(3)
ロサスの邸を後にしたレイは、エルシェンバード公爵家の別邸には戻らず、祭りの真っ最中に巫女が攫われ、混乱する神殿に忍び込んだ。元々こうしたことは得意である。自らの気配を消し、そこにいても怪しまれない立ち位置を探る。
神事をぶち壊した襲撃犯と競り合い、負傷した神官が次々と運び込まれてきていた。女神官たちがその手当てに追われている。手当ての為に脱いだのか、無造作に置かれた上着を一着拝借した。少し丈が短かったが、さほど不自然というほどでもない。それさえ着ていれば神殿内を自由に歩き回ることが出来た。大所帯が幸いし、たとえ知らない顔がいても、新入りか普段は別の教区にいる神官だと勝手に思ってくれる。
神殿内をうろついて聞こえてくる声を拾っているうちに、襲撃犯と連れ去られた巫女を追っていったのがジールという若い神官見習いただ一人であるということはすぐにわかった。外は嵐になっていた。レイは翼を持たないし、この島の人間ではないから土地勘もない。むやみに動いても無駄だと早々に判断し、その神官見習いを捕まえてエヴィーの行方を尋ねようと、一晩神殿に潜んでいたのである。
ジールの帰着を知ってそのあとを追ったが、声をかける機会を見つけられないまま彼は大神官カーディスの部屋を訪れ、その後自室に戻って以降出てこなかった。彼の部屋を訪ねようかとも思ったが、個室ではないようだったので少し躊躇しつつ様子を見ていると、妙な具合になった。数人の男たちがジールの部屋に入っていき、やがてぐったりと意識を失った彼を運び出してきたのである。
レイはすぐさまそれを尾行した。神殿の裏手には小さな丘が広がっており、そこは代々の王家の人間や、神殿で高位にあった者たちの墓場ということだった。その中に、立ち並ぶ墓標を模して目立たないように地下への入口が作られており、ジールを連れた男たちはそこへ入って行った。人の気配は他になく、さすがにそこまでは入れずに近くで待っていると、やがて出てきたのはジールを運んでいった者たちだけで、そこにジール本人の姿はなかった。
雨が止んで朝になると、レイはジールが運び込まれた地下室の周辺を調べた。幸いにも墓守らしき人影はない。そこは完全に地下というわけではなく、明かり取りの窓が地面からわずかに飛び出ている。雑草に隠れた窓の数は左右で合わせて全部で六つ。しばらく耳をすましていると、そのうちの一つから人の声のようなものが聞こえてきた。それがジールのものであるかどうかは確信が持てなかったが、あまり時間はかけられない。一か八か、レイは糸の先に書付を結びつけ、窓から垂らしてみた次第である。
連れ去られた巫女が偽者であり、彼女に翼がないことを知っていた彼は間違いなく本物だ。レイは密かにほくそ笑んだ。
「……本当にここから出られるのか?」
窓の下から、ジールは疑わしげな声で言う。
無理もない、とレイは思った。得体の知れない男からの誘いに簡単に乗ってくるようであれば、それは単なる馬鹿だと思う。
だが、この状況はレイにとって幸運だ。普通に交渉していれば、ジールが用心深い男であればエヴィーの行方について口を割らないかもしれない。だが今は、彼もかなり追い込まれている。何故彼がこのようなことになっているのかは知らない。だが本人も納得していないのは確かなようだ。脱走の手助けを条件として提示すれば、ジールも考え方を変える可能性は高い。
「だから、それはあんた次第。今、俺だけじゃここから出してやるのは無理なわけよ。エヴィーの居場所を教えてくれたら出してやるように計らってやる」
「……それなら先に出してくれ。彼女のいるところへ案内しよう。嘘じゃない」
「それもちょっと難しい」
「何故?」
「エヴィー本人が、あんたがそこから出られるかどうかの鍵だからさ」
この地下牢の入口には鍵がかけられており、看守として常駐している人間はいないようだ。窓が複数あったことから察するに、中もいくつかの独房――あるいは相部屋かもしれないが――に分かれているはずで、そこにも鍵がかかっているだろう。エヴィーは大陸のものよりもこちらの錠前の方がつくりが荒くて簡単だと言っていたから、彼女ならばジールを逃がしてやることも出来るかもしれない。
「あの女が? 俺をここから出せるって?」
「そうだ。その女があんたの今後を握ってるわけだ。――どうする?」
「…………」
ジールは悩んでいるのか、黙り込んでいる。畳み掛けるようにレイは問う。
「嫌ならいいよ。この話はなかったことにしよう。その代わり、あんたはいつまでもそこでくすぶってることになるけどな」
「……わかった。言おう」
「そう来ないとな」
「ただし、他言無用で頼む」
「そのあたりは任せとけ」
そんな依頼は今までだっていくつもあった。客の事情は口外しないこと、それはこんな仕事をする上での最低限の常識だ。
「それから条件がある」
「条件?」
「俺はここから出たい。俺が知っていることを教えたら、あんたは俺のことを忘れてしまうかもしれない。それでは困る。何か質になるものを寄越せ」
「質になるもの、ねえ……」
なかなか簡単にはいかない相手のようだ。レイはしばらく考えて懐からエヴィーがいつも身につけていた鍵を取り出した。先ほど垂らした糸の先に結びつける。
ロサスに高く売りつけるつもりだったが、当てが外れた。今となってはレイには何の役にも立たないものだ。
「これでも持っとけ。俺のじゃないが、エヴィーの大事なものだ。親父さんの形見らしいからな。それがかかってるとなれば、あいつも本気で鍵を開けてくれるだろうよ」
ジールが糸から鍵を外した。軽くなった糸を引き上げ、レイは再び顔を窓に押し付ける。
「それで文句はないだろう?」
「そうだな……」
ジールは鍵をしばらく眺めた後、顔を上げた。青い瞳が射抜くようにレイを見る。
「エヴィーの居場所は?」
「――西だ。西の、王家所有の禁域の山。その奥深くに異教の神殿がある。目印は翼と蛇の紋章だ。そこに彼女はいるはずだ。自分で移動さえしていなければ」
「西ね。――了解」
土地勘はないが、それだけ聞けば十分だ。あとはいくらでも調べられる。
「――驚かないのか?」
逆に驚いたようにジールが言った。
「何が?」
「その……異教の神殿だぞ」
「それがどうした? ……ああ、そうか」
レイはジールの反応を訝しんだが、すぐに思い至って軽く笑った。
「この島の人間なら驚くことなのかもしれないな。だが残念ながら俺はそうじゃない」
「島の人間じゃないのか」
「大陸から来たんでね。神様が一人しかいないってことの方が俺にとっては異常なのさ」
「…………」
「神様なんてそんなもんだろ。ま、あんたら神官にとっては大事な飯の種かもしれないけどな」
レイは立ち上がった。頬や衣を軽くはたき、地面に押し付けていたせいでこびりついた土を払い落とす。
「じゃあな、しばらくおとなしく待ってるんだな。エヴィーを連れ戻すことが出来たら、助けに来てやろう」