分の身体が鉛のように重く感じられた。
お守りの鍵を握ろうとして、今日は置いてきたことに気づく。なんだか自分でない何かが自分の身体を動かしているような、そんな気がした。
――この祭りが終わったら。
苦しみを紛らわせようと、希望あることを考えることにする。
何もかも忘れて、レイと一緒にヴェールンへ帰ろう。父さんのことも、もう思い出したくない。
だが、ふと脳裏をよぎるのはアストールの顔だ。
今はまだなんとか『公女アスティア』の役をやっていても、今後はどうするのだろう。どうしたって年を取れば女の振りは難しくなる。彼はエヴィーと同い年だと言っていたから、これまでの十七年間、一度も正体がばれなかったということこそが奇跡だ。これからもずっとあの邸にこもって、気心の知れた使用人の他には誰とも会わずに生きていけるわけはないし、何と言っても国王の『娘』なのだから、表に出なければならない時は間違いなく巡ってくる。
――ヴェールンに戻ったら引っ越そう。
そしてレイとも連絡を絶つのだ。ヴェールンを離れて別の街へ行ったっていい。どうせ根無し草なのだ。そうすれば、きっと。
疲労からか、エヴィーは視界が揺らぐのを感じた。だがここでふらつくことは命を落とすことにつながる。エヴィーは一旦立ち止まり、頭を振って気合を入れなおし、再び石段を上ってゆく。
――足が痛い。
鈴の音がうるさい。
気持ちを明るくさせてくれた軽やかな音も、今は耳障りなだけだ。もう地上の歓声は聞こえない。
ただ左手に伝わる壁の感触だけが、エヴィーを現実につなぎとめていた。
……どれほど経った頃だろうか。すっと視界がひらけた。頂上に着いたのだ。そう悟った途端、どっと力が抜けた。平らな床を目にしただけでこれほど安心するとは思わなかった。
体力的にも相当辛かったが、それ以上に精神がひどく消耗していた。
女神の頭頂部に当たる塔の頂上は、想像していたほど広くはなかった。倒れこんでそのまま眠ってしまいたかったが、そうもいかない。前もって教わっていたとおりに、エヴィーはまず聖火台の位置と、松明を立てかけられるようになっている場所を確認した。神官が手入れをしているのだろう、十七年に一度しか使われない聖火台は傷一つなくそこにあった。火をつけると、女神が高く掲げた右腕をつたい、その掌の上で盛大に燃え上がる。その火は島全体を照らしだし、島のどこにいても見えるのだそうだ。
松明を立てかけると、エヴィーは大きく深呼吸した。
空が近い。
こんなに高いところに来たのは生まれて初めてだ。
翼を持つ島民たちにとっては、それは普通の光景かもしれないが、エヴィーにとっては何もかもが新鮮だった。豆粒のような人の群れや、玩具のような家々。その向こうには青い海が広がる。ひどく疲れていたが、少しだけ気分が晴れた。
中央に立ち、右足で軽く床を蹴った。しゃん、と鈴の音が響く。
アストールが話していたとおり、教わった舞はそれほど難しくはなかった。単純な足運びと腕の動きを繰り返す。だが、多少間違えたとしても、これだけ地上から離れていれば誰からも見えない。
ただ、気にしなければならないのは女神の存在だけだ。
開放感を胸に、エヴィーは舞った。
踏み出した右足で床を蹴って飛び上がると、衣装の裾がひらりと揺れた。右、左、右と教わったとおりに床を打ち鳴らし、腕は宙に大きく円を描く。足はまだ痛かったが、あまり気にならなかった。むしろ、不思議な高揚感に包まれ、なんだか身体が軽い。
遥かな上空へ腕を伸ばす。まるで大気を抱くように。
――とん、ととん。しゃん。
鈴の音が風を呼ぶ。
足が小刻みに床を叩く。柔らかな風の流れに身を任せて、エヴィーの上体がしなる。自分の身体がこんなふうに動くなんて知らなかった。稽古の時よりもずっと軽快なその動きは、エヴィー自身の興奮を更に高めた。
――ととん、とん、とん、とん。しゃらん。
律動的な足音と鈴の音だけがエヴィーの舞を彩っている。
その動きが合っているのかどうか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。気持ちの赴くまま、流れるままにエヴィーは踊る。背筋を反らして仰ぎ見た上空には厚い雲が立ち込め、じっとりと湿った空気が身体にまとわりつくようだったが、爽快だった。
もう何も目に入らない。まるで頭の先から爪先まで、自分のものではないようだった。先ほど石段をのぼっていた時に感じたものとは違う、不快な感じはない。ただ、心地よい浮遊感に包まれていた。
――ととととん、とん、とん。
足音が、空へ吸い込まれてゆく。
これが巫女というものなのか。
今まで選ばれた他の巫女たちも、皆このように何かに身を任せて舞ったのだろうか。人々の祈りが女神へ届くように、その身体を預けたのか。
身にまとうのは女神の風。
翼はない。それなのに、エヴィーは今、その身体は空を舞っているのだと思った。確かにそう感じていた。風に乗ってどこまでも飛んでいけそうな気がした。
どこかで、羽音がする。
――――羽音?
かすかに残ったエヴィーの意識が、その不可思議さに警鐘を鳴らす。
何故? 今日は島民たちは翼を広げてはいけない日なのに――。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。あっという間に羽音が近づき、気づいた時には両の足が床から離れていた。
エヴィーの背に翼が生えたのではない。背後から抱きつくように、二本の腕が彼女の腰に絡みついていた。
「なっ……!」
恍惚としていたエヴィーは、頭から冷水を浴びせかけられたかのように一気に我に返った。
「おっと、しばらくおとなしくしててくださいよ」
「誰!」
じたばたとエヴィーはもがいた。だが、みるみるうちに『女神の塔』が遠くなっていく。
こんな話は聞いていない。
聖大祭の日に、よりにもよって神事の真っ最中に、禁忌であるはずの翼を広げて巫女を連れ出す男がいるなんて。
「放して!」
「別にあんた個人に恨みはねえんだ。悪いようにはしねえから、ちょっと黙ってついてきてくれよ、アスティア公女様」
公女が狙いか。攫われたと、そういうことなのか。
「キルシュ! やばいぞ、もう追手が来た!」
背後から左右から、翼を広げた男たちが近づいてくる。たちまちそれは大きな集団となった。中心にいるのは、エヴィーを抱えた男である。顔は見えないが、視界の隅に燃えるような赤毛が風にたなびいている。声はまだ若そうだ。
「とりあえず俺たちが足止めをする。おまえはそのお嬢様を連れて先に行け!」
「わかった!」
なんとか身体をひねって後ろを見ると、先ほど地上でエヴィーを見送っていた年若い神官たちがその翼を広げ、エヴィーを連れた男を追ってきていた。聖大祭の最中に巫女を連れ去られるなど、神殿の沽券にも関わる。聖大祭の日に翼を広げる禁を犯してしまうことは、この際後回しなのだろう。
その行く手に、この襲撃犯の仲間らしい男たちが立ちふさがった。エヴィーたちを追って飛んでくる神官の前に飛び込み、体当たりでその行く手を妨害する。白い羽が何度も大きく散った。数としては神官たちの方が圧倒的に多いが、こうした競り合いに慣れていないのだろう。神官の衣をまとった影ばかりがいくつも地上へと落ちていった。
凄まじい勢いで風がエヴィーの頬をなぶっていく。その強さに思わず目を閉じ、歯を食いしばった。
「私をどうするつもりなの!」
叫び声も、風に流されて後方へ飛んでいってしまうようだ。男は答えない。
暴れてその腕を振り払うことが出来れば良いのだが、この状況ではそれも出来ない。今エヴィーの生命は、この赤毛の男の両腕にかかっていると言っても過言ではない。仕方ないので、おとなしくその腕に抱えられたままでいることにした。すぐにどこかに着地するはずだ。その隙をついて逃げ出すしかない。
迂闊だったと自分を反省する材料も見つからなかった。まさかこんなことになるとは。奉納舞の最中も襲撃を予想して警戒しなければならないなんて思いもしなかった。それは今エヴィーたちを追ってきている神官たちも同じだろう。前代未聞の出来事であることは間違いない。
ちっ、と男が舌打ちしたのが聞こえて、エヴィーは背後を振り返った。神官と襲撃犯との競り合いを逃れ、一人の神官が一直線にこちらを目指して飛んできているのが見えた。
「飛ばすぞ! 頼むからおとなしくしててくれよ!」
エヴィーの腰を抱える手に力がこもった。頬を叩く風が更に激しくなり、エヴィーは思わずきつく目を閉じた。
翼を持たないエヴィーには実感がわかないが、人によって走る速さが異なるのと同じで、空を飛ぶ速さにも個人差があると聞く。この赤毛の男も相当速いのかもしれないが、エヴィーを抱きかかえている分、どうしてもその速度は落ちる。追ってきた神官もかなりの速さで飛べる人間だったのだろう、すぐに追いつき、声が届くほどの距離になった。
「今すぐに公女を離せ!」
「断る!」
律儀に答えて、赤毛の男はまた速度を上げた。
よく見れば、追ってきた神官は先ほどエヴィーを迎えにやってきた若い方の男だった。強風に淡い金髪があおられている。赤毛の男が速度を上げたのに合わせて、彼も更に力強く翼を羽ばたかせる。
神官の少年が腕を伸ばし、赤毛の男の足を掴もうとした。咄嗟にそれを察して、赤毛の男はその手を蹴り飛ばす。神官の少年がわずかによろめいて少し間が開いたが、彼はすぐに姿勢を立て直してまた距離を詰めた。
赤毛の男がやや下降気味に進路を変えた。再び足が狙われるのを避けたようだ。だがすかさず神官の少年もその下へ回り込む。
「おとなしく公女を解放したらどうだ?」
「断るっつってんだろ!」
また足を蹴り出したが、神官の少年も二度と同じ手を食う気はないらしい。うまくかわして今度こそ赤毛の男の足首を掴んだ。
強く引き寄せられ、赤毛の男が身体の均衡を崩した。腕はエヴィーを抱え込んでいる為使えない。それでも抵抗し、その手を振り払おうと足や翼を激しくばたつかせたが、神官の少年も離す気はないらしく、足首を掴んだままその身体が左右に大きく揺れた。
「くそっ!」
掴んだ足首を手がかりに、男を捕らえようと神官の少年は更に手を伸ばした。大きく広げられた翼を避け、腰にその指がかかる。
「アスティア様、今です!」
拘束の手がゆるんだ隙に、自分の翼を広げて飛べということか。しかしエヴィーには無理な相談だ。赤毛の男もエヴィーもろとも捕らえられるよりは、彼女を離してでも逃げ切る方を選ぶだろう。エヴィーは激しく首を振り、ともすれば離れてしまいそうな男の腕にしがみついた。
「助けるならもっとちゃんと助けてよ!」
しかし事情を知らない彼らには何のことかわからない。
神官の少年の手が赤毛の男の肩を掴んだ。赤毛の男は力一杯その手を振り払う。その拍子に、エヴィーを抱えていた腕が外れた。
「――――!」
エヴィーの口から声にならない叫び声が迸る。
支えるものを失ったエヴィーの身体は、真っ逆様に地上へと落ちていった。