(2)
エヴィーが港町ヴェールンに住み着いて二年が経った。
大陸の南端に位置し、大国グウィンハルスの玄関口として栄えるこの街に初めてやってきた時、エヴィーはその人の多さに驚いたものだった。引っ切り無しに行き交う船の警笛や、どこかの工場から立ちのぼる黒煙にはずいぶん慣れたつもりだが、それでもまだ、この街でこの先ずっと生きていくのだという意識はない。まだどこかで、自分はこの街に受け入れられていない、自分がこの街を受け入れていないという思いがある。ずっと借り着のまま生活しているような、落ち着かない気持ちでいる。
エヴィーは、自分がどこで生まれたのかは知らない。ただ、海の向こうの小さな島で彼女は育った。
名を、アルバドス島という。
決して居心地が良いとは言えなかった。その島でも、エヴィーは異分子だった。だが、彼女にとって故郷と呼べるのはその島しかない。
何事においても閉鎖的な島だった。道を行けば会うのは知った顔ばかり、何をしてもすぐにその噂は広まっていく。そこにいる時は、その息苦しさが嫌で嫌でたまらなかった。早く出て行きたい、いつもそう思っていたが、いざ飛び出してみると記憶というものは美化されるものらしく、故郷を捨てた多くの例に漏れず、エヴィーも郷愁という名の空想にしばし酔った。だが、たとえ戻ったとしても、理想どおりに美しく楽しく暮らしていけるわけではないこともエヴィーにはよくわかっていた。
レイの言葉に渋々乗せられるふりをして、エヴィーは仕事の依頼を引き受けた。他に引き受けている仕事もなかったし、生活費は尽きかけているし、と言い訳して断らなかったのは、本当は帰る理由が欲しかったからなのかもしれない。
レイから仕事の話を聞いた翌日、二人はもう海の上にいた。レイはアルバドス島とヴェールンの間を往来している貨物船の船長に話をつけ、既に二人分の乗船許可を確保していた。エヴィーがぐずぐず言いながらも依頼を承諾することを最初から見越していたのだろう。そして彼女が余計なことを考える時間を与えない為に、わざとその前日に依頼を持ってきて、勝手に話を進めて翌朝迎えにやってきた。その行動の素早さというか抜け目のなさには、いつも感心を通り越して呆れてしまいそうになるが、今回ばかりはそれでよかったのかもしれないとエヴィーは思っていた。流された方が楽なことはある。
レイが手配した船は小型の帆船だった。ヴェールンとアルバドスの間に広がる海は、たいてい波は穏やかで風も落ち着いている。船に慣れているとは言えないエヴィーでも、快適とまでは行かずともそこそこ楽に過ごすことが出来たが、気候が安定しているにも関わらず往来は少ない。
ヴェールンを出港し、南へ船で十日ほど揺られると、波の向こうに小さな島影が姿を現した。強い日差しが照りつける甲板に上がり、鴎の鳴き声に耳を傾けながら手すりに体重を預けて、エヴィーは近づいてくる島の姿を眺めていた。客船ではないので、甲板には忙しく立ち働く船員の他は誰もいない。
……もう、戻ることはないと思っていたのだけれど。
無意識のうちに、衣の下の養父の形見を探っていた。真鍮の冷たい感触に触れて、思いを馳せる。何を開ける為の鍵かは知らない。ただ、持っていれば何かいいことがある、と手渡され、そのままエヴィーのお守りとなった。
この十日間の眠りは浅い。いっそひどい船酔いに悩まされていればよかった、とエヴィーは思った。その方が何も考えずにいられるのに。
アルバドス島が更に近づくにつれ、その上空を舞う鳥の姿が鮮明になってくる。否、鴎に混じる大きな影は鳥ではない。エヴィーの知っている、あれは――、
「ここにいたのか。もう着くってさ」
レイが船室から上がってきた。ただぼんやりと物思いながら十日間を過ごしていたエヴィーとは違い、レイは船員の手伝いをしたり、いろいろと話しかけては情報を収集したりと動き回っていた。
「そう」
エヴィーは手すりから身体を起こし、レイが持ってきた荷物を受け取った。
「あれが噂に聞くアルバドス島か。初めて見たな」
エヴィーの隣に立ったレイは物珍しそうに島を仰ぎ見る。
「懐かしい?」
「……さあ」
「さあってことはないだろう。十五年住んでたんだから」
エヴィーはそれには答えずに、また刻一刻と間近に迫る島を眺めた。
「あんたら、アルバドスに何の用?」
甲板にいた若い船員が二人に声をかけた。
「観光には向かないよ、あの島は」
「いや、ちょっと仕事でね」
「仕事ねえ…」
船員が首をひねる理由がエヴィーにはよくわかった。あの島の人間は、とにかく他者を受け入れない。島外からの手を必要とすることなど何もない、はずだ。
「帰りは決まってんのか? 俺らは荷物を下ろしたら、またすぐにヴェールンへ戻るんだが」
「ああ、それはいいよ。帰る時になったら次の船を待つさ」
ヴェールンとアルバドスの間を行き来する定期便は、だいたい十日から二十日に一度の割合でやってくる。いつ次の船が来るかはっきりと知らないが、狭い島のことだから、すぐに情報は入ってくるだろう。
「もうしばらくしたら、また来ると思うけどね」
「そりゃまた何故?」
「祭りがあるらしいんだ。なんでも、十何年かに一度のでかいやつが。それを見たいっていう物好きが多少はいるらしくてさ」
「へえ、そんなのあるの」
「俺はてっきり、あんたらもそれが目当てなのかと思ってたよ。それにしては時期がちょっと早いんじゃないかと」
「いや、祭りのことは今初めて聞いた。どんなの?」
「それは俺も知らない」
船員は肩をすくめた。
祭りのことは、エヴィーも知っていたが見たことはない。聖大祭は十七年に一度行われる。前回はエヴィーが生まれた年のことで、記憶にあるはずがなかった。
「島は初めて?」
「俺はね。こっちは違う」
「へえ、そりゃ珍しいな」
船員はエヴィーをしげしげと眺めた。大陸では、一度行ったらもう二度とアルバドスには行きたくないと思う人間が大半なのだと言う。それはそうだろう、とエヴィーは内心で同意した。
「まあ初めてじゃないなら知ってるだろうけど、気をつけろよ。まだ治安もいいとは言えないらしいし、何しろあの島の連中は余所者には冷たい」
「らしいね」
船員が行ってしまうと間もなく、到着を知らせる鐘が鳴った。
ヴェールンのそれとは比べ物にならないほど小さな船着場。アルバドス島唯一の外へ開かれた出入口には、たった今、エヴィーたちが乗ってきた船の他は、島の人間の持ち物なのか粗末な漁船が何隻かあるだけで、人の姿はほとんどない。船員たちが船荷を下ろしはじめるのに紛れて、エヴィーとレイは桟橋を渡り、アルバドスの土を踏んだ。
レイが船長と話をしている間、エヴィーはしばらくぼんやりと辺りを見回した。二年前、エヴィーはここから島を出た。その時の光景と何ら変わっていないように思える。緊張を覚え、大きく深呼吸してみることにした。
「さて、行きますか」
「どこに?」
「とりあえず俺は揺れない寝床で眠りたい」
それについてはエヴィーも同感だった。
アルバドス島は東西に広がる小さな島である。三、四日もあれば徒歩でも端から端まで移動出来るほどだ。さびれた船着場をあとにし、二人はレイが連絡済みだという宿へ向かった。
街道はほとんど整備されておらず、けもの道に毛が生えた程度でしかない。ヴェールンでは、市街地の道路は敷石で舗装され、見た目にも美しく歩きやすかったし、少し疲れたら頻繁に行き交う辻馬車を拾えば良かった。別の街へ向かう時には汽車があった。すっかり海の向こうの便利な交通事情に慣れてしまっていたエヴィーは、これがこの島の常なのだとわかってはいたものの、不便を感じた自分がこの島に合わないということを改めて突きつけられたような気がした。
歩き出した二人の頭上を、ふと大きな影が横切っていく。白い花のような羽が一枚、ひらりと舞い落ちた。
「……あれが有名なアルバドス人か」
羽を拾い、飛来したその影を見上げてレイは感心したように呟いた。
二つ、三つと続く影に、エヴィーはため息をついた。
この島では、人々は翼を広げて遥か上空を飛んでいくのだ。