(2)
男が置いていった鍵を、ジールはじっと眺めていた。確かに見覚えがある。昨日、エルシェンバード公爵家の別邸に『公女アスティア』を迎えに行った時、彼女が身につけていたものだ。気づいて外させた、あの一瞬にちらりと見ただけだが、何故かこれがそれだという強い確信があった。
紐がついていたので、エヴィーに倣って首から下げてみた。握っていると、なんとなく心が落ち着く。身体の奥深くから、自分自身でさえ知らない力が沸いてくるような気さえした。
お守りだ。あの時、エヴィーはそう言っていた。彼女が本当に自分をここから出してくれるのか、そんなことが出来るのかどうかは定かではなかったが、今は信じるしかなかった。
寝台の上で横になった。薬のせいかいつになくよく眠ったから、ちっとも眠くはならない。だが他にすることもないので、ジールは目を閉じる。
ジールが身じろぎする時のわずかな衣擦れの音の他は何も聞こえない。沈黙だけが広がっている。こうも静かだと、つい余計なことまで考えてしまう。
エヴィーとキルシュはどうしているだろう。今の男が無事に連れてきてくれればいい。だがあの男は島の人間ではないと言っていたから、移動は翼を持つ島民たちよりも確実に遅くなる。あの二人も馬鹿でないなら、俺のことなどなかったことにして、自分たちだけで移動しはじめているかもしれない。すれ違いにならなければ良いのだが。
キルシュは聖大祭を汚した罪人だが、今となってはもうそれを糾弾する気にはなれなかった。
どれほどの時が経った頃だろうか。また扉の向こうで、長い裾を引きずる規則正しい足音が聞こえてきて、ジールは飛び起きた。
先ほどの男だろうか。扉の小窓に顔を押し付け、ジールは狭い視界の中で男の姿を探した。正体の知れない男だが、一人で放り出されているよりは少しでも会話が出来るだけまだましだ。
足音がジールの部屋の前で止まった。男が屈み、小窓からその顔が覗いた。
「おまえ、何を持っている」
「え?」
ジールは何のことかわからずに男を見返した。
「さっきから、何を持っている?」
男は急に小窓から手を突き出そうとした。だがその窓は男が思っていたよりも小さかったのか、手首より先は入らず、ただ指先がかろうじてジールの鼻先に触れた。伸びた爪には黒い垢がたまっている。
思わずジールは一歩あとずさった。
「うるさい。何かが、ずっと鳴っている!」
男は何かを探すように、突き出した指先をさまよわせた。ジールには何も聞こえない。
「何が聞こえるんだ?」
「わからない。だが、さっきここへ来た時はこんな音はしなかった」
ジールは辺りを見回した。彼には何も聞こえないし、周囲にも変わった様子はない。先ほども今も、ただ冷たい壁が広がっているだけだ。
「もしかして……これか?」
先ほどと違うことと言ったら一つしかなかった。ジールは首から下げた鍵を少し持ち上げ、男の指先に触れさせた。
「……これだ」
小窓の向こうで、男がかっと目を見開いた。
「これは何だ?」
「俺も知らない。預かったものだ」
「寄越せ」
「それは無理だ。これは預かり物で、俺のものじゃないから」
これはエヴィーに返してやりたかった。彼女がこの地下牢をやぶることが出来るかどうか、その成功如何は関係なく、彼女の手に戻してやるべきだと強く思った。あの時、『お守り』を持っていきたいと言った彼女の声はとても細くて弱々しく、その様子に嘘はなかったと思う。女神への信仰を盾にそんな小さな願いすら叶えてやれなかった自分が、今となってはひどく愚かに思えた。
男の指先が鍵を掴んで離さない。その風体からは想像出来ないほど強い力で引っ張られ、紐がジールの首に食い込んだ。
「やめろ!」
一瞬の隙をついて、ジールは後ろに飛び退った。男の指から鍵を取り戻し、掌に強く握りこんだ。
「それが欲しい。寄越せ!」
「断る。俺のじゃないと言っているだろう!」
「何を騒いでいる!」
鋭い声が響いた。
男は弾かれたように手を引き抜き、扉から離れた。
――この声は知っている。
ジールはごくりと唾を飲み込み、掌の鍵を更に強く握った。固い靴音が近づき、ジールのいる部屋の前で止まった。
「ここにいたのか。出してやるとは言ったが、自由に出歩く許可は取り消したはずだ」
「う……あ……」
苦しそうな男の声が聞こえる。
「君の出番はこれからだ。もうしばらく、おとなしくしていることだ」
「わかった……」
「それなら良い」
声の主は男をなだめ、扉の向こうで何やら金属音をさせていたかと思うと、ジールの目の前の扉が開いた。
「――――大神官様……」
震える声で、ジールは呟いた。
もう一度カーディスに会うことがあれば、言いたいことは山のようにあると思っていた。目の前にいるというのに、何も言葉が出てこない。
カーディスの背後に先ほどの男がいた。薄汚れた衣を身にまとい、まるで主に隷属する者のように腰を折り、びくびくと怯えた様子でジールとカーディスの様子を交互にうかがっている。白い衣装を身につけ、まっすぐにジールを見据えるカーディスとは対照的だ。
カーディスはジールを見て、薄く笑った。
「すまなかったな、ジール」
「……何故」
「私の早とちりだった。君はここにいるべきではない」
何を言われているのか、ジールには理解出来なかった。
「どういう……ことなのですか」
「心配せずとも良い。君のことは私が必ず守ろう」
「守るって……」
何から。
わけがわからずに、ジールは目を瞬かせた。
「誰にもその存在に値する正しい役目がある。この男にも、君にもだ」
「役目……?」
「大したことではない。君が持っているあの宝石を公開し、本当の生まれを公表するだけだ」
「生まれ……」
あの赤い宝石。何故、そのことをカーディスが知っているのか。
母の顔が脳裏をよぎった。
「既にもう会っているとは思わなかったが、この際だから言っておこう」
「何を……」
「この男は君の父親だ」
「父親?」
さらりとカーディスが口にした言葉に、ジールは目を剥いた。
――まさか、そんなはずは。
「そうだ。――行方不明になっていた国王ヴォルフィウス十三世その人だ」