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月は蒼天の檻に  作者: 結城琴葉
第四章
12/28

(3)

 嵐の中、ジールは神殿に帰り着いた。既に夜更けであったが、神殿には煌々と灯りが点され、神官たちが祭りの後始末に忙しく歩き回っている。

 本来なら今頃は、神殿前の広場には島民たちが集い、賑やかに聖大祭を楽しんでいるはずだった。静まり返った広場にはもう誰も残っておらず、激しい雨音だけが響く。

「ジール! 無事だったか!」

 濡れそぼった姿で降り立ったジールを見とめ、若い神官が声をかけた。

「公女様はどうされた? 見つかったか?」

「見つかった。居場所はわかっている」

「一緒じゃないのか」

「この雨だからな。迎えに行くまで待っていていただくことにした」

 事実を説明するのが面倒なので、とりあえずそういうことにしておく。

「公女様を連れ去った男は」

「それも居場所を知っている。怪我をしているから、しばらくは動けないはずだ。――大神官様はどこに?」

「お部屋にいらっしゃるはずだが……。待て、その格好で行くのか」

 彼は踵を返しかけたジールを呼び止めた。

「せめて着替えてからにしろ。ひどい格好だ」

 改めてジールは自分の姿を見下ろした。髪からは滴がしたたり落ち、足元には水たまりが出来ている。濡れねずみもいいところだ。おまけに上着にはキルシュの血がこびりついていた。

「いつまでも濡れたままだと風邪を引くから、とりあえず着替えて来い。おまえが無事に戻ってきたことはひとまず報告しておくよ。大神官様もおまえや公女様のことをとても案じておられた」

 確かにこの格好で大神官に会うわけにはいかない。ジールは勧めに従い、一旦部屋に戻って着替えることにした。

 エヴィーやキルシュはジールのことを神官だと思い込んでいたようだが、実のところ彼は未だ神官見習いの身分である。十七という年齢でそれは普通のことで、決して恥じることではない。何人もいる同じ年頃の神官見習いの少年たちの中では、その成績はずば抜けていると自負しているし、聖大祭が終わればジールは正式に神官として取り立ててもらえるはずだった。

 だが、それもどうなるかわからなくなった。ジールは大神官カーディスの従者を勤めたこともあり、それなりに気に入られている自覚もあった。だが、今回の一件は誰が責任を取るのか。

 神殿には大勢の神官や女神官が勤めている。島民たちが参拝に訪れる聖堂の裏では彼らの住居も兼ねており、その居住空間だけでも膨大なものになる為、ジールのような若手には当然個室など与えられない。同じく神官見習いの少年らと共同で使っている部屋で濡れた身体を拭き、着替えを済ませると、ジールは大神官カーディスの元へ向かった。

 途中、すれ違った幾人もの神官が、ジールの姿を見とめると皆一様に声をかけた。――公女様は。あの男はどうした。中にはキルシュの仲間と思しき男たちと上空で取っ組み合った際に傷を負った者もいた。見習いでしかないジールただ一人が巫女と襲撃犯の行方を追っていったことを褒め、自らの非力を悔やみ、詫びて、未だ公女が帰着していないことを聞くと心配そうに眉をひそめた。

 ジールにとって、それは無邪気に褒め称えられることではなかった。ジールが公女を追ったのにはいくつもの理由がある。聖大祭を汚した襲撃犯への純粋な怒りもあったが、それ以上に私的な、下心とでもいうようなものもあった。ここで手柄を立てれば、また一つ神官への階段を上ることにもつながる。同時期に任命されるであろう見習い仲間よりも早く、確実に上の位へ近づける機会だと思ったのだ。それに――。

 面倒ではあったが自分よりずっと位の高い相手もいる。何度も同じ返答を繰り返し、ジールは神殿の奥へ進んだ。

 大神官の私室は神殿の最奥部にある。その部屋の前に立っていたジールよりはいくつか年下の従者の少年に来意を告げると、既に話は伝わっていたらしく、すぐに室内へと通された。

「ジールか」

 室内には高価な調度品が並んでいる。窓際で椅子に深く腰をかけ、背中を向けたままカーディスは低く響く声を発した。

「はい。遅くなりましてまことに申し訳ございません」

「アスティア様はどうされた?」

「……一度は無事に保護したのですが、この雨ですので戻るのも一苦労かと思い、とある場所でお待ちいただくことにしました」

「そうか。公女を攫った男は?」

「その者も同時に捕らえましたが、その際に怪我をしたようで、飛ぶのは無理だと申しましたのでこれもとある場所に待たせてあります。怪我はひどいようでしたので、逃亡は無理かと」

「アスティア様はその男と今も一緒に?」

「……はい。勝手な判断で申し訳ございません」

「まあ仕方がない。この嵐だ。嵐が止めばおまえが案内してくれるな?」

「……そのことなのですが」

 ジールは大神官カーディスに伝えなければならないことがあった。巫女や襲撃犯の行方も報告しなければならない重要な事実ではあったが、今となっては本題の付属物でしかなかった。

「禁域の山の中に入りました」

「禁域?」

「はい。立ち入りを禁じられているのは知っていますが、緊急事態でしたので」

「……それで?」

 背を向けたまま、カーディスは続きを促した。ジールは一呼吸つき、吐き出すように言った。

「何故、あのような場所にあのようなものがあるのでしょうか」

「あのようなもの、とは?」

「異教の神殿です」

「…………」

「私はこの目で見ました。王家所有の山中で、何故鷹ではなく蛇の紋章を見ることになったのでしょうか」

 カーディスは黙っている。窓の外を眺めたまま微動だにしない。ジールはその背に重ねて問うた。

「中には入っていませんが、人がいました。女です。かなり古くからそこにあるような感じでした。何故あのようなものが」

 ゆらりとカーディスが立ち上がった。灯りに照らされ、その影が揺れる。

 物心ついた頃から、ジールは信心深かった母親から神殿の教えを受けていた。その母を早くに亡くし、母の遺言に従って神官となるべく神殿に入った後は、いっそうその教えを深く全身に浴びるようにして育った。

 曰く、我らの神はアルーヴァただ一人。アルーヴァの存在あってこそこの島は存在している。アルーヴァの領域を侵してはならない。母なるアルーヴァ、その恵みに感謝し、称え、祈れ。

 翼と鷹の頭が描かれた紋章はジールが生きる為の唯一の道標でもあった。

 女神を信奉するこの島では、鷹は聖なる獣として常に女神に従う。一方、翼を持たない獣の中でも、手足すらなく地を這うしかない蛇はその対極の存在として位置づけられている。その蛇が、鷹の代わりに描かれた紋章などあってはならないのだ。しかも空を支配する女神の翼が、地下への入口に描かれているなど耐え難いことだった。

 仕方なくエヴィーとキルシュはあの場に預けてきたが、本来なら近寄りたくもない場所だ。もしもエヴィーが本物の公女であれば、たとえ嵐であろうとも絶対に置いてきたりはしなかった。巫女は女神の祝福を一身に受ける存在なのだから。

「我らの神はただ一人です。あのようなもの、この島には不要です」

「そうか。あれを見たか」

「……ご存知だったのですか」

 全身から力が抜けていくのをジールは感じた。

「では何故その存在を見逃すのです? 駆逐すべきではないのですか」

「……ジール、君は物事を一方からしか見ないのだな」

「…………」

「駆逐すべきだと言ったな。何故だ?」

「……我々の信仰を汚すものだからです」

「信仰を汚す? それは何故」

「……島民の心が乱れます」

「それはある意味正しいかもしれない。だがそれは君が言うべき台詞ではない。それは権力者の言い分だ」

「…………」

「古くから宗教は権力の強化に利用されてきた。この島だけではない、大陸でもそうだ。我々はその上に成り立っていることを私は自覚している」

 ゆっくりとカーディスが振り向いた。ちょうどその時、窓の外で稲妻が走り、カーディスの顔がその光に照らされて青白く浮き上がって見えた。

「滅することが出来るものなら、もうとうにあの神殿は滅んでいるだろう。だが未だ存在しているということは、その存在にも意味があるということだ。そして、何故人目につかないよう密かに続いているのか、何故禁域の中にあるのか、君はもう少し考えなければならない」

 言葉を失い、ジールはただ立ち尽くしていた。

 唯一の存在として奉じていた神が一人ではないとわかった時、民はどうするのだろう。

そしてそれを知った今、ジールの心は既に乱れていた。

 幼い頃から信じた教えは全て偽りだったのか。ではこれからは一体何を、どう信じればいい? 猜疑心と、それを認めたくない思いが絡み、暗い穴の中に突き落とされたかのようだった。

「君は真面目だ。それは長所でもあるが、短所でもあるな」

「……申し訳、ありません」

「謝ることではない。だから真面目だと言うのだ」

 カーディスの口調に、少し笑みが混じった。

「アスティア様と襲撃犯の男はそこにいるのだな?」

「……そうです」

「わかった。ご苦労だったな」

 カーディスはまた背を向け、外を見る。

「明日の朝、嵐が止んだら指示を出す。それまでは休んでいなさい」

「……はい」

「それから、このことは他言無用だ。何もかも、すべて」

「…………はい」

 ジールは深く頭を下げ、カーディスの部屋を後にした。

 ひどく疲れていた。巫女が本物の公女アスティアでなかったことを告げるのを忘れていた、と思ったが、もうカーディスの元へ戻る気にもなれなかった。

 ――もうどうでもいい。

 倒れこむように自室へ戻ると、同じ神官見習いの少年が簡単な食事を運んできた。

「何も食べていないんだろう? 大神官様からの差し入れだ。よかったな、褒美の酒もあるぞ」

「ああ……」

 食事を目にし、初めて自分が空腹であることに気がついた。半ば自棄ぎみに食事を平らげ、酒を煽った。味もろくにわからなかった。

 ――――疲れた。

 身体が重い。本来なら今頃は平和に聖大祭を終え、一歩近づいた神官の任命式を夢見て幸せに眠りについていたはずなのに――。

 食事の後片付けも放り出して、ジールは寝台に身体を投げ出した。響く雷の音を薄れゆく意識の中で聞き、そのまま深い眠りに落ちていった。

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