1話 俺、異世界に行きます
「向こう側か……」
活況を呈する就職市場。
その当事者の一人として様々な求人票を目にしていく。
社員・派遣・パート・アルバイトなどなどのサイトにフリーペーパー。
それらのほとんどがあらゆる求人を掲載していた。
しかも待遇が結構良い。
バイトでも時給は高いし、社員ならかなりの月収を示されている。
それだけ日本が好景気に入ったという事である。
それもそうだろう。
現在、仕事は幾らでもある。
様々な産業分野において人が求められている。
求人倍率はかつてのバブル景気並みと言われるほどだ。
下手すればそれを上回ってるとも言われている。
学校卒業間近の者達から、中途採用まであらゆる者達が採用された。
極端な話、履歴書も何ももたずに、しかも背広も身に付けずに普段着で赴いても採用されることすらある。
誇張や、この状況を冗談として示してるわけではない。
本当にこれが今の日本の現状なのだ。
日本だけではなく、世界的に見ても似たような状況である。
こんな状況で青色吐息なのは、採用窓口の担当者くらいである。
募集はかけても人が来ない、来てもすぐにもっと条件のよいところにいってしまうのだ。
採用枠に対して、実際に確保できる人員が少ないというのは、人手が必要なあちこちの企業や機関にとって痛手である。
贅沢な話ではあるが、そんなわけで人事担当者たちは常に頭を抱えていた。
だが、だからといって採用される側の新人・中途採用者・転職希望者も楽と言うわけではない。
確かに採用はあちこちで常時行われている。
どこかが駄目だったとしても、別の所に行けばよい。
資格や能力不問で、本当に全くそれらを無視して採用されることもある。
なのだが、そうやって採用されたとしても、それがよいかどうかはまた別だ。
「どうせあっち側だろうし……」
採用情報を前に躊躇してる者達の考えは、だいたいこんな呟きに集約されていく。
異世界。
このばかげた言葉が現実になっていた。
ある日突然現れた大穴によって。
日本を始めとした地球上のあちこちにあらわれたこれは、その後の調査によって異世界に通じてることが判明している。
直径10キロ。
全長1万キロ以上の大穴。
車両どころか航空機すらも突入可能な空間の先には、人が踏み込んでない異世界が広がっていた。
物理的なつながりを無視したこの存在に、最初は誰もが驚き戸惑った。
「なんでこんなものが?」
「どうして出てきたんだ?」
もっともな事である。
だが、調査を進めるごとに、戸惑いや驚きは期待に変わっていった。
人が全く存在しない、知性を有する存在が見当たらない別の世界。
それは新たな開拓地と認識されていったのだ。
また、調査の結果、様々な天然資源も存在してる事が判明している。
加えて、地球上に現れた全ての、少なくとも調査はされた大穴の接続先はそれぞれ別である事も分かってきた。
つまり、十箇所ほど存在する大穴は別々の異世界、合わせて10箇所に続いてるという事になる。
接続先での領土紛争などになる可能性も低い。
競争相手のいない、完全な無着手地帯。
それらを見逃してるほど人は悠長ではなかった。
大穴を得た当事国はすぐに開発に乗り出した。
その為に惜しみない投資が行われた。
大穴を進むために必要な輸送手段の建設に始まり、異世界における開発拠点の設立。
現地における資源採掘と採掘した資源の加工工場などなど。
駐留することになる現地作業員達相手のサービス業も進出した。
結果として数十万から数百万人が異世界に進出することとなっていた。
大穴の開いた国の経済力などにもよるが、たいていの国が様々な手段を使って異世界に進出している。
日本の好景気もこれによるものだった。
何せ、異世界・星一つが丸々開拓地になっている。
そんな場所で田畑を広げ、資源を採掘し、ある程度の状態まで加工をして本国・地球までもってくるのだ。
人手がどれだけいても足りやしない。
常に人員不足・常時採用状態が続くのも当然である。
しかし、異世界までわざわざ出向くのも苦労がある。
まず、長さ1万キロ以上という大穴の長さ。
現在では高速道路に高速鉄道、さらには航空便まで運行はされている。
しかし、それでも陸路でいけば数日から半月はかかってしまう。
航空便を使えばもう少し短縮できるが、それでも時間がかかってしまう。
また、航空便はどうしても高くつくのでそう簡単に利用できるものでもない。
このため、行き来が大変不便という問題がある。
一応陸続きではあるのだが、異世界はやはり遠い場所であった。
そんな異世界であるから、行ったら基本的には移住するようなものになってしまう。
現地に進出してる企業に就職したら、異世界での生活をすることとなる。
既に異世界での生活基盤などはなされてるので、生活における不便はそれほどでもない。
電気もガスも水道もインターネットも存在している。
まだまだ整備や拡張拡大はされてるが、異世界の都市部は地球の町とそれほど大きな差の無い状態になってきている。
だが、地球と簡単に行き来が出来なくなるのは避けがたく、こちら側とあちら側ではどうしても隔たりが出来てしまう。
移動の制限があるわけではないが、距離と時間というどうしても解消出来ない壁が手軽な移動を阻んでしまう。
なので、異世界行きはだいたいにおいて行ったら行きっ放し、現地で骨を埋めるという事態になってしまう。
就職の採用先というのは、だいたいにおいてそんな異世界勤務だったりする。
現地における開拓・開発に携わる人員が常に求められており、その為に送り込まれる人員が求められていた。
この時期、採用に躊躇する者達が気にするのはこの部分であった。
金払いは良い、待遇も悪くは無い、しかし……となってしまう。
「行ったら簡単に帰ってこれないしなあ……」
盆や暮れの帰省などほとんどしない者達であっても、やはり実際に帰省も難しいとなると尻込みする。
時間もかかる、手間も増える、さらには金もかかるのだから当然だろう。
1万キロの移動は一日では出来ず、何回か途中で宿泊することになる。
その費用だけでも結構なものになってしまう。
一度出向いたら数年は帰ってこれないと言われていた。
実際、移動費用を捻出するのにそれくらいの時間がかかる事もある。
行って帰って来るだけで一ヶ月近くの時間がかかる事もあるのだ。
有給休暇全てを使うにしても、一ヶ月近くの期間休めるだけの有給を得るには二年ほどは勤務せねばならない。
また、それだけではどうしても足りなくなる日数の分は、残念ながら休暇扱いとなり給料から差し引かれる。
それらも考えると、それなりの金額を用意してないと地球と異世界の行き来は難しい。
どれだけ給料が良くても、ここを気にする者はそれなりにいる。
また、勤務地や勤務形態がどうなるかも気になるところである。
どうせなら本社で社内勤務が理想、という者は多い。
異世界勤務となると、重労働で大変という印象が強い。
実際、開拓・開発となると肉体労働がほとんどという事が多い。
だからこそ金払いがよくなるのだが、それよりはほどほどに稼いである程度楽が出来る社内勤務を求めるのが世の常であろう。
行ってみたらとてつもない重労働だった、という事もある。
これはたまらないと別の仕事に転職しようにも、異世界に出向いたらそれも少し難しくなる。
現地で別の仕事先を見つければ良いのだが、それがなかなか出来ない場合もある。
大穴の異世界側に作られた出入り口にあたる都市などでならばともかく、それ以外の場所ではそれも難しいこともある。
特に開発の最前線となると、周囲に人っ子一人いない原野風景が広がってる、という事もある。
そこから町まで戻るまでが大仕事になってしまい、転職もままならないという事態も発生している。
そこまで行くと、事実上の隔離のようなものでどうしようもない。
こういった事もあるので異世界への就職は誰もが知りごみしてしまう。
それに、異世界に人手がとられたせいで地球のほうで人手不足にもなっている。
無理して異世界に行かなくても、地球のほうで就職する先もあるにはある。
あわてて就職をする必要も無い……とはいえた。
だが、そう言えるのは、やはりそれなりの条件を揃えた者に限られたりもする。
「どうすっかな……」
迷ってるこの男、年齢は34歳。
独身、アルバイト暮らしである。
一応は生活は出来てるが、やはりいつまでもこんな暮らしを続けていけるとは思っていない。
どうにかしてこの状況を打破しなければ、とは思っている。
しかし、自分の年齢や学歴、保有する資格などを考えていくと、どうしても勤め先が少なくなってしまう。
好景気、人手不足といっても、優先して採用されるのは新卒であったり技能保有者だったり経験者だったりする。
そのどれでもない者は、やはり優先順位が低くなる。
そんな者がなれるものといえば、地球上ではやはり待遇の悪いものや給料の安いものになってしまう。
確かに数多くの仕事はあるのだが、それらに就くのであれば今と何も変わらない。
仕事を変えるならば、少しでも条件の良いところに行きたいものだった。
となると、どうしても勤め先は異世界に限定されてしまう。
「うーん」
迷ってしまう。
本来なら、こうやって迷うような贅沢すら許されないはずではあるのだが。
だが、どうしても悩んでしまう。
「行くべきか、行かざるべきか」
今のまま、先行き不安な状況を続けるか。
それとも、心機一転、駄目でもともとと博打に出てみるか。
パソコンに表示される採用情報一覧を眺めながら、彼は頭を働かせた。
そして一週間。
悩んで迷った末に、彼は決めた。
異世界に出向くと。
何がどうなるか分からないが、何がどうなろうともやるだけやってみようと。
このまま今の状態を続けても、いずれはどこかで詰んでしまう。
そうなるくらいなら、ある程度の危険を承知で稼ぎを取りにいく事にした。
幸い、年齢制限や資格制限も存在しない。
それでいて給与などの待遇は悪くない。
「……信じてみるか」
それらの情報がどこまであてになるか分からない。
行けば辺鄙な場所に飛ばされて、逃げようにも逃げられないような僻地にいることになるかもしれない。
だが、それでも衣食住が保障されるならばそれでも良いと考える。
悲しいことに独身であり、養う家族について悩む必要もない。
稼いだ分がそのまま懐に残るなら、これほどありがたいものもない。
それでもある程度は条件が良いところを選んで、採用に応募していく。
「ここと、ここと、ここと……」
あとは返事が来て、面接にいって、結果が出るのを待つだけ。
今やってるバイトの休日を考えて面接日を決めていく。
それから更に一ヵ月後。
採用に応募した彼は、その中の一社に入り、異世界へと向かうことになった。
「どうなるかなあ……」
採用者集合場所に出向き、バスで大穴の中に入っていきながら呟く。
ここまで来たら引き返すことは出来ない。
覚悟を決めて前に進むしかない。
まだまだ迷いも悩みもあるが、それを抱えて異世界へと向かっていく。
立橋ヒロキ、これまでの人生における一番大きな決断であった。
とりあえずこんな調子の話をやってみたいと思う。
異世界だけで、転生でも転移でもない、というのはどうなんだろうと思いつつ。