大いなる冬眠
リス・ベガスがその足に熱狂したのは、たったの半世紀昔のことだ。
白いサマードレスを着てすらりと伸びた足は、白鳥のスーパーモデルもカルガモのセレブ女優もかなわなかった。そこからつんと盛り上がったヒップに、形のいいバスト、そして弾けるような、愛らしい笑顔。カジノ王と言われたノワール・タッソが当時、その足に百万ドルの保険をかけたと言うのも、無理もないと思える。
彼女のベッドルームに飾られた、特大のピンナップさえ見上げていれば、いとも簡単にそれを納得することが出来る。なるほど、映画女優を引退してからも、彼女は多くの人にとって幸運の女神であり続けた。それはリス・ベガスで生業をするうだつの上がらない私立探偵にとっても、だ。
だが私が彼女に出逢った時、百万ドルの保険をかけたと言う足は、分厚いガウンに仕舞い込まれていたし、でっぷりと肥った顔はリス以上の小顔だった往時を偲ばせることは全くなかったと言っていい。
「あんたには随分世話になったねえ、スクワーロウ」
ビアンカ・タッソは何重にも皺の寄った大きな首をひねった。
「いい客は大事にしなきゃな。何しろ忘れたい過去が多すぎる連中ばかりの街で、あんたはずっと昔の恩を忘れないでいてくれる」
元大女優は、往年の銀幕世界に囲まれた寝室で、今、最晩年を過ごしている。私が会ったときすでに臥しがちではあったが、この頃はここに籠りきりのようだ。
「私こそ世話になったさ、ビアンカ。この街で仕事をしていくには、ルールを無視しろ、と言う輩が多いが、あんたは今でもルールを守ってくれる。ハードボイルドはこうでなくちゃ、話にならない」
割りに合わない稼業なのだ。せめてハードボイルドなルールを守ってくれなきゃ、こっちはやってられない。
「何か嫌なことでもあったのかい、スクワーロウ」
「そんなことはないさ。ただ、あんたといるとつい昔を思い出してね」
あの頃はまだ、良かった。タフな台詞をぶつけると、ちゃんとタフな挑発が返ってきたし、天かす売ってるせっこいやくざなんか絶対いなかった。美しい美女と知り合うと洒落乙な展開に必ずなったものだ。今はどうだ。どっちかと言えば、こってこてである。からっきしにもほどがある。
「嬉しいことを言うね。あたしの話が分かる人間も、少なくなってね。スクワーロウ、あんたはその数少ない生き残りさ」
ビアンカは瞳を細めて、昔を懐かしむ。私にとっては彼女のこの表情こそが、仕事を受けるときのビアンカの印象そのままだ。
「あんたには随分苦労させられたからな」
「あたしに、じゃない。ドン・ノワールにさ。あの人の時代も、もう遠い昔よ」
彼女は謙遜するが、私は知っていた。ドンとまで言われたノワールが、まさかの訴追を受け、失意のうちに獄中で亡くなる三十年間、シンジケートはこのビアンカが守ってきたのだ。
「昔話は、これくらいにしよう。こっちはあんたから仕事だって聞いて、気合いを入れてきたんだ」
「パーティをしたいんだ」
率直に、ビアンカは言った。その言葉を聞いて私は、みるみる自分の頬袋の口輪筋が引き締まるのが分かった。
「一族を集めてか?」
「ええ、残らず。かわいい坊やたちに、あたしももう何年も逢ってないからねえ」
「何かが起きるのか?」
私は思わず勢い込んで訊いた。ビアンカ・タッソがパーティをすると言うのは、彼女の現役時代は何か大きな事件の前触れになったのだ。
「馬鹿言っちゃいけないよ。あたしがパーティをするんじゃない。依頼人はあの子なのさ」
老ビアンカは、肥った首を大儀そうに振った。ソファの上に、小学生くらいの、赤いリボンにストライプ柄のワンピースを着た小さな狸の女の子がちょこんと座っている。
「あたしの孫娘だ。アリシア、おじさんに協力してもらいな。この人に何でも頼みなさい。いいかい?」
孫娘に語り掛ける優しい口調で、ビアンカは言った。アリシアは小さく頷くと、私のところへぱたぱた駆けて来た。
「よろしくね、おじ様」
「あ、ああよろしく」
よっぽど行儀よく躾けられているのだろう、初対面の私の前でも全く物怖じすることはなく、小さなアリシアはぺこんと身体を折ってお辞儀をして見せた。
「どういうことなんだ、マダム」
「見ての通りだよ。スクワーロウ、あたしの紹介でその子があんたを雇う。どうだい、アリシアは若い頃のあたしに、一番そっくりだろう?」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
私は、悲鳴を上げそうになった。ハードボイルドな展開はどこ行った?
「パーティがしたいの」
アリシアは、銀幕女優の時のビアンカそっくりの口調で言った。
「おじさんにはわたしの買い物のお手伝いと、招待状を届ける役をお願いしたいの。大丈夫かしら?」
「大丈夫さ。どちらも、君のばあさん…いや、ビアンカに頼まれたことがある仕事だ。喜んで引き受けさせてもらうよ」
泣けるぜ。ハードボイルドなら、こう愚痴るところだろう。小さな令嬢と私立探偵。だがこの構図、そう言いつつも、まだハードボイルドな望みはある。
「ところで、先に聞いておきたいんだ。ビアンカが私に依頼する意味ってことなんだが…君はその、誰かに狙われているのかな?」
アリシアは、長い睫をぱちぱちさせて首を傾げた。
「どうして?」
「いや、もういい」
だめだ。これ以上は突っ込めなかった。アリシアが、タフな展開とは無縁の、あまりにきょとんとした顔で私を見返したからだ。
「パーティはビアンカの提案かな、君の提案なのかな?」
「わたしのよ。最近グランマ、元気がないから。よく昔の家族写真見たりして、一人で泣いたりしてるの」
「ビアンカが?」
思わず私の声が強張った。私の知ってる彼女からは、考えられない話だった。
「わたしのうちは、お父さんもお母さんも働いてるから。よく、グランマが預かってくれるのよ。グランマ、すごく優しいの。わたしの誕生日にね、ピーカンパイ作ってくれたのよ。ママとわたしにレシピ、教えてくれたの。だからね、今度はわたしがご馳走してあげなきゃ」
「ピーカンパイか」
私も大好物だ。まさかビアンカがそれを得意料理にしてたとは、私は初めて知ったが。
「グランマは、おじさんたち皆に会いたがってたわ。スクワーロウさん、あなたはおじさんたちを皆、知ってるのよね?」
「まあ、仕事柄、全員と会ったことはあるよ」
タッソ家には七人の兄弟がいたが、上の兄と姉はもう他界して、一人は刑務所に入って出てこれないはずだ。
「で、本当に全員呼ぶのかい?」
「ええ」
アリシアは、何の疑いもない笑顔で頷いた。
「だからグランマに、あなたを紹介してもらったんじゃない」
「…泣けるぜ」
「え、何か言った?」
「いや、何でもない」
今のは本当の泣き言で、あんまりかっこいい台詞じゃなかった。
「招待状は子供たち皆で作ったのよ。おじさんには、皆にこれを直接届けてもらいたいの」
こうして私は何も言えず、ラメでキラキラの、いかにも小学生の女の子が使いそうなピンク色の便箋の山を受け取ったのだった。
これをマフィアのおっちゃんたちに渡せと言うのか。なんてこった。子供の使いだと思ってたら、ビアンカ本人の依頼級のハードなミッションじゃないか。
「かっ、帰れ帰れえいっ!こないなもん、こんなとこに持ってきよってからに!一体、どういう神経しとるんじゃい!」
ヴェルデ・タッソは、むきになって私を怒鳴りつけた。が、姪っ子が作ったかわいい便箋を放り投げることは出来なかった。やくざもかわいい姪っ子には弱いと言うことだ。
「かわいい姪っ子の頼みだ。私ならともかく、そう無碍にすることはないだろう。それとも、ビアンカが何か企んでいるとでも?」
「そないなことは誰も言うとらん。ば、ばあさんのとこにもなあ、そろそろ顔は出さねばあかん、とは思うとった。せやけどお前、盆でも正月でもなしに、どの面下げて会いに行ったらええんじゃい」
ったく、盆だの正月だの、って、どこまでしみったれた親玉だ。
「昔はよく、食事会してたんだろ?一族で」
「昔の話や。それになあ、知っとるやろう。わしの代になってから、そうやすやすと一族で食事会を催すことは、ようけせんようになったんじゃい」
理由は分かっている。ビアンカのせいだ。ドンが服役してから組織を取り仕切ったビアンカは、容赦なく危険分子となる人物を始末した。その暗黒時代を知るものにとっては、パーティと言う言葉は胃痛の種でしかないのだ。
「他の兄弟も同じ気持ちや。パーティとなるとお互い、肚の探り合いばかりして、逆に良うない結果を産むことになる」
「だからって、決まったときにしか顔を合わせないってのは、おかしな話じゃないのか?」
「色々あるんじゃい。わしだって兄弟に一生顔を合わさんとは言うてはおらん。それになあお前、ばあさんが死んだときは、せめてわしが皆に声かけるぐらいは」
「なんだ今度は葬式か。あんたつくづく、しみったれたやくざだな」
「やっ、やかましい!」
こうなったらこっちも、仕事だ。プロの意地にかけても、アリシアのために面子を集めてやる。
「そうだ、じゃあこうしよう。他の兄弟も出席するならあんたも出席する。まさかそうなれば、あんたも出席しないわけにはいかないだろうな。一家を継いだあんたが出てこないなんて言ったら、組織の面子は丸つぶれだ」
そこまで言うと、みるみる狸は顔を紅潮させて乗ってきた。
「あっ、ああ、ええやろう!出来るもんなら、やってもらおうやないか!その代り、全員やからな!一人でも欠けたら、わしは行かんぞ!?」
「絶対あんたを出席させてやるからな」
私は啖呵を切って出て行った。その割に持っていくのがまた、女の子女の子したかわいい便箋だと言うのが、物悲しかった。
しかし、そこからが難しかった。ヴェルデが言うように、タッソ家のパーティにまつわるトラウマは、尋常なものではなかったのだ。本家のファミリーを継いだヴェルデの他に、タッソ家の男たちはレストランや運送業をして表向きの生業をしているが、ボスの元にその便箋を直接持って行ったが、軒並み受け取りを拒否された。
「ばっ、ばあさんが!おれを呼んでるだって!?嫌だ!おれは行きたくない!」
「知ってるぞ!ビアンカばあさんは、十年前おれが組織を裏切ったと思ってる!パーティなんて行ってみろ!殺される、絶対殺される…!」
みっともない連中だ。しかしこうなるとアリシアが書いたかわいい手紙が、暗殺の予告状に見えてきた。
「なんてこった」
この私が、手に負えない仕事を引き受けるとは。プロの面目丸つぶれだ。二進も三進もいかないじゃないか。どいつもこいつも、いいやくざが、自分の祖母さんがそんなに怖いのか。はあ。…と、ここでどんな悪態吐いてみたって、こんなにけんもほろろでは、さすがの私もぐうの音も出ない。
かなり落ちているところに、電話が掛かってきた。折悪しくアリシアからだ。
『おじさん、上手くいってる?』
私は小さな依頼人に聞こえないように、重いため息をついた。
「上手く行き過ぎて、泣けてきたところさ。どうかしたか?」
『そろそろ、ピーカンパイの材料を買いに行こうと思って。後、おばあちゃんから伝言。そろそろネーロおじさんにも声をかけてほしいって』
「ネーロおじさん?」
ネーロ・タッソは、終身刑で服役しているヴェルデのすぐ下の弟だ。まあ、どう考えてもパーティに出られるわけがない。
「ネーロおじさんは、なんて言うかその、ちょっと遠いところにいるんだ。まず、私が行って会えるのかな?」
「大丈夫よ。それにね、おじさん、パーティには出られるかも知れないんだって?」
「なんだって?」
私は怪訝そうに眉をひそめた。
私は、州立刑務所にネーロ・タッソを訪ねた。意外にも、面会はすぐに出来た。ビアンカの差し金に違いない。随分、手際がいいことだ。
「久しぶりだな、スクワーロウ。兄貴は元気でやってるかい?」
ネーロ・タッソはにたりと微笑んで、八重歯に埋め込まれたダイヤモンド製の入れ歯を見せつけてきた。ご丁寧にイニシャル入りだ。この男は密輸の罪で、兄のヴェルデの代わりにダイヤモンドを運んでいて服役したのだ。その頃、まだまだ、時代はハードボイルドだった。
「聞くところによると今度、特赦が降りて仮釈放になるんだって。気づかなくって悪かったな」
「ばあさんの手回しが良かったみてえだな。さすがあの人も、衰えちゃいねえや。兄弟にはおれが声をかけておく。おれが仮釈放記念にアリシアのパーティに顔を出す、と言えば、顔を出さずにはいられねえだろう」
「助かるよ」
やれやれだ。まさか刑務所にいる人間に、助けてもらえるとは夢にも思わなかった。
「で、見返りと言っちゃなんだが、あんたに一つ仕事を頼まれてもらいてえ」
「仕事?」
ネーロは頷くと、これみよがしにダイヤモンドの歯を見せた。
「おれをはめた奴がいる。そいつを探し出してもらいてえ。お蔭で、仮釈放が五年も遅れたんだ」
「それは本当の話なんだろうな」
「ああ。かつてこのおれと同じ場所に叩き込まれたおれの親父、ドン・ノワールをはめた男、そいつの正体を追ってた。おれはもう後、一歩のところだったんだ。ばあさんがパーティを計画してくれて、そこでそいつを仕留める手はずだった。だがそいつの方が一枚上手だった。先手を打たれてヴェルデが訴追され、兄貴の仕事を請け負ってたおれが刑務所に入らざるを得なくなったって話さ。おれが出れば当然、奴は動くだろう」
「まさかアリシアのパーティで、ドンパチやろうって話じゃないだろうな?」
こいつらは節操がない。私はじろりとネーロを睨みつけて念を押した。
「おれは、そんな無粋な真似はする気はねえ。ただ、事実を言ってるだけだ」
「ビアンカが組織の殺しのためにパーティを開く時代は、終わったんだ」
「それも分かってる。かわいい姪っ子だ。手荒な真似はしたくねえ。だから、あんたに頼んでる」
困った。他愛のない仕事だと思ったのが運の尽き、どんどん、依頼の難易度が上がってくる。
そしてついにハードボイルドな展開になったのは、パーティの前日のことだ。私はアリシアの買い出しに付き合ってやっていたのだ。彼女が作るピーカンパイの材料を、マーケットで仕入れていた。
ピーカンナッツで作るパイは単純だが、それだけに個々の材料は欠かせないものばかりだ。実ぶりのいい上等の香ばしいナッツに、コーンオイル、バニラエッセンス。ビアンカ直伝のレシピは、確かなものだった。店も昔から取引があるのか、極上品をとって置いていてくれている。
「おじさんの分も、ちゃんと作ってあげるからね」
「悪いな」
情けない話、思わず頬袋が緩んでしまう。ナッツが好物のリスにとって、昔ながらのピーカンパイはもはや殺人的なご馳走である。
他にも子供たちに配るお菓子を買いたいと言うので、私はそちらにも付き合った。店の前に車を停めて、アリシアが戻ってくるのを待っていると、助手席のガラスを誰かが拳で叩いてきた。コン、コン。思わずぎょっとして振り返るとそこには、私よりも数倍顔のでかい、毛むくじゃらの熊がいた。
「よう、リスの旦那。悪いが、ここちょっと開けてくれるか」
「あんた、まさかクマノビッチか」
十分に警戒しながら、私はパワーウィンドウを下ろした。クマノビッチは、この街で今、一番恐ろしい男の一人だ。北から亡命してきた命知らずの連中を束ねる新興マフィアのボスなのだ。本人も恐ろしい大きさのヒグマだが、体格のいい特殊部隊出身の屈強なボディガードを二人も連れている。
「何か用か」
私は内心の動揺を悟られぬよう、声を引き締めて尋ねた。
「用ってほどじゃねえさ。ただ、聞きたいことがあるんだよ。ビアンカばあさんのことさ。あの老いぼれが、まだ生きて何か企んでるんだって?」
「さあな。そうだとしても、関係ない話だ。おれにも、あんたにもな」
「どうかな。そう言えば、おれの記憶が確かなら、今あの店に入ってったのは、その老いぼれの孫娘じゃなかったか?」
私は言葉に詰まった。まずい。こうなるとこの危険な男から、アリシアを守るのは、至難の業だ。すると。
「きゃああっ」
アリシアの悲鳴が上がった。お菓子の包みが路上にばらまかれた音がした。驚いてクマノビッチから視線を外すと、アリシアはコートを着た細長い男に口を塞がれて、連れ去られるところだったのだ。
「くそっ」
細い路地に入った男を追って、私は車を飛び出した。クマノビッチめ、これが狙いだったのだ。
男は狭い場所をすいすい逃げていく。逃げ馴れているのか、アリシアを抱えてすごいスピードだ。細かい道が得意なリスでさえ、辟易してしまう。全く今回は、自信を喪失することばかりだ。
「アリシア!」
頬袋のナッツを射出しようとして、私は立ち止まった。だめだ、距離が遠すぎる。しかもこれではアリシアに当たってしまう危険がある。そうこうしているうちに細長い路地から十字路に、男は飛び出した。と、同時に小さなワンボックスカーが停車する。仲間がいたのだ。しまった。車で逃げられる。そう思った時だ。
発進しかけた車の横頭に、ごっついフレームの大型車が突っ込んできたのだ。砲弾が落ちたようなとんでもない音がした。鼻っ面をぶっ飛ばされたワンボックスカーはひとたまりもない。
一気にバランスを喪った車体は、壁に当たってあっけなく停車した。すかさず銃を持って飛び出した男たちだが、出てきてまた泡を食わされる羽目になった。無理もない。大型車から出てきたのは、弾丸も跳ね返しそうな屈強な肉体を持ったツキノワグマのマフィアたちだったのだ。
「パーティをやるんだろ、リスの旦那!」
後部座席からアリシアを大事そうに抱えた、クマノビッチが叫んだ。
「おれたちも、混ぜてもらおうじゃないか」
アリシアのパーティは、穏やかな晴れの日だった。いつもは閑散と陽だまりが落ちるばかりのビアンカの家の庭には、バーベキューのセットが置かれ、テーブルにはタッソ一家のマフィアの兄弟たちとその家族が勢ぞろいした。うららかと言う他ない、まさに記念すべき日の始まりだった。
一心不乱に鉄板焼きそばを作るヴェルデのところに釈放されたネーロがやってきて再会のハグを交わし、復讐に怯えていた兄弟たちが一堂に介して仲直りをした。
「あんたの狙いはこれだったんだな、ビアンカ」
一人、二階の寝室から賑やかになった庭を眺めるビアンカに私は言った。
「アリシアを使って、あんたは私を上手く動かした。往年の手腕は、やっぱり衰えちゃいなかったみたいだな」
「馬鹿を言っちゃいけないよ、スクワーロウ。言っただろう、あたしの時代はもう終わりなんだって」
私は、寝室のドアを開けた。そこにはアリシアを誘拐しようとした細長い男の黒幕である初老の男が、クマノビッチとその屈強なボディガードに引き立てられていた。
「やっぱりあんただったんだね、裏切り者は。イタチのフィッチ」
フェレットのフィッチ・ギャッロは、小狡い瞳をすがめて、ふん、と鼻を鳴らした。この男こそは、獄中死したドン・タッソの連絡係及び資金管理をしていた男だった。
「訴追されたネーロはずっとこの男に目をつけていた。なぜなら知っていたからだ。このフィッツが、かつて父親のドン・タッソをはめたことを。ネーロの仮釈放にあわせて、この男もまた動き出すことを、あんたも知ってたんだ。それでビアンカ、あんたはアリシアのパーティを使うことにした」
ビアンカは黙ってそれを聞いていた。澄んだ色をしたその瞳を見つめながら、私は話を続ける。
「ヴェルデの兄弟をおれに刺激させ、いいタイミングでネーロに会うように指示したのも、あんたの差し金だ。組織が動揺することで、このフィッチもその気になるからな。そしてとどめがこのクマノビッチだ」
危険なヒグマの親方の胸を、私は拳の裏で叩いた。
「ビアンカ、あんたはいいタイミングでおれに情報を流してくれた。知ってるか。このフィッチってイタチ野郎は、若い頃から連邦犬査局の囮捜査に協力してやがったんだ。あんたの身内やおれの弟を売ったのもこのイタチ野郎だ。弟の裁判が始まる前に、このイタチ野郎を捕まえられて良かったぜ」
「こっ、こらあ、さっきからイタチ、イタチって言うな!フェレットだ!私はフェレットなんだ!」
すると神経質なフィッツはついに居たたまれなくなったらしい。尻を蹴り上げられているような調子で叫んだ。
「ビアンカ、私はどれだけ、あんたとドンに尽くして来たか。それを忘れたわけじゃないだろうな。私には実力があったんだ。あんたの時代は終わったかも知れない。だが次は、今度こそ私の時代が来るはずだった!」
「そう、あんたの気持ちはよく分かったよ」
怒りに震えるフェレットに対して、ビアンカは冷ややかだった。いやむしろ、長年の友人だったはずの人物の裏切りを、彼女は憎みきることが出来なかったのだろう。語りかけた口調には哀れみすらにじんでいた。
「ねえフィッツ。あたしたちの時代はもう終わったんだよ。あんたやあたしだけじゃない。いつか、ゲームを降りなきゃならないときは必ず来るんだ。あたしもあんたも、かわいい孫がいるんだ。そんなことは、とっくに分かってたはずじゃないかい?」
もういい、と言うように、ビアンカは手を振った。私は、クマノビッチにフィッツを手渡すことにした。
「手荒な真似はするなよ」
「分かってるさ。殺しちまったら、裁判には勝てねえ。ばあさんからそこのところは、ちゃあんと教わってるよ」
クマノビッチはあごをしゃくって、部下にフィッツを連れて行かせた。これでいいのだ。これで、ビアンカの暗黒時代の精算は全てついたのだろうから。
「さて話は済んだね」
ビアンカは、それから鏡の前でため息をひとつついた。老いてなお、彼女は大女優だった。今のため息ひとつで、彼女は年来の、重い気持ちを切り替えたのだ。
「スクワーロウ、連れて行っておくれ。あたしを、いとしい坊やたちのところへ」
パーティは、ビアンカの登場で最高潮に達した。やはり血を分けた家族が顔を合わせると言うのは、他に替え難いものだ。そこに立ちあった無関係の私ですら、思わず幸せな気分になってしまうほどに。
「ネーロ!あんたはずっと変わらないわねえ。何もかも昔のまんまじゃない」
ビアンカはにこやかにネーロに話しかける。血で血を洗うマフィアとは言え、息子たちとの賑やかな触れ合いの時間こそが、彼女が年来、一番切望してきたものに違いない。
「あら、あんたは肥ったわねえ。もう少し、痩せないと長生き出来ないわよ」
「おっ、おがあちゃん!堪忍!堪忍やあ!」
ヴェルデは一番楽しそうだった。ったく、現金なやつだ。この前まで葬式がどうとか、盆暮れがどうとか、しみったれたこと言ってたくせに。
「ありがとう、おじさん」
テラスの部外者席で、ナッツをかじっているとかわいい声が立った。ピーカンパイを取り分けて、アリシアが持ってきてくれたのだ。
「これがグランマ直伝のピーカンパイよ。味を見て下さる?」
「ありがとう」
私は皿を受け取ると、フォークでピーカンパイを頬張った。それはもう温かみを喪いかけていたが、抜群の香ばしさだった。
「最高だ。文句ない味だな。何よりの報酬だよ」
お世辞でなく掛け値なしにそう言ってやると、アリシアは目を丸くして喜んだ。
「見て」
アリシアは私の隣に座ると、賑やかな笑い声を立てるビアンカたちの席の方へ、あごをしゃくった。
「グランマ、喜んでる。グランマ言ってた。あなたは、最高の腕っこきだって」
「そいつは光栄だな」
と、言う私の頬に、小さな依頼人はキスをした。
「今度は、わたしがあなたのお得意様になるね。また困ったときはお願いね?」
不覚だった。有無を言わさず、頷かされてしまった。さすがはビアンカの孫娘だ。答えに窮したまま、それでも黙っていると照れ臭そうに微笑みながら、私の元を立ち上がると、アリシアは駆けて行ってしまった。
「あれは、十年後だな旦那」
打って変わって野太い声にぎょっとした。クマノビッチだ。まだ居やがったのか。
「馬鹿を言うなよ。十年後は、こっちが墓場さ」
あわてて答えた私の皿から、クマノビッチは手づかみでパイを頬張った。
「悪くねえな。サーモンのパイの次に、こいつは傑作だ」
つまみ食いをしたクマノビッチは代わりにワイングラスを渡すと、分厚い片目をつぶってみせた。
「さっきは部下の手前、ああ言ったがな、おれもばあさんには恩があるのさ。古い話だが、北から来たばかりの頃、親父を助けてもらった」
「あの人は、この街の歴史みたいなもんだからな」
そううそぶくと、クマノビッチは大きな身体を揺すって笑った。
「あんたもな。まだこの街には、そんな連中が必要なんだ」
私は黙って肩をすくめてみせた。時代は繰り返し、いつの間にか終わっていく。ビアンカも私も、まだその中にいることすら奇跡なのだ。
「今日は記念日だよ、あんたたち」
ビアンカは祝杯の前に、一同を前にして言った。
「ドンの誕生日で命日だ。あの人はついに、戻っては来なかったけど、あたしたちに一番の記念日を遺してくれた」
家族がまた、笑顔で集える記念日を祝って。
「乾杯」
ビアンカの音頭で私も乾杯した。クマノビッチもウオトカを開けていた。なんて、穏やかな日だ。愛すべき家族の中で、その日のビアンカは笑顔を絶やさなかった。家族を守り通してきた何十年の心労が報われた、それはまさに彼女にとっても記念すべき日、だったのだろう。
リス・ベガスの歴史そのものと言える、ビアンカ・タッソが旅立ったのは、それから二か月後だった。春を待つ穏やかなそのものなその日は、ビアンカとドンの結婚記念日でもあった。教会墓地での参列に私も加わった。春の花が添えられたのは、誰が撮影したのか、あの日のビアンカの忘れられない笑顔だった。
「記念日、か」
ビアンカの葬儀から帰ってきた次の日、私はずっと飲まずにおいておいたワインを開けた。サッシの向こう、リス・ベガスの午後の陽が、通りに蒸れていた。輝かしくも真新しい春の陽射しの中で、冬の名残は跡形もなくほとびていく。私は永くも、安らかな冬眠に入ったビアンカの面影を一人、想い続けていた。