正義と恥
ついに、プレゼンの日が来てしまった。
あの失恋の日から、もう五日も経っているというのに、和花の姿を見ると心が抉られたような、突き刺されたような。いまだにそんな感じがする。
初恋は報われない。
本当に、その通りだと思った。
「頑張ろうね!」
英語の授業が始まる直前、和花が僕の肩をポンッと叩きながら言ってきた。
嬉しかったが、それと同時に胸が締め付けられた。
諦めたくても、諦められないこの気持ち。
一体どうすればいいのだろう。
僕の中に咲いている恋の花は、枯れるどころか、まだ元気に育っている。根っこを引っこ抜きたくても、地中深くまで伸びているのか、全く抜けない。
胸の奥を襲う痛み。
早くこの痛みから解放されたい。
「ねえ」
自分の席でボーッと黒板を眺めていると、右斜め上から聞こえた不機嫌そうな声に、僕は思わず眉を潜める。
高校二年になってから、僕のストレスの原因のおよそ半分を占めている、須藤だ。
このまま前を向いて無視し続けると、面倒なことになると思ったので、不本意ながら彼女を見上げた。もともと少し釣り目がちだった目をさらに釣り上げ、腕を組んで僕に上から見下すような視線を向けている。
視線で人を殺せるのなら、僕は間違いなく殺されている。いや、きっとだいぶ前にもうとっくに殺されていただろう。
「変なことしたら許さないから」
仁王立ちしているストレッサーの声が、頭上から降りかかってくる。
そんなことを言われても……僕の仕事は模造紙を黒板に貼るのと、画用紙を持つだけだから、どこでどう変なことをするというのだろう。
僕が話しているところを見たことがないからか、和花が僕にこの二つの仕事をくれた。僕が担当していたうどんの発表は、和花がやると言ってくれた。それについて、やはり須藤が文句を言っていたが、和花はなんとか彼女を説得して、心の底から嫌そうな顔をされたが許してもらえた。
そのあと僕はさんざん悪態をつかれたが……
「聞いてんの!?」
須藤の、さらに怒りを含めた声に、僕は我に返って慌ててうなずいた。
*゜。
「次の班は……須藤さんのところね」
先生に言われて、僕たち三人は立ち上がった。
和花と須藤が、楽しそうに話しながら僕の前を歩く。
「和希の役割は何?」
通路を挟んで僕の隣の席に座っている陵介が、尋ねてきた。
僕は、少しだけ眉間にシワを寄せた。
稜介は何も悪くない。
それは分かっているけれど、嫉妬でモヤモヤする。あの日から、変に嫌な気分を抱えている。醜いな、とは思う。だけど、どうすればいいのか分からない。稜介は性格がいいから下手に嫌ったりなんかできない。だけど彼と一緒にいると、どこか胸が痛かった。
この苦い感情を抑えて、僕は手にしていた模造紙と数枚の画用紙を彼に見せた。
「ああー、じゃあやっぱり話さないの?」
コクリ、とうなずいてから不意に思った。
“やっぱり”って何だろう
すごくどうでもいいことなのだろうが、気になった。
だけど確かに、去年も僕と同じクラスだった陵介は、僕が声を出さない――正確には出せない――ことを知っているのだから、今喋るなんて思ってもいないだろう。
「ガン見してやるよ、和希のこと」
お願いだからそれはやめてくれ、という意味を込めて、僕は目を細めた。それが陵介にちゃんと伝わったかは、謎だ。
たぶん伝わっていない。
「あっ、ごめん、和花。原稿忘れた」
「え!?」
須藤の衝撃的な一言が聞こえたので、僕は須藤の方にバッ、と顔を向けた。
「何その顔。机に、だよ」
「ああー、なんだ……びっくりさせないでよー」
僕も和花も、ホッと胸をなでおろした。
ごめんごめん、と笑って言いながら、須藤は自席へ戻ろうとする。須藤は僕の一つ後ろの席で、よく馬鹿でかい笑い声や話し声が聞こえてくる。授業中に聞こえることもしばしば。
机と机の間の通路は狭いので、須藤が通れるようにと思って、僕は陵介の机の方へと避けた。
ちょうどその直後だっただろうか。須藤の短い悲鳴が聞こえたのは。
ほぼ真後ろから聞こえたので、びっくりして振り向くと、須藤が僕に向かって倒れてきているところだった。
何が何だか分からず、僕は反射的に彼女を左腕で抱きとめた。
その代わり、僕が持っていた画用紙と模造紙が床に落ちた。
驚いた表情をして、僕を見上げる須藤とバッチリ目が合う。
教室内が、怖いくらいにしん、としている。
四方八方から感じる視線。
なんでこんなに静かなんだ?
そう思った数秒後、僕はハッとした。
須藤を片腕で抱きとめている形で静止している僕たち。事故だったとしても、これは平然としていられるような出来事ではない。
これって、物凄く恥ずかしいんじゃないのか……
顔に一気に熱が集まった。背中を流れる冷や汗が気持ち悪い。
僕は急いで須藤を立たせて、彼女から手を離した。そして床の画用紙と模造紙を素早く拾い、そそくさと教卓の前まで行った。
僕は、須藤の顔を見られなかった。
すぐ横から、和花の視線を感じる。和花の顔も見れない。いや、須藤と和花だけでなく、今は誰の顔も見れない。見たくない。
最悪だ。恥ずかしすぎる。
「……すっ、須藤さん、早く原稿を持って来なさい。発表の時間がなくなりますよ?」
先生も、なんだか動揺しているようだった。
「あっ、ああ、はいっ!」
須藤の少し裏返った声が耳に届いた。
あとで、何か文句を言われるのだろうか。一応助けたんだけどな。
逆に転んでいたら、恥ずかしくて僕に八つ当たりしただろう。
どっちにしろ文句を言われるのか。意味が分からない。
「和希。模造紙、貼らないの?」
ああ、そうだった。早く貼らないと
和花に言われて、僕は黒板の端にくっついている磁石に手を伸ばした。
*゜。
プレゼンの出来は、まあまあだったと思う。良くも悪くもなかった。須藤が面倒くさがったからリハーサルは一度もやらなかったが、その割には結構よかった気がする。
自分の席に着いて他の班の発表を見ようと思ったのに、僕はすごく居心地が悪かった。真後ろから、須藤の突き刺さるような視線を感じたからだ。背中に穴が開きそうだった。
それから、僕はなるべく今日ずっと須藤を避けていたのに、放課後になって僕は須藤に呼び出されてしまった。最悪だ。