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月は蒼天の檻に  作者: 結城琴葉
第四章
11/28

(2)

 扉の向こうでは雨がますます激しくなり、やがて嵐になったようだったが、ここまでは届かない。エヴィーは天井を見上げ、それから目の前で眠りこけるキルシュに視線を移した。

 ジールは出て行った。神殿に仕える彼は、異教を示すものには指先ですらも触れたくないらしかった。それでも、逃げないようキルシュとエヴィーに念を押して、大雨の中、神殿を目指して飛び立っていった。

 よくもまあこの状況で眠れるものだ。キルシュの平和な寝顔を見やって、エヴィーは軽くため息をついた。

 人生何がどう転ぶかわからない。レイが時折口にしていた言葉を改めて噛みしめる。

 禁域の森の奥深くに、このようなものがあると誰が思うだろう。石扉をくぐった先には地下深くへ潜る長い階段があり、いくつもの細い通路が伸びていた。人工的に掘り進められた洞穴は、人が住みやすいように整えられ、窓がなく日の光が入らないことを除けばちょっとした屋敷のようである。壁や天井も土のままではなく、床に敷かれた絨毯も少々古めかしくはあったが居心地の悪さを感じない。

 赤々と灯された燭台は、どこかで地上に通じる穴が開いていることを示している。風はないが、どこかひんやりと涼しい。 

「あら、よく眠っているのね」

 入口にかけられた布をめくり、女が入ってきた。

 イリアと名乗った彼女は、中から石扉を開けて濡れそぼった三人を見、キルシュの怪我を知ると、直ちに地下へ招き入れた。手馴れた様子でキルシュの手当てをし、エヴィーには乾いた着替えを用意してくれた。年の頃は三十代の半ばといったところか、赤みがかった金髪を軽く結って、一筋だけを背中に垂らしている。

「薬が効いているのかしら。それほど強いものを飲ませたつもりはないんだけど」

「あの……」

「あなたは? お腹空いてない?」

 そういえば朝食をとったきり何も食べていない。差し出された器からは温かそうな湯気が立ちのぼり、エヴィーは勧められるままにそれを口にした。見知らぬ場所で見知らぬ女に供された食事など、本来は食べずにおくべきなのかもしれないが、このイリアという女は何故か信用できる気がした。

「ごめんなさいね、大したものがなくて」

「いえ」

 スープの味は薄く、具も少なかったが、空腹の身には何よりもありがたかった。

「彼はよく眠っているようだから食事はあとにしましょうか。起こすのも悪いしね」

「……あのう、もう既にいろいろとお世話になっておきながら今更聞くのも変なんですが、ここは一体何なんでしょうか?」

 あっという間に空になった器を返し、エヴィーは尋ねた。

「さあね。何かって言われると難しいわね。私にもわからないわ」

 イリアは肩をすくめて笑った。

「異教……とかなんとか言ってた人もいますけど」

「あなたのお友達ね」

 別に友人ではなく、今日初めて会ったばかりなのだが、説明が面倒なので黙っていた。

「あの子はアルーヴァの神殿に仕えている子よね。そういう子にとってみれば、確かにここは異教の巣窟と言えるでしょうね」

「……異教の巣窟、ですか」

 この島は女神の島。女神アルーヴァ以外に信奉する神などありえない。

 だが、その考えが必ずしも正しいと言えないことをエヴィーは知っている。大陸ではアルーヴァの存在など認められていないし、人々の中では多くの神が存在し、その人や場合によって信じる神は違う。海に出れば海の神を信じ、山に入れば山の神に祈る。二年間ヴェールンに暮らして、それはエヴィーが初めて知る世界だった。

「私たちは決してアルーヴァの存在を否定してはいないわ。ただ、アルーヴァ以外にも奉ずるべき存在があるというだけ」

「……それって一体」

「女神アルーヴァの伝説は知っているわね?」

 エヴィーは頷く。

「私たち人間が翼を与えられたきっかけになった彼女の恋人、それが私たちの神よ」

 翼を拒否し、大地震で亡くなったと言われている人間の青年。

「私たちは彼に仕える者。ここでこうして、静かに彼の為に暮らしているわ。ラドルフォス神というの」

 エヴィーはその名も知らなかった。おそらく、女神を信じる島民たちも、その名を知る者はいないだろう。伝説の中でも、彼は名無しの存在だった。

 何故、そんな無名の青年が神格化され、崇められているのだろう。

 エヴィーはまじまじと目の前の女を眺めた。

 今日の祭りで、エヴィーは嫌になるほど女神に仕える人間を見た。ジールも身につけていた金の縫い取りのある揃いの衣装は目にも鮮やかに、大神官カーディスに至ってはまるで王族もかくやというほどに豪奢で、島における神殿の権威を象徴しているように思えた。一方、奉ずる神は異なるものの、同じく神殿という場所にいるイリアは、まだ染める前の、目の粗い布で作られた質素な衣に草木染めの帯を締めただけの地味な格好である。エヴィーがイリアに借りて今着ているものもまったく同じだ。この差が、仕える対象の影響力の違いなのか。

「私たち……ってことは、ここにはあなたの他にも人がいるってことですよね」

「いるわね。私だってこんな穴蔵の中で一人で暮らすなんて頭がおかしくなっちゃうわ。その点で言えば、ありがたい存在と言えなくもないわね」

 小さく呻く声がして、キルシュが目を覚ました。

「……なんか美味そうな匂いがする」

「あら、起きた? 傷の具合はどう?」

 キルシュは身体を起こし、腕と肩を少し撫でた。

「まだ痛いけど、さっきよりは楽」

「それならよかった。痛み止めがよく効いているみたいね。――少し冷めてしまったかもしれないけど、食べる?」

「いただきます。いやもう、腹減ってすげえ贅沢な飯を食う夢を見てたくらいなんで」

 イリアが差し出した器を受け取り、キルシュは猛然と食べ始めた。開き直っているのか何なのか、この豪胆さは凄いとエヴィーは少し感心した。

「それで、これからのことなんだけど」

 イリアがエヴィーに向き直ったその時、布の向こうから低くしわがれた女の声がした。

「――イリア? そこにいるのか?」

 イリアが眉をひそめた。唇に人差し指をあて、黙っているようにとエヴィーとキルシュに示す。

「入るぞ」

「ちょっと待ってください」

 イリアは言って立ち上がったが、それと同時に入口にかけられていた布がめくられ、腰の曲がった老婆がそこに立っていた。

「……やはりこういうことか」

 老婆が重々しく言った。

「大巫女様、これには事情が」

「やかましい!」

 事情を説明しようとしたイリアを遮って、老婆が一喝した。

「何やらおまえが妙な動きをしていると聞いたから見に来てみれば案の定だ。このラドルフォス神殿に男は入れぬ。ただちに追い出せ!」

 手にした杖で苛々と地面を打ち、老婆は喚いた。

「ですが彼は怪我をしていて」

「知ったことか!」

「外は嵐ですし」

「男など入れるから神がお怒りなのだ!」

「あのさあ婆さん」

 呆れたような声でキルシュが割って入った。器を置いて立ち上がると、老婆の前に歩み寄った。

「ば、婆さんだと」

「順序が逆。俺がここに来たから嵐になったんじゃなくて、嵐になったからここに来たんだよね」

「屁理屈はいらん!」

「本当のことなんだけどまあいいや、出てけっつーなら出て行きますよ。イリアさんには世話になったから、礼の一つでもさせてもらえれば」

「礼など無用。イリアのしたことは規律違反じゃ」

「あと、男はって言ったけど、じゃあこいつはいいんだな?」

 指でエヴィーを指し示す。

「……我らは滅多なことでは外部の者を入れない。だが、我らとて鬼ではない。どうしてもと言うなら置いてやるのもやぶさかではない。ただし女だけだ」

「じゃあこいつは置いてやってよ。外は嵐だから、連れが増えるとこっちも面倒なんだ」

「いいわよ、私も出て行くから」

 この様子を見れば、招かれざる客であることは誰にでもわかる。一人置いていかれるよりは、まだキルシュがいる方が気が楽なので、エヴィーはそう言ってみた。

「女神の民であるという証を見せよ。そしてラドルフォス神に仕える資格を示すのだ」

「……資格?」

 そうだ、と老婆は頷いた。嫌な予感がした。

「翼を見せなさい。そして誓うのだ」

 ここでもか。

「……私も出て行くしかなさそうね」

 既にこういうものだと諦めている。今更もう落ち込みはしなかった。

 少しでも嵐がおさまっていると良いのだが。エヴィーは天井を見上げ、立ち上がった。

「どうした。早くしなさい」

「無理なのでいいです」

「無理?」

「翼はないの。だったらここにいる資格はないんでしょう?」

 老婆は言葉を失ったかのように黙り込み、エヴィーの顔を凝視した。

「おまえ、まさか」

「仕方ねえな。エヴィー、行くか。じゃあイリアさん、お世話になりました。礼はまた改めて」

 キルシュがエヴィーを促し、老婆の横をすり抜けて外へ向かおうとした。

「待て」

 通り抜けざまに、老婆がエヴィーの手首をつかんだ。乾いた手には、痩せこけた身体からは想像出来ないほど強い力があった。エヴィーを見上げるその瞳の奥には鋭い光がのぞいている。

「おまえは残れ」

「は?」

「大巫女様」

 イリアが老婆を制止した。

「エヴィー、行きなさい」

 わけがわからずに、エヴィーはイリアと老婆の顔を交互に見た。

「ここに残らない方がいいわ。早く」

「イリア。この娘はあの――」

「早く!」

 イリアが老婆を押しとどめた隙に、エヴィーは老婆から手首を取り返した。それでもまだその場を立ち去って良いものかどうか、判断が出来ずに迷う。

「エヴィー、行こう。ここは何か変だ」

 キルシュがエヴィーの腕を引いた。それを合図に二人は走り出した。

 縦横に交差する細い通路を走りぬける。誰もいない。あの老婆では走ることもままならないだろうし、イリアが制止していたのでしばらくは追手の心配はしなくても良さそうだ。だが、いくつもの分岐点を過ぎていくうちに、自分たちがどの方角に向けて走っているのかわからなくなってしまった。灯りは通路の所々に灯された小さな燭台のみが頼りで、外からの光はない。

「……ちょっと待って」

 立ち止まり、先を行くキルシュを呼び止めた。

「私たち、迷ってない?」

「かもしれん」

 キルシュは壁を軽く叩いたが、返ってくるのは鈍い音だけだ。

「外にさえ出られれば、今ならそんなに腕も肩も痛くねえし、あんたを抱えて飛べると思ったんだけどな」

「その外が遠いわね」

 二人は互いに顔を見合わせ、それから辺りに視線をさまよわせたが、その答えはない。

「……それ、何?」

「え?」

「帯に何か挟まってる」

 キルシュがエヴィーの腰の辺りを指差した。見れば、小さな紙切れが丸めて押し込まれている。

 取り出して開いてみると、不思議な図が描かれていた。細い線は不規則にいくつも枝分かれし、蜘蛛の巣のように奇妙な円形を形作っている。一箇所だけ丸く印が付けられているが、何かの絵というわけでもなさそうだ。それ以外は何も書かれていない。

「……これ、ひょっとしてここの地図じゃないか?」

 エヴィーから紙を受け取り、灯りの下でしばらく眺めてからキルシュが言った。

「地図?」

「イリアさんがさっきのどさくさに紛れて渡してくれたとか」

「そう……なのかな」

「そう思っとこう。どうせ今の俺らはどっちに進んでいいかもわからねえんだから、これに沿って進んでみてもいいと思うぜ。それが当たれば儲けものだ」

 確かにそのとおりではある。

 エヴィーの返事を待たずに、キルシュは地図らしきものを片手に元来た道を戻りはじめた。

「その印のあるところを目指すわけ?」

「何かあるんだろ。目印はないよりある方がいい」

 そもそも今いる場所がその地図のどこに当たるかもわからないのに、とエヴィーは思ったが、黙ってキルシュの後に続いた。

 灯りを見つける度に立ち止まり、地図を確認する。少し先まで覚えたら、また歩き出す。

 辺りは静まりかえり、人の気配はない。

 私たち、とイリアは言った。このラドルフォス神殿には、一体どれくらいの女がいるのだろう。

 そもそも、この神殿は一体何なのか。翼を持つ女しか受け入れず、王家の禁域の奥深くに人の目から隠すようにして地下に潜んでいる彼女たちは、一体何者なのか。

 考えたところで知らないものに答えが出てくるはずはなかった。エヴィーは軽く頭を振った。

「……ねえ」

 わずかな灯りがあるとは言え、こうも暗い通路が続くと気が滅入る。普段なら、エヴィーは黙っていることにそれほど苦を感じないが、今は黙っていると沈黙が重力を増して肩の上にのしかかってくるような気がした。

 幸い、地下の割には声はそれほど響かない。

「何」

「ちゃんと聞いてなかったんだけど、そもそもなんで公女を攫おうなんて考えたわけ?」

「今それを聞くか」

「だってまだ聞いてないし。だいたいちゃんと祭りが終わってれば、今頃はとっくに安全なところで眠ってたはずだし」

「俺のせいってか」

「そのとおりじゃない」

「まあな、確かにそれはそうだよな」

 キルシュが苦笑した。

「普段、俺らはまあなんつーか、いろんなところでいろんなものを勝手に頂戴してるんだが」

「何それ。要するに泥棒?」

 同類ではないか。エヴィーは少し親近感を覚えた。

「人聞きの悪い。うちのお頭には信念があってだな、悪事で肥えた奴らの上前をはねるっつーのが本物の盗賊ってやつなんだよ」

 レイよりは多少筋が通っているようだ。

「別に公女は悪事を働いてはいないと思うけど」

「今回はちょっと話が違う。『女神の涙』がエルシェンバード公爵家にあるって噂を聞いてさ。公女の身代金代わりに、それをいただきましょうかと。お頭にそういう依頼があってな」

「……あんたも『女神の涙』なのね」

「も?」

「なんでもない。それで?」

「なにしろものがものだからな、普通に誘拐しただけでは出さないだろうと。だから観衆の目の前で、その面子が叩き潰されるくらい派手に襲撃して公女を連れ出したかった。それに『女神の塔』の上なら護衛なんかもいないしさ」

「……なるほど」

「それと、公女アスティアに会ってみたかった。だから俺が引き受けた」

「なんで?」

「妹らしいから」

 地図に沿って、分岐点を右に曲がる。

 その先もまた暗く、先の見えない道が続いている。

「……妹?」

「まあね」

「……誰が?」

「公女アスティアが」

「誰の」

「俺の」

 公女アスティアの母親はエルシェンバード公爵の妹である。そして父親は、現在行方不明になっている国王だ。

「……じゃあキルシュ、あんたって」

「まあそういうことらしい。俺も子供の頃に母親に聞いただけだし、証拠はねえよ。でも母親は嘘をつく人じゃなかった」

 この暗い地下通路では、キルシュの表情は見えない。

 国王の子として知られているのは公女アスティアただ一人。だがエヴィーは、公女だと信じていたアスティアが実は少年だったことを知った今となっては、存在が知られていない王子や王女がいてもおかしくはないような気がした。

 顔立ちはまるで似ていない。髪の色も瞳の色も違う。だが、同じ両親から生まれて一緒に暮らしていても似ていない兄弟なんていくらでもいる。

「……ごめん」

「何が」

「妹本人じゃなかったから」

「別にあんたのせいじゃねえんだろ」

「まあそれはそうなんだけど」

「いいさ。名乗るつもりもなかったし、どんな顔してんのか見てみたかっただけなんだよな。公女アスティアってエヴィーとそっくりなんだろ? じゃあそれでいいや」

 そう言ってキルシュは笑った。

 たとえ母親が妃でなくても、国王の子ならもっとふさわしい扱いがあるはずだ。なのにキルシュは盗賊の一味に身を置き、それを恥じてはいないし親を恨んでいる様子もない。

 アストールに会わせるべきなのだろうか。だが何と言って? 彼は名乗るつもりはないと言っているし、聖大祭の巫女を拐かした人間を『公女』の元へ連れては行けない。それに『公女』の側にも人に会えない秘密がある。

「今まで誰にも話したことなかったんだけどな。俺は口が軽い方なんだけど、なんかこれだけは言う気にならなかった。今は特別。顔がそっくりだっていうからかなあ」

「お母さんは……」

「死んだ。俺が十歳の時」

「……ごめん」

「別に謝ることじゃねえだろ。芸人一座の踊り子だったんだ。俺もそこで育てられて、芸人になれって言われてたんだけどさ、なんか違うなって思って、飛び出して今のお頭んとこにいる。それが十二の時だったかなあ。うちのお頭はとにかくかっこいいんだ。お頭んとこにいる奴らもみんないい奴だし」

 楽しそうに仲間のことを話す声がふと止まった。

「どうしたの?」

「階段だ」

 目を凝らして見れば、目の前に細い階段が伸びている。先ほど通ってきた階段ではないようだが、地上につながっているのかもしれない。

「地図は?」

「たぶん、印が付いてんのはこの先だ。っつーことは外だな!」

 キルシュの声が弾んだ。

 半ば駆け上がるようにして長い階段を上る。足元に気をつけながらエヴィーもそれに続いた。

 階段のその先は、またも石扉だった。細い隙間からかすかに風が流れてくる。空気の流れがあるということは、外に繋がっている可能性は大きい。

「これ、さっきイリアさんは中から開けてたよな」

 エヴィーは頷き、石扉に触れてみた。灯りはもうない。ごつごつとした冷たい石の手触りだけが伝わる。

「でもこれ……、さっきのとは違うかも」

「なんで」

「鍵が」

 手探りで触れてみて、一箇所だけ違和感があることに気づいた。そこだけ金属特有のひんやりと硬い感触がある。穴のような凹みもある。小指の先も入らないぐらいの小さな穴だ。この感触には覚えがある。

「鍵?」

「向こうから施錠されてるんだと思う。こっちからは鍵がないと開かない」

「向こうってことは外だろ? なんで外からこっち側に向けて鍵かけんの」

「そんなこと知らないわよ」

 もしも本当にあの地図をイリアが寄越したのだとしたら、この扉を開けて先へ行くべきなのかもしれない。だがその意図がわからない。そもそも、あの地図は正しいのか。本当にイリアが寄越したものなのか。何もかもわからない。拠り所とする情報は何もない。

 いつもの癖で衣を探ったが、先ほどイリアに借りた着替えには何も入っていない。元々着ていたのは巫女の衣装で、何も身に付けられなかった。いつもなら、懐に針金の一本でも入れておくのに。

「……針なんて持ってないわよね」

「針?」

「針でも何でもいいから、何かとにかく細いもの」

「そんなもんどうすんだよ」

「開けるのよ」

「開ける? この扉をか?」

 エヴィーが頷くと、キルシュは自分の衣服のあちこち、懐だけでなく帯や長靴までもを探り始めた。彼も先ほどイリアに着替えを提供してもらったのだが、元々身に付けていたものを全て移していたようだ。

「そんなこと出来るのか?」

「出来るかもしれない。――私なら」

 自信があるわけではなかった。灯りもなく、普段使い慣れた道具もない。条件はいつもより格段に悪い。

「細いもの、ねえ……。ナイフ……じゃ無理か? あ、これはどうだ?」

 暗がりの中、手渡されたのは女性が髪を結うのに使うピンだ。

「なんでこんなの持ってるの?」

「俺のじゃねえよ、元々はあんたの。さっき、抱えて落っこちる時に俺の服に引っかかったみたいでさ。着替える時にくっついてたから取っといた」

 普段、エヴィーは髪を結わない。巫女として衣装を着て身支度を整えていたからこその幸運だ。

「ないよりましってところかしら」

「本当に開くのか?」

「黙って祈ってて」

 力を込めてピンを伸ばし、一本の針金状にする。その先端を少し曲げて、いつも使っているものに近づける。膝をついて鍵穴らしきものを探してピンを差し入れ、錠の構造を探った。

 やりにくいことこの上ないが、幸いなことにそれほど複雑な造りのものではないようだった。石扉は重く、女が一人で動かすのは難しい。引き戸にして滑車をつけ、横に滑らせて開けるようになっているが、その扉が動かないように壁に繋がれている、そんな感じだった。

 一本しかないピンで、なんとかその形状を悟っていく。ピンの先が突起物に引っかかった。それをやりすごそうと手首をひねるが、使い慣れた愛用の道具でないだけになかなかうまくいかない。苛々と何度か繰り返すものの、いつもの鍵穴に吸い込まれるような、ピンの先との一体感が沸かない。

 エヴィーは一旦ピンを抜き、深呼吸した。

 ――このピンの先は私の目。私の指。私の翼。

 頭に叩き込むように呟き、再度ピンを差し入れる。ふっと光が射したような気がした。今だ。光に導かれるまま、その先へ。

 指先に手ごたえを感じ、手首をひねった。かたん、と扉の向こうで小さな音がした。

「……開いた」

「あんた、意外な特技持ってるんだな」

 立ち上がり、石扉に手をかけた。滑車が回り出す。扉が開く。視界が広がる。流れ出す空気を感じ、エヴィーは目を細めた。

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