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月は蒼天の檻に  作者: 結城琴葉
第五章
14/28

(2)

 瞼の裏が徐々に白くなっていく感覚で、ジールは夜が明けたのを悟った。雨音も聞こえない。夜の間に嵐は止んだのだろうか。

 ゆっくりと目を開け、身体を起こそうとしてその動きが止まった。

 ――ここはどこだ。

 見慣れない天井。いつもなら同じ部屋に同じ神官見習いの少年が眠っており、最も早く起きるジールが彼らを起こして回るはず。なのに彼らの姿はどこにもなく、ジールただ一人が固い寝台に寝かされていた。部屋は狭く、冷たい石の壁が周囲を取り囲んでいる。低い天井近くに明かり取りの小さな窓があるだけで、そこには鉄格子がはめられていた。

 身体を起こし、周囲を見回した。何度か瞬きを繰り返してみたが、状況は変わらない。

 ここはどこだ。

 昨晩のことを考えた。聖大祭を潰した襲撃犯を追いかけて、禁域の山中に突っ込んだ。そこで見つけた異教の神殿。大神官に報告したこと。

 ――大神官からの差し入れだという食事を取った後の記憶が何もない。

 普段、ジールの眠りは浅い。少しの物音で目が覚めてしまうし、誰かが自分の身体に触れようものなら間違いなく飛び起きる。多少酒に酔っていたとしてもそれは変わらない自信がある。だが、自分の足でこんな見知らぬ部屋へやってきたとも思えない。

 ――眠っている間に誰かがここへ運び込んだのか。とすると、あの食事に何か薬が仕込んであったのか。

 固い寝台と、部屋の隅に小さな壷が一つ置いてあるそれだけの部屋。立ち上がり、唯一の出入り口である扉に近づいた。ジールの腰のあたりに小さな小窓がついている。何かを出し入れする為の。

 ……ここは牢か?

 天井付近から光が漏れてきていることから察するに、ここは半地下状態になっているようだ。

 着ているものは普段と変わらない神官見習いの衣だが、身につけていた細々とした品物はすべてなくなっていた。護身用の短剣や母の形見の守り袋や、そういったものが何もない。

 閉じ込められているとしか思えなかった。しかし何故。

 心当たりは一つしかなかった。大神官カーディスに他言無用と念押しされた異教の神殿。

 あれは、知ってはならないことだったのだろうか。あれを知ってしまったがために、自分は今ここにいるのか。

 無駄に騒いだところで仕方がないことはわかっていた。だが、多少の説明はあってしかるべきだ。

「……誰かいないか?」

 ジールは扉の小窓からなんとか外を覗こうと顔を近づけ、呼んでみた。だが返る声はない。わずかに見えた扉の向こうは、ただ似たような扉がいくつか続いているだけだ。

「誰かいないのか!」

 他の囚人もいないのか、ただ沈黙の間にジールの声だけが響く。

「誰か!」

 扉を揺すってみたが、ひどく頑丈でびくともしない。

「何故だ!」

 ――何故、こんな目に遭わなければならないのか。

 見なければよかったのか。言わなければよかったのか。誰にも他言はしないと言ったのに、信じてはもらえなかったのか。大神官にとって、自分はその程度の人間でしかなかったのか。

 何故。――何故。

 問いかけばかりが頭の中を回り続ける。誰も答えてはくれない。

 大神官カーディスのことは心から尊敬していた。彼の言葉は若い神官たちや島民の心を掴み、女神への信仰をより強くさせた。ジールもその例外ではなく、女神への信仰心はそのままカーディスを信じることでもあった。

 決して壊れることはないと信じていたその心が、音を立てて少しずつ崩れていくのがわかる。――いや、今に始まったことではない。昨晩から、小さな亀裂は間違いなく広がっていたのだ。

 扉を叩くのにも疲れ果て、ジールはずるずるとその場に座り込み、膝の間に顔を埋めた。――これからどうなるのか。何もわからない。

 今頃、神殿では皆どうしているのだろうか。巫女と襲撃犯の居場所を知っているのはジールだけだ。カーディスはあくまでもあの異教の神殿を黙殺するのだろうか。とすると、エヴィーやキルシュの捜索は打ち切られるのか? あの二人があのままあの場所にいるのなら、誰もその行方を知らない。聖大祭は中断されたまま放置されるのか。巫女も行方知れずのまま、祭りは失敗したという事実だけが残るのか。だがそれでは、執政官やエルシェンバード公爵家は納得しないだろうし、何としてでも公女を探すはずだ。――攫われたのが偽者だと知らないのなら。

 そうか、とジールはそこで顔を上げた。

 少なくとも一人だけは、このままだとまずい人間がいる。

 本物の公女アスティアだ。エヴィーは身代わりだと言っていた。何故本物の公女が出てこなかったのかは知らないが、このまま巫女が行方知れずとなれば、まさか聖大祭に偽の公女を巫女として出したなどと公には出来ないから、本物の公女もずっと表に出てこられないことになる。

 だが、エヴィーは何の後ろ盾も持たない異端の娘だ。ほとぼりが冷めた頃合を狙って、偽者は捨て置き、公女は解放されたことにして本物が出てくる可能性はある。キルシュ自身にはあまり害意は感じられなかったが、彼の仲間やその背後にいる者はわからない。そうなると、うまく逃げられるのなら良いが、最悪の場合にはエヴィーは始末され、今度こそ本物の公女が狙われることだって十分に考えられる。

 ――危険なのは公女アスティアだ。

 だが、自分がここで囚われている限り、それを伝える術はない。

 なんとかここから出られないものだろうか――。扉の小窓から再び外を覗く。扉にはしっかりと鍵がかけられ、小窓から手を伸ばしたとしても届きそうにない。

 その時、ジールはどこか遠くから何かを引きずるような音がすることに気づいた。ゆっくりではあるが規則正しく繰り返されるその音は、長い裾を引きずった誰かが歩いているようだ。ジールは耳をすます。音は徐々に近づいてくる。

 ――誰だ?

 音が近づくにつれて、強烈な異臭が鼻をついた。ジールは思わず鼻を手で覆ったが、それでも顔は扉の小窓に近づけたままだ。

 足音がジールのいる部屋の手前で止まった。

「……新入りか」

 呟くような声が聞こえた。

 薄汚れた衣が視界に入った。なんとか視線を動かすと、男の手が見えた。手の甲に小さな赤い痣がある。

 男は急にしゃがみこみ、ジールが覗き込んでいる小窓に顔を寄せた。

「ようこそ、地下の世界へ」

 にっと笑う。ジールは息を飲み、咄嗟に何も言えずに男の顔を見返した。濃い茶色の髪と髭は伸び放題で、顔がよくわからない。髭の間から見えた歯は異様に白く見え、榛色の眼が光った。

「……誰だ」

「おまえこそ誰だ」

 返されて戸惑う。ジールはまだ神官の衣装を着ている。これさえ着ていれば、この島では誰何の声を向けられることはなかった。

「俺は……神官だ。まだ見習いだけど」

「そうか。まだ若いのに残念だな。一度ここに入ったら、自分の足では出られない」

「……どういうことだ?」

「そういうことだ」

 男はまた声もなく笑った。

「俺は何もしていない!」

「みんなそう言う。だが例外を見たことがない」

「みんなって……あんた、ここに長くいるのか? 何故そうやって自由に出歩いている? ここは地下牢なんだろう?」

「質問ばかりだな」

「頼む、教えてくれ。何もわからないままここにいたんだ」

 男の正体はさっぱりわからない。だが他に誰もいないのでは仕方がない。ジールは少しでも情報が欲しかった。このままここにおとなしく入っている気はない。何としてでも外に出たかった。

「あんた何者だ? 俺はジール、さっきも言ったが神官見習いだ。頼む、何か知っているなら教えて欲しい」

「私は影だ」

「影……?」

「そこにいない者。どこにも存在しない者」

「……何のことだ?」

「どれくらいここにいるのかなんて、もう忘れた」

 男の風体を見ればなんとなくそれはわかった。何日、いや何年かもしれない、着続けているだろうその衣は汚れ、元の色はもうわからない。身体の大きさにも合っていないようで、先ほど聞いた引きずるような音はやはりその長い裾だった。髪も髭も手入れされておらず、あちこちで絡まったまま放置されている。

「おまえは何もしていないと言った。だったらそうなのかもしれない。だが無理だ。ここはカーディスが支配する世界だ」

「……やはり大神官様が」

 想像は当たっていたが、もう何も感じなかった。

「おまえも影になれ。そうすれば生き残れる」

「影になる……?」

「誰か来た」

 男は急に立ち上がった。そしてまた、長い裾を引きずりながら歩き始める。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 ジールは慌てて呼び止めたが、彼はそのまま行ってしまった。狭い視界からその姿は見えなくなり、やがて足音も聞こえなくなった。

 脱力し、ジールは再び座り込んだ。扉に背中を預け、片膝だけを抱えて天井を仰ぎ見る。

 ――何か掴めそうだったのに。

 今の男は一体何者だったのだろう。影とはどういうことだ? 何もわからない。だが二度と出られないなんて冗談じゃない。

 ふと、ジールは天井付近の明かり取りの窓からするすると何かを結びつけた細い糸が垂れ下がってきていることに気づいた。誰か来た、謎の男はそう言って去っていったが、その誰かか。

 糸の先には小さな紙切れが結び付けられている。ジールは立ち上がり、その糸を引いた。結び付けられた紙をほどこうとするが、気ばかりが逸ってなかなかうまくいかない。なんとか糸をほどき、小さく折りたたまれた紙を開く。――『神官見習いジールであるならばこの糸を三回引け』。紙には小さな字でそう書かれていた。ジールは暗く淀んでいた世界が一気に広がったような気がした。

「誰かいるのか?」

 指示されているとおりに三回糸を引き、ジールは頭上にいる誰かを呼んだ。先ほどの男と話していても誰も来なかった。ということは多少声を出しても大丈夫だということだ。

「ジール?」

 男の声だ。だが知っている声ではなかった。

「そうだ。あんたは誰だ?」

「昨日、巫女の行方を追っていった?」

「そうだ。行った」

「居場所を知っているか」

「――知ってる。どこにいるか知っている!」

 そのために今ここにいるのだから。

 ひょい、と小さな窓から男の顔が覗き込んだ。窓が小さすぎて目元しか見えないが、若い男であることは確かなようだった。強引に屈みこみ、顔を地面に押し付けているらしい。

「ここから出たいか?」

「出たい! 当たり前だ!」

「残念ながら俺だけではちょっと難しい。だが、あんたのことを出してやれるかもしれない人間を一人知っている。昨日、巫女がどこへ連れて行かれたのか教えてくれるなら、あんたのことを出してくれるように伝えてやる。どうだ?」

 願ってもない条件だった。あの二人のことならジールも気になっていたので、誰かが探してくれる上、ここから出られるなら言うことはない。

 しかしこの男は何者だろう? さっきから正体の見えない者ばかりだ。

「……公女を探しているのか?」

「まあそうだな」

「……しかし、あの女は」

 本物の公女ではない。それを言ったものかどうか、ジールは少し迷った。

「あの女、と言ったか。仮にも公女に対してその呼び方をするってことは、ひょっとしてもう知ってんのか?」

 男は意外そうな声を上げた。

「まあそうかもな。本物なら勝手に飛んでいけるもんな」

「……翼がないことを?」

「知ってるよ。俺が探してるのは偽者の方の巫女だ」

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