(7)
レイの手に導かれ、エヴィーは闇の中をそろそろと進む。何も見えない。規則的に足を動かしてはいるが、本当に進んでいるのか、それすらもわからなくなる。ただ右手に伝わるレイの手のぬくもりだけがエヴィーを現実に繋ぎとめている。
鋭い音に気づくと石の壁に囲まれており、気が動転していたが、少し落ち着いてくるとこの状況は少し気恥ずかしい。だがそれをなかなか言い出せなかった。はぐれるといけないから、と心の中で言い訳をしている自分に気づく。何故、誰に言い訳をしているというのだろう。
「上から聞いた声の感じでは、たぶんこの辺りだと思うんだが」
レイが黙っていたのは、どうやら歩数を数えていたようだ。エヴィーの壁を伝う左手がわずかな切れ目を見つけた。
「レイ」
立ち止まり、彼の手を引いた。
「キルシュ? いる?」
「いる」
その声に力はなかったが、さほど苦しそうでもない。レイがエヴィーを促すように手を放した。
「さっきみたいにレイが撃った方が早いんじゃないの?」
「残念ながら弾切れだ」
エヴィーは扉に向き直った。闇の中、掌には冷たい石の感触が伝わる。どこに鍵があるのだろう――せめて少しでも灯りがあれば。
少しずつ暗闇に眼が慣れてきて、目の前のごつごつとした石の中に鈍く光るものをエヴィーは見た。小さな錠が下がっている。その場に膝をつき、それに触れると、ひんやりとした金属特有の冷たさが掌に伝わってきた。指先で錠の形を確認し、鍵穴に針を差し入れる。
エヴィーは突起物や障壁の数をかぞえ、頭の中で内部の様子を組み立てた。すうっと鍵穴に吸い込まれるような、針の先に意識が集まっていく感覚は、いつも感じているものだ。エヴィーにとっては慣れ親しんだ、懐かしいものとも言える。まるで針の先に自分の眼があるような――否、その先に自らの身体があるような。
エヴィーは静かに目を閉じた。隣でレイが緊張しているかのように息を詰めてエヴィーの指先を見ている。
今、『彼女』は暗い迷路の中にいる。『扉』を開けるにはいくつかの条件が必要で、こちらの壁を押さえながら、あちらの壁も押さえなければならない。押さえる力が緩んでしまったら、壁は一気に『彼女』に迫り、その道を閉ざす。ぺたん、ぺたんと『彼女』の掌が周囲の壁に触れ、出口を探る為の手がかりを探した。
――この針の先は私の目。私の指。私の翼。
言い聞かせるように何度も唱え、鍵の構造を頭の中に思い描いてエヴィーは一気に手首をひねった。かすかに空気の流れる音をエヴィーは確かに聞いた。
かちゃん、と錠が床に落ちた。エヴィーはほっと息を吐いた。レイが扉を開けると、窓からこぼれたわずかな月明かりの中、キルシュは石壁に背中を預けて座り込んでいた。
「無事か」
「なんとかね」
「急ごう。話は後だ」
レイはキルシュの腕を掴んで彼を立たせた。エヴィーも手にしていた針を懐にしまって立ち上がり、二人の後に続く。
ふと、背後で何か物音がしたような気がして振り返ったが、この闇の中では何も見えない。気を取り直して先を進む二人の背中を追った。
地下牢の入口で人影が動いた。先ほどの銃声を聞きつけた者だろうか。エヴィーは息を飲み、身体をすくませた。
「……誰かいるのか」
誰何の声には聞き覚えがあった。
「やっぱりな、あんたは律儀に約束を守りそうだと思ったんだよ」
笑みを含んだレイの声に、エヴィーは顔を上げた。そこにはジールが立っていた。
「ちょっと立ち位置が逆だけどな」
「どういうことだ? 何故中からおまえたちが出てくる?」
「この二人もちょっと取っ捕まったのさ。――大神官にな」
ジールが眉をひそめた。
「聖大祭の襲撃犯だからか?」
「ちょっと違う。詳しい話は後だ」
三人は地上へたどり着いた。ほのかな月明かりが妙に眩しくエヴィーには思えた。改めて月光の下で見ると、キルシュは牢に入れられた際に暴行を受けたのか、その頬は晴れ上がり、肩と腕の包帯は緩んでまた赤く染まっている。足取りも少し覚束ない。
「……レイ、知ってたの?」
「何を」
「ジールがここに来るってこと」
「確証はなかったよ。推測だ。さっき、神殿に入り込むついでにこの王子様の部屋を探してたら、もういなかったからな」
「ここに来たら、会えるんじゃないかと思ったんだ」
ジールが言う。
「会わないといけないと思ってた」
「……別にこっちは意識して来たわけじゃないんだけどね。――私の鍵は?」
「ああ、返すよ。助かった」
ジールは首から下げていた鍵を取り出し、エヴィーに手渡した。何が助かったと言うのだろう。その言葉を少し不思議に思ったが、何も言わずにジールから鍵を受け取った。
ダルトンの鍵が手元に戻ってきた。ほんの二日ほどのことなのに、エヴィーにはまるで何日も、あるいは何年もの間離れていたかのように思えた。首にかけ、握りしめると、まだジールの体温が残っている。
「近くに馬を待たせてある。そこから先は俺がキルシュを連れて行こう。ジール、あんたはエヴィーを連れて飛んできてくれ」
「わかった」
ジールがレイの言葉に頷いた。キルシュの両脇を二人が支え、エヴィーが三人の後に続いて歩き出したその時、柔らかく低い声が飛んだ。
「自力で出るとはなかなか大したものですね」
振り返ると、カーディスが立っていた。白を基調とした豪奢な衣装は、闇の中で一際目立つ。何か大きなもの――人を抱きかかえている。
「困りましたね……。あなた方にはもうしばらくここにいてもらうつもりだったのですが。それにジーリアス王子、何故あなたまで」
「……王子なんかじゃない。その名で呼ぶな」
低く抑えた声でジールが唸った。
誰を抱えているのだろう。エヴィーがじっと目を凝らすと、カーディスの後ろに続いてきた男が持っていた燭台の灯りがその顔を照らし出した。見慣れた、エヴィーと同じ顔……アストールだ。
アストールは意識を失っているようだ。ぐったりとしたその顔に血の気はない。
「なんでアストールまで……」
彼がカーディスの元にいることで、エヴィーの素性が割れていたことに合点はいった。では、エヴィーの命を狙っていたのもアストールではなくカーディスなのか。
カーディスはその場にアストールを下ろした。その手つきは自分より身分の高い者に対するそれではなかった。まるで邪魔な荷物を投げ出すような仕草だった。
「……ここは、大神官様がわざわざこんな時間に出てくるような場所じゃないだろう。あんた一体何を企んでる?」
キルシュの身体をジールに託し、レイは懐に手を差し入れた。拳銃を取り出す時機を狙っているのか。エヴィーは横目でそれを見た。
だが、その動きはカーディスの方が素早かった。懐から取り出した拳銃をレイに向け、一発、鋭い銃声が響く。弾道は大きく反れ、レイの身体をかすりもしなかったが、彼は絶句してただ呆然とカーディスを見返していた。エヴィーもジールも、キルシュもだ。
「大陸には良いものがありますからね。我々が守るべきものを守る為に、それを使うのはやぶさかではありません。……少し外しましたか」
白い大神官の衣装に拳銃。似合わないことこの上なかった。だがカーディスは銃口をレイに向けたまま薄く笑った。
「我々は女神の民。何をおいても、守らなければならないものがある。――あなたが何者かは知りませんが、邪魔立てをするのであれば容赦はしない」
カーディスの意識はレイにのみ集中している。ジールはつい先ほどまでカーディス自身の手によって軟禁されており、何も武器を持っていないという安心感があるのだろう。牢に入れられ、怪我を負っているキルシュは言わずもがなだ。エヴィーも同様で、更に女であるから余計に軽く見られているに違いない。
レイとカーディスが睨み合うのを横目に、エヴィーはそっと退いた。気づかれないようにじりじりと、足音を立てずにカーディスの方に歩み寄る。
忍び足の技術は、レイと共に錠前破りの仕事をすることで培われた。ああした仕事は暗くなってから、人目につかないようこっそりと行われるもの。
きっとカーディスは、レイほど銃の扱いに長けてはいない。ああして銃口を向けているだけでも精一杯に違いない。
そう決めつけて、エヴィーはカーディスの背後に回りこんだ。飛びかかり、衣を掴んで懐から取り出した短剣をその首筋に当てた。
「銃を下ろして!」
「なっ……」
意表をつかれた形になったカーディスが息を飲んだのがわかった。
「聞こえないの? 早く銃を捨てて!」
「エヴィー!」
レイが叫んだ。カーディスの従者が、短剣を持ったエヴィーの右手を掴もうと手を伸ばす。いつの間にかキルシュを地面に下ろしていたジールが走ってきて、その身体に体当たりを食らわせた。従者の身体がよろけ、ジールもろとも倒れ込む。
「くっ……!」
カーディスの身体から呻き声が漏れた。その時、エヴィーはカーディスに背後から抱きついた自分の身体が、強い力で押し上げられるのを感じた。
――翼だ。
カーディスがその翼を広げようとしている。背中の筋肉が固く大きく盛り上がり、なめらかな皮膚に小さな亀裂が入ったかと思うと、みるみるうちに広がって白い翼が姿を現した。エヴィーの身体は羽毛に包まれ、視界が白く染まる。羽の細かい毛が目に入り、たまらなくなって目を瞑った。強い力に押されてカーディスの衣を掴んでいた手が離れた。
エヴィーはもんどりうって倒れた。その拍子に、強く握っていたつもりの短剣を取り落とす。
カーディスが大きく翼を羽ばたかせた。その白い翼は闇夜に映え、美しく輝いて見えた。――空へ。
飛んでいかれたら追っていくことが出来なくなる。エヴィーは手を伸ばしたが届かない。それを横切るかのように、不意に脇から現れた黒い影が、浮き上がりかけたカーディスの足を掴んだ。
「何をする! 離せ!」
カーディスがわめいたが、その影はカーディスの両足にしがみついたまま離れない。その隙にキルシュが長靴に仕込んでいたらしいナイフを投げ、カーディスの肩をかすった。
「ぐっ……」
カーディスの身体は均衡を崩してよろめいた。まるでその翼に重石がついているかのように背中から倒れ込む。
ちょうどそこに、カーディスの従者がジールに押し倒された時に手放した燭台が転がっていた。火を覆っていた薄い硝子は砕け散り、その中で小さな炎がゆらめいている。
「エヴィー、そこから離れろ!」
レイの鋭い声に、エヴィーは飛びのいた。ジールもまた素早く立ち上がり飛び退った。
カーディスの翼はこぼれた油を吸い取り、炎が燃え移った。ぽん、とエヴィーは小さな音を聞いたような気がした。カーディス自身。何が起きているのか瞬時には理解出来なかったようだったが、あっという間に火はぐずぐずと乾いた羽毛を伝って燃え広がり、カーディスの翼を包み込んだ。
「熱い……! ぐっ、あ、あああああ!」
カーディスはくぐもった声を上げてその場に転げまわった。白く美しかった羽根が灰となる。髪や肉の焼ける嫌な匂いがあたりに充満した。カーディスを包みこんだ赤いその光に、エヴィーは慄いてまた数歩退いた。
「大神官様!」
カーディスの従者が叫び、自分の着ていた衣を脱いでカーディスの背中に叩きつけた。レイとジールがそれに続く。翼を焼き尽くし、火はずいぶん小さくなったが、それでもなお、カーディスの衣や髪にくすぶっている。煤が舞い、黒く焦げた翼の骨格がエヴィーの眼に焼きついた。
「何故……何故! 神よ……!」
一瞬のうちに目の前で起こった出来事に、頭がついていかない。カーディスの呻き声がまだ聞こえている。そろそろと周囲を見回した時、エヴィーは視界の隅にゆるりと動くものをみとめ、振り返った。
「……アストール?」
今の騒ぎで、意識を失っていたはずのアストールが目覚めていたのか。
「エヴィー、避けろ!」
再び飛んだ鋭いレイの声に、エヴィーは咄嗟に左に飛び退き、アストールの突き出した剣先をかわした。アストールの握った短剣はエヴィーの衣を掠り、エヴィーは足がもつれて再びその場に転倒した。
「なんで……!」
彼もまたカーディスに利用されていたのではなかったのか。アストールの無表情な顔からは、何も読み取ることが出来なかった。
「どうして? どうしてあなたが私を殺すの!」
アストールの二本の足は、しっかりと地についている。何故。彼は歩けないのではなかったのか。
エヴィーは唇を震わせた。言いたいことは山のようにあるのに、うまく声にならない。
アストールは武器の扱いには慣れてはいないようで、昼間にエヴィーが目の当たりにしたグウェンのそれに比べれば、動きは拙く無駄が多い。意識を取り戻したばかりで、うまくまだ自分の身体を操れないのかもしれない。簡単に逃れられそうにも感じられたが、その分彼には鬼気迫るような不思議な何かがあった。エヴィーはその雰囲気に呑まれていた。
「――僕になってもらう為だ!」
叫んで、アストールは再びエヴィーに短剣を突き出した。立ち上がる間もないまま、エヴィーは横に転がって逃れる。アストールの手が、転がった拍子に跳ね上がったエヴィーの鍵に触れた。
「なっ……」
弾かれるようにアストールは一歩下がった。何が起こったのかわからないという顔で、自分の手とエヴィーを見比べた。
その隙にエヴィーは尻餅をついたままあとずさった。
吠えるように言葉にならない声を上げ、アストールはまたエヴィーに向かって短剣を向けた。剣先が月明かりを受けて白く鋭く光り、自分の胸に向かって突き出されたその軌跡がエヴィーの眼にはやけにゆっくりと映った。
――もう駄目だ。
きつく目を閉じたその時、銃声が響いた。同時に、アストールとエヴィーの間に、大きな黒い影が割り込んだ。
「……ぐっ、うっ……」
影はその場に倒れ込んだ。赤い血が滴り、月明かりしかない青白い闇夜の大地に点々とその跡を残した。アストールの手首にはレイが拾い投げたナイフが突き刺さり、彼はその場にうずくまった。
「エヴィー! 大丈夫か!」
レイとジールが走ってくる。別の方向から、痛む身体を引きずってキルシュが立ち上がろうとしているのも見えた。
「何のつもりだ、坊ちゃん」
レイはナイフを抜き、アストールの腕を捻り上げた。アストールは唇を噛みしめ、きつい眼差しをエヴィーに向けた。
「最初からこうするつもりだったのか。エヴィーを呼んで、足が悪いから巫女の代わりをしてくれだなんて嘘だったんだな。一体何の為に」
「……僕が自由になる為だ」
「何?」
「ずっと女の振りをさせられて、一生屋敷の中に閉じ込められるしかない気持ちなんておまえたちにわかるか! 『奇跡の公女』なんて言われて崇め奉られても、その実体はただの人形でしかないなんて!」
ジールはエヴィーの前に倒れた者を抱き起こした。腹に短剣が突き刺さっている。それは先ほどエヴィーが手放したものだった。夜の闇に溶けそうな、黒い衣をまとったその男の顔を見て、ジールは絶句した。
「……国王」
「え?」
「国王だ。この顔は、国王ヴォルフィウス十三世だ!」
「それは違う」
割り込んだ声に、一同は揃って振り返った。
いつからそこにいたのか、神官の衣を着た男が歩み寄ってくる。持っている灯りが夜の闇の中で鮮やかに揺れた。
「リュシアスさん……?」
「……あんた、さっきの……」
エヴィーとジールは同時に呟き、互いの顔を見た。
「知り合いか?」
「ジールこそ……」
「どちらも正しい。また会ったな。それからキルシュ、君も。アストールはずいぶん久しぶりだな。もっとも、君が私のことを覚えているかどうかはわからないが」
リュシアスは跪き、男の身体をジールから抱きとった。代わりにリュシアスが持っていた燭台をジールが受け取る。その灯りが倒れた男の顔を照らし出す。彼の顔は既に血の気を失っていた。榛色の目が見開かれ、唇がわなないている。
「私がわかるか?」
「……りゅ、しあす……私の……」
「そうだ。おまえの兄弟だ」
兄弟?
エヴィーは二人の男の顔を見比べた。確かに瓜二つだ。――そう、まるで自分とアストールのように。
「どういうことだ……?」
「この男は国王ではない。私が国王ヴォルフィウス十三世だ」




