追放された聖女は滅亡した妖精の国を蘇らせる
深い樹林の奥。
都会の喧騒から離れたその地にひっそりと建つのは、白壁の荘厳な建物だ。
外壁には蔦植物が這い、それは夏には真っ白な花を咲かせる。
常ならば、しん、という音さえ聞こえてきそうなほどの静謐な空気の漂う建物の中は、朝方から大きな喧騒に包まれていた。
祈りの間で朝の祈りの最中であったエリーゼは、突然響いた大きな音に驚き顔を上げる。
瞑想の中にあったぼんやりとした空色の瞳に光が戻り、彼女はひざまずいたまま背後を振り返った。
両開きの扉をあけ放ったのは、無粋な鎧を身にまとった背の高い男だった。
男はまるで自身の存在を誇示するかのように堂々とエリーゼのもとまで歩いてきて、その細腕をつかみ上げて乱暴に立たせる。
「聖女エリーゼだな」
エリーゼは瞬くことでその問いに答えた。
長身の彼に腕をつかまれて引き上げられたので、エリーゼはつま先立ちの難しい姿勢を余儀なくされている。
「この国は俺が占拠した。聖女信仰なんて古びた習慣など、今日から俺のものになるこの国には不要だ。選ばせてやる。この場で殺されるか、誰も住まぬ『忘却の大地』へ流刑にされるか、好きなほうを選べ」
エリーゼは黙って男の顔を見上げた。
短く刈られた黒髪の大きな男。額から右目の横を通る大きな傷跡がある。それは今回の戦でついたものではなく、ずいぶんと古いもののようだった。
男の名は、バーミリオン・タルバ。
三歳のころより外界から遮断されたこの場で暮らしているエリーゼも知っている、ずっと南の砂漠地帯にある国の王。
その彼がエリーゼの暮らす小国を狙っているという噂は、身の回りの世話をする女官から聞いていた。
二か月前に戦争が起こったことも。
けれどもエリーゼにできることはただ祈ることだけでーー、いつかこんな日が来るのではないかと、薄々感じ取っていた。
砂漠地帯の国の王にとって、水の豊かな肥沃なこの国は非常に魅力的に映るだろう。
作物は豊富に取れ、飢えることも、のどの渇きに苦しむこともない。
国を治める王が、他国の資源を狙って戦を起こすことなど、今の時代では珍しくない。
この国は負けたのだ。ただそれだけ。わかっているけれどーー
エリーゼはそっと目を閉じ、瞼の裏で微笑む金髪の優しい男を思って、涙を流した。
忘却の大地――
それは、内海に浮かぶ丸く小さな島のことを言う。
その島の中央には枯れた大樹の大きな切り株があり、木どころか草一本生えない呪われた大地と言われていた。
大樹が枯れた原因も、島自体が死んでしまったかのようになった原因も、はるか昔のことすぎてわからない。
そんな死の孤島には当然のことながら誰も寄り付かず、それゆえ「忘却の大地」と呼ばれている。
普通に考えて、草も水も何もない孤島で人が生きられるはずもない。
けれどもエリーゼは、死ではなく孤島への流刑を選んだ。
三歳の時より、聖女として生きて早十五年。十八になったエリーゼは、親元から引き離されて泣いてばかりだった三歳のころとは違うのだ。
聖女として生きた矜持もあれば、国を滅ぼされた怒りもある。
けれども泣きながら憎い男の手にかかって死ぬくらいならば、死の孤島と呼ばれる忘却の大地で一人静かに息を引き取りたいと思った。
それにーー
(せめて、冥福を祈って差し上げたい……)
聖女に選ばれてしまったエリーゼが、三歳で神殿に連れていかれるまで彼女の婚約者であったロベルト王子。もちろん三歳の時の記憶なんて朧気で、ほとんど覚えていない。けれどもエリーゼは六歳年上の彼が兄のように優しくエリーゼをかわいがってくれたことは覚えていた。
滅ぼされた国の王子の末路などわかりきったことだ。
男子禁制の聖女の神殿に入ってからは一度もあっていない元婚約者の第一王子。十五年も昔の記憶を懐かしむのもおかしいことかもしれないが、エリーゼはせめて、彼が天国で幸せになれるように祈りたかった。
エリーゼのもとに死が訪れるわずかな間でもいいから。
国を追われ、聖女でなくなったエリーゼははじめて、国の安寧以外を祈ることができるのだから。
歩くたびに足が沈む、さらさらとした砂地をゆっくりと進む。
祈る場所は、小さな島の中央に残る大樹の名残にしようと決めていた。
小さな島は、一時間もあれば外周を回りきることができるほどだ。
化石のようにもろくなった大樹の躯のそばで、エリーゼはひざまずいた。
両手を組んで、そっと目を閉じる。
目を閉じ、祈りの言葉を口にしたその時だった。
閉じた瞼に強い光を感じて、エリーゼは目を開けてーー驚愕した。
切り株がーー大樹の躯が強く光り輝いていた。
あまりのまぶしさにエリーゼは目の前に手をかざして顔をそむける。
次の瞬間――
パァンーー、と何かがはじけるような音がして、直後、エリーゼは気を失っていた。
※ ※ ※
忘却の大地に、忘れられた死の孤島に、突如として大樹が出現したーー
その噂は、あっという間に大陸全土に広まった。
遠く内海のほうを見やれば、天を衝くほどの巨大な木が、きらきらと輝きながら存在しているのである。
その奇跡に、人々は涙を流してその場に膝をついた。
そんな中、ただ一人、砂漠の王バーミリオンだけが、憤怒の形相を浮かべていた。
「聖女め……!」
エリーゼは今でも夢の中にいるような心地だった。
あの日、エリーゼが大樹の躯で祈りをささげた直後のことだ。
気を失ったエリーゼが再び目覚めた時、死の孤島であった島の様子が変わっていた。
茫然としたエリーゼは、自分は死んでここは天国ではないかと思ったほどだ。
エリーゼが十人手をまわしてもまだたりないほど大きな幹の大樹は、そのてっぺんなどわからないほど大きく、青々とした葉を茂らせて、島全体の大きな屋根となっていた。
枯れていた大地には草木が芽吹いて、エリーゼの見守る中で急速に成長した。
どんな不思議なのか、大樹からはリンゴやモモやナシ、ナッツ類ーーとにかくたくさんの果物や木の実が取れて、芽吹いた草木の中には野菜や果物も多く、大樹の近くには小さな泉が涌いていた。
エリーゼ以外の動物がいなかったのが嘘のように鳥たちが歌い、木の上でリスが戯れて、大地ではキツネが駆け回る。
それだけでも驚くことであるのに、何よりエリーゼを驚かせたのは、大樹から生まれ出てきた妖精たちだったーー
「ここは千年も前に滅びた妖精の国だ。大樹が死んで、私たちはこの世界から旅立った。私たちをここへ呼び戻したのはそなたか?」
茫然とするエリーゼにそう訊ねてきたのは、妖精の王と名乗るアバロンだった。金に緑を落としたような不思議な長い髪をした背の高い青年だ。とがった耳に、金色の瞳をしている。
蝶のような羽で優雅に空を飛ぶ小さな妖精たちの中で、アバロンだけが人と変わらない身長を持っていた。
「妖精の国……?」
エリーゼにはまだ信じられなかった。
妖精は物語の中に出てくる存在で、実在しているとは思わなかったし、ましてや忘却の大地に妖精の国があったなんて知らなかった。
アバロンは大樹を見上げて笑った。
「世界はだいぶ変わったな。けれども大樹があれば私たちはこの世界に存在できる。この国をよみがえらせたのはそなただ。ならばこの国の王はそなただろう。私たちはそなたに従う」
エリーゼは目を見開いた。
いきなり国の王と言われても困る。
どうしていいのかわからないエリーゼに、アバロンは訊ねた。
「手始めに、何か望みはあるか? 私たち妖精でかなえられることであれば、なんなりと」
エリーゼは何度も目をしばたたいて、それからちょっと考えたのちに言った。
「ロベルト王子が天国で幸せになれるように、してください」
アバロンは一つ頷いて目を閉じた。
けれどもしばらくすると困ったように眉を寄せて瞼をあげる。
「残念ながら、その願いはかなえられない。なぜならそなたの言うところのロベルト王子は、生きている」
エリーゼは息を呑んだ。
※ ※ ※
ロベルトはとうとう自分が死んだと思った。
砂漠の王バーミリオンが城に攻め入った時、父王によって逃がされたロベルトは、敵の目をかいくぐりながらとにかく南に逃げた。
北に逃げるよりも南に逃げたほうが国境が近かったからだ。国境を渡った先は中立国。さすがにバーミリオンもそう簡単に手出しはできないだろうと踏んでいた。
炎に飲まれた城に背を向けて、ロベルトは怒りに身を焦がしながらとにかく逃げた。
生きて国の再興をーー、そう言って自分を逃がした父王のためにも、自分は生きなくてはいけない。
(バーミリオン……、絶対に許さない)
できることなら、刺し違えてでもこの手でバーミリオンを葬り去りたかった。けれどもロベルトは王子で、そんな勝手が許される立場ではない。
あともう少しで国境――
ようやくそこまで逃げてきたロベルトだったが、そこが限界だった。
追っ手はすぐそばまで迫り、完全に包囲されて、もはやどこにも逃げ場などなかった。
いや。
ロベルトはちらりと後ろを振り返った。
背後の崖の下には、落ちれば到底助かりそうにないほど流れの急な川が流れていた。
ロベルトが今ここで選択できることは、二つだけだった。
一つはこのまま敵につかまり殺されること。
そしてもう一つは、一か八か背後の崖から飛び降りることだ。
ロベルトは迷わず、崖から飛び降りることを選んだ。
自重で速度を増しながら崖下の川に向かって落下しながら、ロベルトは強い光を見た気がした。
しかし川面にたたきつけられたロベルトはそのまま意識を失って、気がついたときには、知らない大地に転がっていた。
ロベルトは頭上に広がる緑に息を呑んだ。
最初は何なのかわからなかったそれが、どうやら信じられないほど巨大な木であると理解したのは、しばらくその場に無言で立ち尽くしたあとだった。
背後を振り返れば、青々とした海が広がっている。
海岸を進むと、すぐに緑あふれる大地が顔を出し、目の前を飛び回る「何か」に再び瞠目して立ち止まった。
最初は蝶かと思った。
けれども蝶であれば大きすぎる。
目を凝らしたロベルトは、それが羽の生えた小人であると気が付いて、おそらく自分はすでに死後の世界にいるのだろうと思った。
自分が死んでしまったことにはショックだったが、死後の世界がこれほど美しいところならば、後悔も少しは薄まるだろうか。
まずは父王を探して、命を落としてしまったことを謝らなければ。そう思い、再び歩みを進めていると、茂みの中から一人の女性が飛び出してきた。
蜂蜜色の髪に空色の瞳をしたほっそりとしたきれいな女だ。彼女は幾重にも布を重ねた白いドレスを身にまとっており、ロベルトは天使が現れたと思った。
けれども、その顔は見覚えがあるような気もする。
首をかしげていると、女性は空色の目を大きく見開いて、そしてぽろぽろと大粒の涙をこぼしはじめた。
その美しい涙に一瞬見惚れてしまったロベルトだったが、ハッとすると慌てて彼女に駆け寄った。
「どうした、どこか痛いところが?」
死後の世界にも痛覚は存在するのだろうか。そんなことを思いながら訊ねると、彼女は突然ロベルトに抱き着いてきた。
「殿下……!」
ロベルトを殿下と呼ぶということは、少なくとも彼女はロベルトが王子だと知っているということだった。
泣きながらしがみついて離れない女にどうしていいのかわからなくておろおろしていたロベルトの耳に、第三者の声が届いた。
「そいつだろう、エリーゼの言うロベルト王子とかいうのは」
女が現れたのと同じ茂みから出てきたのは、緑と金を混ぜたような不思議な色の髪をした背の高い男だった。
知らない男に急に「そいつ」呼ばわりされたロベルトはむっとしたが、すぐに別のことが気になった。
「エリーゼ……?」
それはかつての小さな元婚約者の名前で、同時に国のために毎日祈りをささげてくれていた大切な聖女の名前。
まさかと思って視線を落とすと、顔を上げた女には、幼かった小さな元婚約者の面影があるような気がした。
「……エリーゼ、なのか?」
国のために祈っていた聖女。
バーミリオンに滅ぼされたロベルトの国は、聖女の祈りがあったからこそ豊かだった。
小さくうなずいたエリーゼに、ロベルトはもう一度大樹を見上げて、それから彼女に視線を戻す。
「……何があった?」
エリーゼは目元をこすりながら、自分の身にあったことをぽつぽつと語りだした。
※ ※ ※
「なるほど、君のところにもバーミリオンが攻めてきたのか」
正直なところ、ロベルトにとってそれは意外なことだった。
国の豊かさはすべて聖女の祈りのおかげである。そのことはロベルトや彼の国の国民たちにとっての常識であり、聖女の祈りが消えるとともに大地は枯れ果てると信じられていたからだ。
異国の王、バーミリオンはそのことを知らなかったのだろうか?
しかし、なるほど。死の孤島の大樹が再び芽吹いたのはエリーゼの祈りのおかげだったらしい。聖女の力を疑っているわけではないが、その力は躯となった過去の遺物である大樹までもをよみがえらせてしまうとは驚きだった。
大樹の太い幹に背中を預けて、ロベルトはまじまじとエリーゼを見つめた。
三歳のころよりずっと神殿の奥深くで聖女として祈りの日々を送っていたせいか、彼女はどこか浮世離れしたような不思議な雰囲気を漂わせているがーー
(……きれいになったな)
三歳の時も、かわいらしい女の子だった。
婚約者という言葉が理解できないのか、兄と勘違いしてひたすら後を追いかけてくる幼子が、ロベルトはかわいくて仕方がなかった。
正直なところ、ロベルトもこの幼い子供が将来の自分の妻になるという認識は持てていなかったが、あの頃は妹ができたようでただただ楽しかったのを覚えている。
もしもエリーゼが聖女に選ばれなければ、彼女はすでに自分の妻だったかもしれない。
そう思うとひどく感慨深く、また、無性に彼女のすべらかな頬に触れてみたい気になって、そっと手を伸ばした。
指先で頬を撫でると、彼女はきょとんとした表情を浮かべて、それから花が咲くように笑った。
「君がここにいるのならば、近いうちにバーミリオンが攻めてくるだろう。君の祈りなくして国は存続しない。田畑は荒れ、川は干上がり、バーミリオンの砂漠の国のようなことになる。そうなったらあの男は君をこの地へ追いやったことを後悔するだろう。君を連れ戻そうとするはずだ」
ロベルトは言いながら眉を寄せた。
バーミリオンが軍を率いて攻めてきたとき、ロベルト一人ではどうすることもできないだろう。
けれども、エリーゼを逃がそうにも船もない。
エリーゼが不安そうに目を伏せたその時、妖精の王アバロンが、大樹の木の幹を撫でながら言った。
「そんな心配は無用だ」
アバロンの言った通り、ロベルトは生きていた。
エリーゼがほっとしたのもつかの間、バーミリオンが攻めてくると聞いて、彼女の頭は真っ白になった。
ロベルトの話では、国は完全にバーミリオンの手に落ちたらしい。
エリーゼは神殿の祈りの間で出会ったあの大きな男を思い出す。額から目の横にかけての大きな傷跡を持った砂漠の王。彼はどこまで奪えば気がすむのだろうか。
「そんな心配は無用だ」
抵抗することもできず、逃げることもできないのかとエリーゼが視線を落とした時、アバロンのどこか飄々とした声が響いた。
「私たち妖精でかなえられることであれば、なんなりとかなえる。そう言っただろう?」
エリーゼを王と呼ぶアバロンはそう言って、不敵に笑った。
※ ※ ※
バーミリオンは苛立っていた。
バーミリオンの治める砂漠の国より海を渡って来た、緑豊かな小国ウェーダルを奪って早三か月。
奪った小国の城ですごしていた彼だが、本来であれば、この国を臣下に任せて、もっと早くに砂漠の国への帰途へついているはずだった。
けれども、ウェーダルを制圧して十日をすぎたあたりから、豊かな大地に異変が訪れはじめた。
最初は小さな違和感だった。
城の周囲の畑に、イナゴの大群がやってきたと報告が上がった。
イナゴは農作物を食い尽くす厄介者だ。バーミリオンは臣下や制圧したウェーダルの民たちに少しでも被害を食い止めるべく、総出でイナゴの駆除にあたらせた。
せっかく手に入れた国なのに、なんて不運なのだと思いながら、バーミリオンはこの時はまだ、自然が剥いた小さな牙くらいにしか思っていなかった。
けれどもーー
「突然山の木々が枯れはじめ、川の水が干上がり、果ては火山が噴火しただと!? どうなっている! どういうことだ!」
三か月だ。
たった三か月。
その短い間に、どうして次々と不可解な現象が起こるのだろうか。
豊かさを手に入れるために奪った小国。それなのに、この三か月で小国の山の半分以上がただの砂に変わり、川が干上がったせいで水が淀んで腐り、火山の噴火によって降り注いだ火山灰で町が一つ飲み込まれた。
ぎりりと歯ぎしりをするバーミリオンに、臣下の一人が困惑の表情で一つの報告を上げた。
「ウェーダルの民の言葉によりますと、聖女の祈りが途絶えたせいだと。聖女の祈りがなければこの国は亡びる。そう言い伝えられているそうでして……」
「馬鹿馬鹿しい!」
バーミリオンは大声で臣下の言葉を遮った。
聖女の祈り? 一人の女の祈りだけで豊かさが手に入るのならば、わざわざ国を落とす必要がどこにある。
しかし、被害がどんどん拡大していく中、バーミリオンは徐々にその言葉の意味を理解した。
南の内海に浮かぶ死の孤島、忘却の大地。
その孤島に突如として大樹が出現したことを、バーミリオンはこの目でも見ているのだ。そしてそれは、ウェーダルの聖女であったエリーゼをかの島に流刑にした直後に起こった。
「……聖女め」
バーミリオンは拳を握り締めた。
にわかには信じがたいことだが、ウェーダルの聖女には不思議な力が宿っている。そう考えずにはいられない。
「船を整えろ! 聖女を連れ戻しに行くぞ」
ーーしかしバーミリオンの用意した船は、忘却の大地を目前にして、海面に現れた突然の渦に巻き込まれて沈没した。
「だから言っただろう?」
アバロンが勝ち誇ったように微笑む。
バーミリオンは幾度となく孤島へ船を向けたが、それらはすべて孤島にたどり着く前に沈没していた。
驚くことに、それらはすべて妖精の力だというのだから、この小さな体の妖精たちのどこにそんな力があるのかと不思議になる。
「誰もこの島を侵略などできない」
「……誰も?」
「ああ。エリーゼが望む限り、この島は永遠に平和だ」
エリーゼとロベルトの目の前で、また一艘の船が沈む。
ロベルトと手をつないで海岸に立ったエリーゼは、それを見ながらきゅっと唇をかみしめた。
「……たくさんの人が死ぬわ」
ぽつりとつぶやいたエリーゼを、ロベルトがそっと抱き寄せる。
「あれはウェーダルを滅ぼした国の人だけど、彼ら全員が好きでやったことではないでしょうに」
「そうだな」
ロベルトにとってバーミリオンやその国のものは、自国を滅ぼし、親を殺した憎き敵だ。けれども、その怒りも、エリーゼの嘆きの前では静かに霧散していくような気さえする。
彼女の言う通り、憎むべくはバーミリオンで、彼の国の民すべてではないのかもしれない。
「だが、ここへ攻めてこさせるわけにはいかない。君を渡すわけにはいかないよ」
ロベルトはエリーゼの頭を撫でながら、アバロンに視線を向けた。
「……バーミリオンからウェーダルを奪い返すことはできないのだろうか?」
こうしてアバロンに問うこと自体、ロベルトは悔しかった。
本来であれば自分の力ですべてを奪い返したい。だが、今のロベルトには何の力もなく、ここで黙って船が沈むのを見ていることしかできない。
その沈む船を見て、エリーゼは人が死ぬと言って悲しむ。
ならば、元凶であるバーミリオンを打たねば、彼女の悲しみを取り除くことはできない。そして、ロベルト自身も、このまま指をくわえて、ウェーダルが滅びの道をたどるのを見ていたくはない。聖女を失ったウェーダルには滅びの道しか残されていないのだ。
アバロンはふむ、と一つ頷いてから、大樹を見上げた。
「あとひと月待て。さすればすべてがうまくいく」
相変わらずすべてを語ろうとはしない男だなと思いながら、ロベルトは黙ってうなずいた。
※ ※ ※
ウェーダル国第一王子が聖女エリーゼを伴って帰還したのは、それから一か月後ーー、ウェーダルがバーミリオンの手に落ちてからは実に半年ぶりのことだった。
その時にはウェーダルはすでに、国土の多くを砂に飲み込まれていた。
そうーー
大樹を見上げながらアバロンが「一月待て」と告げた、その一月後。
木々が枯れ砂の山と化した山々の大量の砂が、大きな竜巻に巻き上げられて、まるで蛇のごとくにウェーダルを襲った。
そのころすでにバーミリオンは謎の病に侵されて床に就いており、逃げることもできずに襲いかかってきた砂によって城もろとも生き埋めにされたのである。
不思議とウェーダルの自国民たちへの被害はほとんどなく、砂は狙ったようにバーミリオンの国の人間ばかりを襲い、三日続いた砂嵐の影響で国はほぼ壊滅状態に陥った。
生き残った砂漠の民たちは聖女の呪いだと騒ぎ立てながら自分たちの国へ逃げ帰った。
ロベルトはあまりの惨状に言葉を失ったが、アバロンを責めることはできなかった。
エリーゼとともに傷だらけの国に戻った彼は、ウェーダルの民たちに迎えられて王になった。
そしてーー
「エリーゼ、君には本当に驚かされる」
エリーゼは砂に埋もれた国を見て嘆き、膝をついて祈りをささげた。
侵略者が消え、新たな王の誕生に、ウェーダルの民たちが絶望の中にありながら小さな希望を見出していたその時だった。
ロベルトの横で指を組んで祈りをささげていたエリーゼの体から淡い光があふれだして、砂に埋もれた大地に次々と草木が芽吹きはじめたのである。
枯れたと思われた川には瞬く間に水があふれ、芽吹いた草木は急速に成長しはじめる。
孤島の、妖精の国からやってきた妖精たちが歌いながら国中を踊り、それにあわせて山や川、田畑までもが、まるで時間を遡るかのように元の姿に戻っていく。
人々は聖女の起こした奇跡にむせび泣き、歓声をあげて、新たなウェーダル国王と聖女を深くたたえたのだった。
すっかり元通りになったウェーダルでは、今まさに国を挙げての一大行事がはじまろうとしていた。
純白の花嫁衣装に身を包んだエリーゼは、ロベルトの手を取って微笑む。
聖女である女性はその生涯を神殿ですごす。聖女の祈りは神殿でなくては聞き届けられないと言われていたからだ。
けれどもエリーゼは、皆が見ている中で奇跡を起こした。
ロベルトはその直後にエリーゼの手を取って求婚し、人々は聖女が王妃になることを受け入れたのである。
聖堂の天井からは、先ほどから白い小さな花が舞い落ちていた。何もないところから降ってくる花々は、妖精たちの仕業に違いないが、すでに奇跡とともに妖精が受け入れられたウェーダルでは誰も驚きはしなかった。
聖女エリーゼは妖精に祝福されたこの国の王妃である。
人々は子々孫々までそう語り継ぎ、ウェーダルに起こった奇跡を忘れなかった。
エリーゼは妖精たちと国民たちに見守られながら、そっと夫となる国王と口づけを交わした。