(4)
結局、キルシュは一人ならなんとか飛ぶことが出来たが、エヴィーを抱えて飛ぶのはやはり無理だったので、二人は歩いて山を下りることになった。
「別につきあわなくてもいいのに。下手したら捕まるんじゃないの?」
「いや、大丈夫だろ。あんたが何も言わなければ俺が巫女を攫った襲撃犯だなんて誰も知らないし」
「でもジールが知ってるわ」
「あいつなら今頃、さっきの何だっけ、ラドルフォス神殿? あそこに行ってるんじゃないか?」
雨も止んだので、その可能性はある。エヴィーは晴れ渡った空を見上げた。嵐の後の澄んだ空には雲ひとつない。
「今のところ、まだ誰も来てないみたいだけどね」
ここが禁域であるということが抑止力になっているのだろうか、とふと考えた。昨日は咄嗟のことだったので仕方がないにしても、神殿としては王家の領域にむやみに立ち入ることは出来ないのかもしれない。
二人は急斜面を注意深く進む。昨晩の雨で地面はぬかるんでおり、気を抜くと滑ってしまいそうになる。まったく整備されていない山道はひどく歩きづらい。
「で? あんたはこれからどこに行くわけ?」
「そうね……、とりあえずエルシェンバード公爵家の別邸、かな」
先ほどリュシアスが言っていたとおり、ダルトンの形見のあの鍵を取りに行くべきだと思う。それに、そこへ行けばレイもいるだろうし、アストールと入れ替わることも出来る。巫女が連れ去られ、また現れたことについての辻褄あわせはそこで考えればいい。そうしたらすべて終わる。ヴェールンへ戻ろう。
「俺も行っていいか?」
「え?」
「俺のことは通りがかりに助けてくれた親切な人ってことにしといてくれ」
エヴィーは、『公女アスティア』は妹だと言った彼の言葉を思い出した。
「……やめておいた方がいいかもしれないわよ」
「なんで」
「なんでって言われると……」
自分が偽の巫女であることは話したが、『公女アスティア』が本当は男だということをキルシュはまだ知らない。自分の嘘を自分で明かすのは構わないが、他人の嘘を本人の与り知らぬところで勝手に暴くのは気が引ける。
「別に名乗り出ようなんて思ってねえよ。ただ、遠くからちらっとでも見れたらそれでいい」
「公女の誘拐は諦めたの?」
「いいよ、もう。お頭には後でうまく言っとくさ。元々、お頭だって大して乗り気じゃなかった仕事なんだし」
「そうなの?」
「なんか胡散くせえって。でも俺がやりたかったから」
「……そう」
エルシェンバード公爵家に行き、『公女アスティア』の姿を見るとなるとキルシュは間違いなく真実を知ることになる。どうしても会わなければならない客人がいない限り、邸内ではアストールは男の格好をしているのだ。キルシュの気持ちはわからないではない。エヴィーも、もし自分に血の繋がった兄弟がいると聞けば、一目だけでもどんな顔をしているのか見に行きたくなるだろう。たとえ目の前に瓜二つの人間がいたとしても、それとは話が違うのだ。
だが、アストールは正体が露見するのを嫌うだろう。キルシュよりも先にアストールに会うことが出来れば、キルシュの前では少女のふりをするよう伝えられるのだが。
いつの間にか、日はずいぶん高くなっていた。歩き続ける二人の額には玉のような汗が浮かぶ。斜面はやがてなだらかになって歩きやすくはなったが、鬱蒼と茂っていた木々はまばらになり、太陽の光が直接肌を突き刺すように照り付けている。
ふと、頭上をひとつ黒い影がよぎった。この晴れ渡った空の中、風を切って飛んでいけるなんて。ああ、なんて羨ましい。そう思ったのは一瞬だけで、すぐにそれがおかしいことに気づく。
ここはまだ禁域。上空を飛ぶのも禁じられているはず。
ジールが知らせたせいで、ラドルフォス神殿に二人を探しに来たのか? とすると、影が一つというのは妙だ――。
上空の影は二人の上で旋回し、急降下を始めた。
「何だ?」
キルシュもその影に気づき、立ち止まる。影は男の姿となり、エヴィーの前に降り立った。
「……グウェン?」
アストールの忠実な僕。二日ぶりだが、ずいぶん懐かしく感じた。
迎えにきてくれたのか、と一瞬エヴィーは破顔したが、グウェンの様子を見てすぐに表情を改めた。グウェンは険しい顔でエヴィーを見ている。
「……どうしたの? アストールは一緒じゃないの?」
「知り合いか?」
「あ、うん、まあ……」
「――悪く思うな」
言うなり、グウェンは懐から短剣を取り出した。エヴィーに向かって突き立てる。
「危ない!」
咄嗟にキルシュがエヴィーの腕を強く引いた。エヴィーとキルシュは尻餅をつき、グウェンの短剣は空を切った。
「いきなり何なんだあんた!」
「何なのグウェン!」
二人が同時に叫ぶが、グウェンの表情は変わらない。その目はぞっとするほど暗く、強い光がエヴィーを射すくめる。
「別におまえ個人に恨みはない。だが、こうするのが一番いい」
再びエヴィーに切りつけたが、キルシュが自分の短剣でそれを受けた。きん、と金属がぶつかり合う高い音がする。
「事情は知らんが、丸腰の女にいきなり何すんだよ!」
その間にエヴィーは立ち上がり、数歩あとずさった。
「エヴィー、あんた今のうちに逃げろ!」
「でも……!」
「おまえには関係ない。手出しも無用。ただし、邪魔をするならおまえも殺す」
身体の大きさではキルシュはグウェンにはかなわない。おまけにキルシュは腕と肩を怪我している。昨晩イリアが手当てをしてくれたが、これではすぐに傷口は開いてしまうだろう。
グウェンが自発的にこんなことをするとは考えられなかった。十数日同じ邸にいたが、彼の行動はいつもアストールの為。アストールの指示でしか動かない。常にアストールの背後に控え、彼からの言葉を待っている。
ということは、アストールがエヴィーの死を望んでいるのか?
そうとしか考えられなかった。だが何故。
キルシュの肩が赤く染まり始めた。その顔が苦痛に歪む。キルシュの力が緩んだ隙に、グウェンはキルシュの腹に膝を入れ、キルシュの身体が沈んだ。
「キルシュ!」
呻きながらも、キルシュはなおも起き上がろうとする。だがグウェンはもうそちらには目もくれず、再びエヴィーに狙いを定め、鋭く切りつけた。紙一枚のところでその一撃を避ける。頬に一筋赤い線が浮かび、栗色の髪が一房宙に散った。
武器を持たないエヴィーは逃げるしかない。木々の隙間を縫って走った。すぐに息が上がり始める。だが捕まったら一貫の終わりだ。
グウェンはその大きな身体には似合わず、素早い動きでエヴィーを追い詰めた。足がもつれ、エヴィーは転倒した。もう駄目だ、と迫ってくるグウェンを見上げる。何故こんな目に遭わなければならないのか。抗議の言葉は声にならず、ただ涙が出てきた。
「すまない。おまえ個人に恨みはない。それは本当だ」
グウェンがエヴィーの襟首を掴む。次に来る痛みを覚悟したその時だった。
「エヴィー、避けろ!」
聞き慣れた声と同時に、鋭い銃声が響いた。グウェンの身体が崩れ落ち、エヴィーを掴んでいたその手が離れた。
「無事かエヴィー!」
「……レイ!」
馬にまたがったレイがそこにいた。手にした拳銃からは一筋の白い煙が立ちのぼっている。
転がるようにエヴィーはグウェンから離れた。肩を撃ちぬかれたグウェンは、それでもまだ起き上がってエヴィーに切りつけようと短剣を握っている。立ち上がろうとしたところを、レイはもう一発、今度は足を狙って撃った。見事に命中し、グウェンは呻き声を上げてその場にまた崩れ落ちた。
「早く、こっちだ!」
駆け寄ってきたエヴィーを馬に引き上げ、レイは手綱を操って馬の向きを変えた。
「とりあえず間に合ってよかったよ。どうなることかと思ったけどな」
「どういうことなの? レイ、あなた何か知ってるの? どうしてグウェンが私のこと……アストールは?」
「話せば長い。先にここを離れよう」
「ちょっと待って、まだキルシュが……」
「キルシュ?」
「この先にいるの。私を助けてくれたわ」
元の場所に戻ると、キルシュが仰向けに倒れていた。エヴィーは馬から滑り降り、彼に駆け寄った。
「キルシュ、大丈夫?」
「……エヴィー?」
意識はあるようだ。エヴィーはほっと息を吐いた。
「……あの男は?」
「大丈夫、この人が撃ったわ」
「誰?」
「私の知っている人だから大丈夫よ」
キルシュの肩から腕にかけて巻かれた包帯がすっかり真っ赤に染まっていた。
「ごめん、傷口開いちゃったわね」
「すぐ閉じるさ」
「レイ、この人も乗れる?」
「三人か。ちと厳しいな」
「いや、俺はいいよ」
キルシュは立ち上がり腕を回してみせた。
「俺一人ならなんとか飛べる。その馬にはエヴィー、あんたが乗れ」
「でも……」
「エヴィー、揉めてる暇はない。グウェンがまた起きてくる前にここを離れないと」
キルシュは翼を広げた。肩が痛むのか一瞬顔をしかめたが、すぐにふわりと空に浮かび上がる。少しふらつくようだったが、それほど速度を上げなければ支障はないようだ。
レイはエヴィーを馬上に引き上げ、走り出した。その後を低く飛ぶキルシュが追う。
「どういうことか説明してくれない?」
「それは後だ。とりあえず先にどこか落ち着けるところを探そう。あいつの手当てもしてやらんとな」
レイの操る馬はあっという間に山を離れ、街道へ出た。青々と茂る畑が広がり、人々の生活が視界を流れていく。
「ああそうだ、一つ知らせることがあったんだ。ずっと山の中にいたんだったら知らないよな」
「知らせ? 何?」
「行方不明になっていた国王が見つかったそうだ。今、その知らせで島中は大騒ぎさ」
「国王が?」
レイが頷く。
「一体どうなってんだろうなここは。公女が誘拐されたかと思うと、今度はその父親が発見されるなんてな」