(1)
扉の向こうは外の世界だと勝手に信じていたが、その予想は見事に裏切られた。
「……あれ?」
エヴィーの口から思わず声が漏れた。後ろに続いていたキルシュも、同じように怪訝そうな声をあげる。
「外じゃない……」
ここも洞穴を掘りぬいて作られたらしく、低い天井も床も壁も、岩を削ったものがそのまま利用された空間が広がっている。だが、これまで歩いてきた地下通路と決定的に違うのは、そこに生活の痕跡があるということだった。小さな机と椅子が二脚、それに水瓶。左側に視線を移せば粗末な寝台。今は誰もいないが、どう見ても何者かがここで暮らしているようだ。机の上には灯りの点された燭台と使ったまま放置された皿があり、食事を済ませたあと少し用があって席を立った、そんな様相を呈している。
「……何だここ」
「わからないわ……。でも扉がある。あそこから外に出られるんじゃない?」
正面右には小さな扉が付いている。こちらは木で作られたものだ。エヴィーとキルシュがそちらを見た時、ちょうどその扉が開き、男が入ってきた。
「……おや」
二人を見て声をあげたが、さほど驚いた様子はない。男は濡れた外套を脱ぎ、手近にあった布で顔をぬぐった。外はまだ雨が降っているようだ。
濃い茶色の髪に榛色の瞳。身なりはすっきりと整っている。決して若くはないようだが、年の頃がよくわからない。三十をいくつか過ぎたばかりのようにも見えるし、五十と言われても納得できる、そんな不思議な雰囲気を持っている。
「そこにいるのは構わないが、そちらの扉は閉めてくれないか」
キルシュは慌てて石扉を閉め、錠を下ろした。
「ええと……」
まず不在の間に勝手に入ったのを詫びるべきか。エヴィーは言葉を探すが、キルシュは手にした地図を広げ、男の前に差し出した。
「この地図のこの印がついてるのはここってことで合ってる?」
「ああ、合っているよ。イリアにもらったのか」
「……イリアさんを知ってるの?」
「知っているとも。私がここにいるのを知っているのは彼女だけだ。ついでにその地図を持っているのも彼女だけ。ここの鍵を持っているのも彼女だけ」
男は少し欠けた器に水を汲むと二人の前に差し出した。手の甲に小さな赤い痣があるのが目に入った。
「ろくなものがなくてすまないがね。とりあえず掛けるといい」
エヴィーはキルシュと顔を見合わせたが、ずいぶん長い間地下通路をさまよっていたおかげですっかり喉が渇いていた。ありがたく受け取って飲み干し、勧められた椅子に腰を下ろした。悪い人間ではないようだ。直感で判断するしかない。
「イリアが君たちを連れてくると思っていたんだがね。彼女はどうした?」
「ええと……私たちだけ行かせてくれたっていうか」
「そうか、君たち、見つかったんだな。あの婆さん連中に」
実際に見たのは一人だけだが、連中というからには何人もいるのだろうか。この男、ここの事情にもかなり通じている様子である。
「もうしばらくしたら夜明けだが、まだ雨が降っているようだ。雨があがって明るくなるまでここにいるといい。ここなら婆さんたちには見つからない。あの婆さんどもはここの存在を知らないから」
「あの、ここって何なんですか?」
エヴィーの問いかけに、男は笑った。
「それは難しい質問だ」
二脚しかない椅子を二人に貸してしまった為、男は数歩離れた寝台に腰を下ろした。それでも狭い空間だから、十分に声は届く。
「あの地下には男は入れないって言われて俺は追い出されたんだけどさ、ってことは、ここは神殿じゃないってことか?」
「そうだな……。確かにここはラドルフォス神殿ではない」
「でもこの山って王家所有の禁域なんですよね?」
何故そんなところに住み着いている男がいるのか。
「まあそうだ。だから私のことは、ここから出ても他言無用で頼む」
「……あんた、何者なんだ?」
キルシュが眉をひそめた。直感で悪人ではなさそうだなどと思ったが、話せば話すほど胡散臭く思えてくる。
「それも難しい質問だ。では逆に聞こう、君たちは何者だ? ここは私が先に住み着いている場所だ。先住権を主張するならば、君たちは侵入者と言える。私にはそれを聞く権利がある」
「…………」
正直に答えて良いものかどうか迷った。エヴィーにもキルシュにも、名乗るには後ろ暗いところがある。
「自分が答えられない質問は相手に向けないことだ」
男は笑う。
「まあ一つだけ言えるのは、私はここでは何者でもないということだ。イリアには世話になっているがね」
「……じゃああの、私たちのことはイリアさんから聞いたんですか?」
「少し違う。私がイリアに頼んだ」
「え?」
「君たちが山中に落ちていくところを見た。怪我をしているようなら保護しなければならないと思った。残念ながらここではろくな手当ても出来ないんでな、一旦イリアに引き取ってもらって、その後ここから逃がしてやれば良いと言った。イリアなら普段から婆さんたちの怪我やら病気やらの面倒を見ているから薬草の扱いにも長けているし、食事の融通も出来る。――そういえば一人減っているな」
「あ、もう一人は神官だから、地下に入るのは嫌だったみたいで」
「なるほど、そういうことか」
このアルバドスでは、空を支配する女神を崇拝する一方で、その正反対のもの、すなわち地下を忌み嫌う。地下に入ることは罪人を示す。敬虔な信仰を持つ者ほど、拒否反応は大きい。
エヴィーはジールのことを考えた。動くなと言っていたが、その約束は破ってしまった。まあ、おとなしく待っていたら巫女を騙ったことがばれて捕まるだろうことは想像できたので、その言葉に従う気はなかったのだが。
「じゃあおっさん、あんた俺らがなんで落ちたかも知ってるのか?」
「おっさんはひどいな。まあ確かに君たちの父親ぐらいの年齢ではあるがね。君たちはあれだろう? 聖大祭の巫女とその誘拐犯。それも偽の巫女だ」
言い当てられたことでエヴィーとキルシュの表情は一瞬凍りついたが、その様子を見て男はまた笑った。その笑いはからりと乾いていて、不愉快な感じはない。心のうちに宿る不安や恐怖などを吹き飛ばしてしまうかのような、明るい笑いである。
「別にどこに突き出す気もないから安心してくれていい。ただ、いくつか確認したいことがあったんだが、――君たちだけでここまで来られたことで解決してしまったな」
「……どういうことです?」
「君はエヴェリーナか?」
エヴィーは思わず息を飲んだ。その本名をエヴィーは滅多に使わない。何故ダルトンがその名をつけたのかは知らないが、その妙に女っぽい響きの名前は自分にはあまりそぐわない気がするのだ。それを何故この男が知っているのか。キルシュにもイリアにも『エヴィー』としか名乗っていないというのに。
「……どうして」
「やはりそうか。ダルトンの娘だな。これで君が落下した理由もわかった」
「どういうことだ?」
事情を知らないキルシュが目を白黒させている。
「……父さんのことを知ってるの?」
「よく知っている。ここの鍵は私が作った。錠前作りはダルトンに教わった。私の師匠であり、良い友人だった。君とも、君がまだ赤ん坊の頃に会っている」
男はそう言って目を細めた。遠い昔を懐かしむように。
「ダルトンが育てた娘なら、私がつけた錠前ぐらい簡単にやぶれるだろう。――島を出たと聞いていたが、戻ってきたんだな」
「…………」
今だけだ。そう言おうとしたが、何故か言葉には出来なかった。聖大祭が終わればヴェールンに戻る。そのつもりなのに。
「本物の公女はどうした? 今回の聖大祭の巫女は公女だと聞いていたが」
「……ええと、いろいろと事情があって」
エヴィーのことを知っているということは、彼女が偽の巫女を演じているということを知っていることになる。だが、本人の与り知らぬところでアストールの事情までも話して良いものか。エヴィーが言葉を濁すと、男は苦く笑った。
「まあ仕方がないか。彼も考えたものだ」
「……アストールのことも知ってるの?」
「まあね。君たちがここまでそっくりになるとは思いもしなかったが。君もこんなことをよく引き受けたね」
「……それにもいろいろと事情が」
男はまた笑った。
「そうか。ではそれについては聞かないでおこう。――ところで」
男はふっと真顔に戻り、エヴィーに向き直った。
「もう一つ聞きたいんだが、ダルトンから何か預からなかったか?」
「何かって?」
「常に身に付けているように言われたものとか」
「……あ、鍵」
エヴィーは反射的に衣服を探ったが、当然そこには何もない。
「お守りにって鍵をもらったけど、今は持ってません。巫女は何も持っちゃいけないって言われたから」
「ああ……、そうか。やはりあれか」
男は黙り込み、何かを考えていたようだったが、しばらくしてから口を開いた。
「ここから出たら、すぐにそれを取りに戻りなさい。そして今度こそ、肌身離さず身に付けておくんだ」
「……それはいいですけど、何故? あれは何の鍵なんです?」
あれ、と言うからには男はあの鍵のことを知っていることになる。エヴィーでさえ何を開ける為のものなのか知らない謎の鍵。
「いずれわかるだろう」
エヴィーのこともアストールのことも、そしてあの鍵のことも知っている。この男は一体何者なのか。ダルトンの知り合いだと言うが、それにしても詳しすぎる。
「……あなた、何者なんですか?」
同じ問いを口にする。先ほどはうまくかわされたが、もうこちらの手の内はすべて知られているのだ。
「名前も聞いてないわ」
「……そうだな、今はリュシアスと呼ばれている」
「今は?」
「親からもらった名だ。だが、別の名前で呼ばれていたこともあった。名前などそんなものだ。その時次第でいくらでも変えられる、個を示す記号でしかない。名を聞いたからと言ってその本質がわかるわけではない」
「……詭弁だわ」
「そう思うならそれでも結構」
肩をすくめて、男――リュシアスは立ち上がった。
薄く扉を開け、外の様子をうかがう。
「雨が上がったようだ」
わずかな隙間から白い光が差し込む。
「行きなさい。もう夜も明けた」
エヴィーは立ち上がり、キルシュを振り返った。
「怪我は? 私を抱えて飛べる?」
キルシュは何度か傷に触れ、その痛みを確認する。
「まあなんとかなると思う」
二人は扉をくぐった。数歩先に洞穴の出口がある。まだ一日も経っていないというのに、久しぶりに外の空気を吸った気がした。雨上がりの風は冷たく、ひんやりと肌を突き刺すようで心地よい。
「エヴェリーナ、君もずいぶんこの島の毒気に当てられているようだな」
二人を送り出す為に出てきたリュシアスが言った。
「え?」
「翼がないからと言って、何も出来ないわけじゃない。翼がなくても、君には二本の足がある。飛べなければ歩けばいい。たったそれだけのことじゃないか」