プロローグ
院長室は静かだ。学会での会食から帰って来た諸人は、さっそく、論文に目を通した。時刻は六時半を回っていた。机の上には胃薬が置いてあり、自分より年上の秘書の添え書きがしてあった。
「無理は禁物ですよ」
それを見たときは涙が滲み出そうになった。秘書からこのような添え書きをもらったのは初めてだった。
諸人は二八歳で、彼の父親は私立大学栄大学医学部の学部長であり、栄大学医学部病院の院長だった。諸人は高校二年生の時まで、父の大学ではなく東大理科Ⅲ類を目指していたが、成績が届かない現実を鑑みて結局推薦で栄大学医学部を受験し、必然的に合格した。中高一貫校の高等部在学中、父が栄大学の院長であることを、彼は伏せておいたつもりだったが、ある日を境に、「お前、パパの大学に裏口入学すんだろ」と、同級生から刺々しく言われ、クラスメートから無視されるいじめを受けた。東大を志望校にしたのはそれが理由だった。
ところが一学年上の女子の先輩が、諸人を庇ってくれるようになった。名前は坂口冴子と言った。冴子は生徒会長で、全校生徒の憧れであり、冴子も、下の学年のクラスに遊びに行っていた。だが彼女も同級生の友だちは少なかった。誰とも群れようとしない彼女は冷ややかな目で見られていたのだ。冴子は諸人に声をかけると、自分と同じような境遇にいる彼に好意を持つようになった。いつしか二人は交際するようになり、諸人へのいじめはなくなった。
ドアをノックする音が響いた。
「入ってください」
ドアが開くと、外から入ってきたのは、秘書だった。諸人は聞いた。
「討論会の段取りはどう?」
「ええ。今日、緑区の社会福祉法人『こころの輪』の理事長と面接してきました」
「僕の書面について、何か言ってた?」
「特に。快諾してくれる感じでしたよ」
「ああ、そう。ならいいけど。で、安口病院の院長と副院長に贈るお歳暮の菓子折り、用意してくれたかな」
「大丈夫です。他の病院のもそれぞれ用意しておきました」
「ご苦労様。座りなよ」
「はい。お言葉に甘えて」
秘書はソファーに座った。それを合図に、諸人は急須にお茶を淹れ、秘書の元に盛って行った。すると秘書の口調が一転し、
「悪いわね」
「いや、いいよ、冴子」
諸人の秘書は、まぎれもなく冴子だった。諸人は、冴子に敬語を使われるのがどうも苦手だった。彼女は先輩であり、恋人だからだ。ソファーに座らせたら、敬語をやめようという取り決めだった。
「この胃薬、君が用意してくれたんだろ?」
「いいや、違うけれど」
そう答えられて、諸人はきょとんとした。諸人は臨床研修を終えて間もなくして院長になった身なので、激務というほどではないが、プレッシャーで胃を悪くしていた。学会が来るたびにひどく憂鬱になる。なにせ有名大学のお偉方ばかりで、明らかに一人で浮いているからだ。
「飲んだの?」
「ああ、いつも使ってる胃薬、漢方薬だから」
「でも処方箋は?」
「これは……もらってないけど、僕が内科の美川先生からこの胃薬をもらっていることは、君は知ってるだろう?」
「そりゃそうだけど、気をつけるべきよ。あなたみたいな年齢で院長になるなんて、良く思ってない人大勢いるんだからね。毒でも盛られてるかもよ」
「分かってるよ。だから君のサポートが必要なんじゃないか。信頼してるんだよ」
「他人事みたいに言わないで頂戴な。医局が険悪なムードにならないように根回ししてるの、苦労してるんだから。ねえ、それより今夜食事どう?」
「構わないよ。論文はある程度目を通しておく。それから一緒に落ち合おう」
すると冴子はお腹をさすった。
「しっかり栄養つけなくちゃね」
「なんというか不安だわ。できちゃった婚になるからねえ」
諸人は冴子の隣に座り、肩に手を回し、彼女の下腹部をさすった。妊娠が発覚したのは、一週間ほど前だった。
「ああ眠い。急に眠くなってきた」
「疲れたでしょう。私はもう出るね」
「ありがと」
冴子はそっと席を立ち、去って行った。
諸人はまどろみ、眠りに落ちて行った……。
高層ビルのレストラン。夜景がホタルの光のようだ。ベイブリッジは青みがかっており幻想的で、高層ビルの赤い警告灯の点滅は静けさを演出しているかのよう。
席を立って窓ガラスを眺めている、豊満な体つきをした牧野穂香と、パリッとスーツを着こなしている小柴泰三が、うっとりとした雰囲気に酔いしれていた。
「いいものだ、実に。接待は料亭でするものでね。退屈で嫌なものだ」
そう言うと、彼は牧野穂香のくびれた腰回りに手を回す。くすぐったそうに穂香は笑った。
「非常に光栄ですわ」
彼のモノとして扱われることが、といった皮肉である。穂香が最も嫌うのは束縛だった。
「何が光栄かは分からないが、文学的だね」
またも、くすり、と穂香は笑った。
泰三の支配欲は満たされていった。穂香は作家で、彼女の父親は大手家電量販店の社長だった。一方の泰三は警視庁に勤め、階級は副総監だ。警視総監である父親の後釜が用意されている、キャリア組である。
「高いところはいい。君もそう思うだろう?」
「馬鹿は高いところに上りたがると言いますが、私も高いところが好きよ」
泰三は穂香の後ろに回りこんで抱き付いた。
「ああ、酔ってしまったなぁ」
「酒を言い訳に何するつもり? はしたない、離れてちょうだい」
「そんなに嫌がっているように見えないけどな」
「決めた。私飲みませんわ」
「そんなつまらないこと言うなよ」
穂香は心底不快だった。だが、彼女は嫌なことに目を瞑り、セックスに逃げ込んでさっさと帰ろうと決めていた。泰三は四三歳のおっさんといえど、がっしりした体格で包容力があり、アシストがうまい。必ずセックスの前にはガムを噛んで口のケアも怠らない。セックスしたくない気分のときでも、アルコールを決めて、オーガズムに溺れるのが穂香にとってのストレス発散だった。おまけに泰三とは婚約している。副総監の彼をゲットできるなんて、そうそうないので、嫌なことには目をつむってでも、結婚まで持ち越したかった。
食事を終えると、泰三はウェイトレスを呼び会計を済ませ、オーナーによろしく、と伝えた。ウェイトレスは、はい、と答え、去って行った。オーナーによろしく、というのは、自分たちが一緒のレストランに来たことはマスコミに漏らさないようにしてくれ、という意味が含められていた。それから二人はエレベーターに乗って、先に泰三がホテルに行き、穂香とは一旦別れることにした。穂香はエントランスでスマホをいじり始め、泰三に手を振った。
泰三は心を躍らせ、タクシーに乗った。その時、背後に何か気配を感じた。振り返った瞬間、口をハンカチで覆われ、泰三は気を失った。
あるテレビの特番が組まれていた。
ワイドショーで、年商一億稼ぐカリスマ予備校講師、北里レイが生出演していた。
評論家や作家、タレント、記者などがパネラー席に並び、スタジオの中央には回転椅子が置かれている状況で、パネラー席に座っていたレイが立ち上がり、中央まで歩み寄って行った。各カメラの位置を確認しつつ、席についた。
大画面に、窪んだ眼を眼鏡で隠している、背の曲がった青年が映っていた。
画面下に、『小柴涼さん』と表示されていた。司会者のキャスターは調子よく、
「まあ非常に珍しい対談ですね。失礼な言い方になりますが、各方面で活躍なさっている予備校講師、北里先生と、先生が最も尊敬する人物であると何故か主張なさっている小柴涼さん。彼とのこの対談は北里さんがあらゆる局の企画部に持ち込んでいたのですが、スケジュールが合わなかったり、他局ではそんな内容で番組が盛り上がるのかと現実味がなかったのすが、なんと小柴さんはフィールズ賞の候補になっているのです」
「フィールズ賞とは何なのですか?」
タレントの女性が問う。
「フィールズ賞とは、数学におけるノーベル賞、とでもいいましょうか。もし小柴さんが受賞すれば日本人で四人目の受賞者となります」
「ええ、新聞の記事に乗りましたが、そこまで大きく取り上げた新聞社は少ないですね。しかしこのお方、謎が多い」
「その通り、謎が多い! だからこそ、同じく数学のスペシャリスト、北里レイさんがこの謎を因数分解してくれることでしょう。では、よろしいですか、小柴さん」
「あんた、黙っててくれね? 何、因数分解しろって。あんたどこの大学出てるの? 因数分解って何なのか知ってんの?」
涼はそう言ってのけ、スタジオの空気を冷ややかにさせた。これがいろんな局が涼の出演を拒んだ理由だった。
レイは言った。
「確かに、因数分解という表現はおかしい。むしろそれならまだ、飾らずに、『解き明かす』という表現の方がふさわしい。涼くんが怒るのも無理はないと、僕は思うな」
異様に親しい口調でレイがしゃべるので、司会者は汚名を返上しようと何かを言いかけたが、黙るように言われたので、頭の中で涼への嫌味を考えていた。彼に代わって、女性キャスターがアシストした。
「本題に移らせていただいてよろしいでしょうか」
「俺の許可いるの?」
「いえ……あの、レイ先生がどうしても話しがしたいというところでなんなのですが、お二人の関係はどのようなものなのでしょう」
「先生は俺の恩師です。授業を受けたことは一度しかありませんが、どん底にいた俺を救ってくれたのがレイ先生でした」
レイはにっこりと微笑んだ。涼のこの台詞は、放送前の脚本の通りだった。女性キャスターは切り出す。
「それでは、VTRをご覧ください。」
画面が切り替わり、次のような内容の映像が流れた。
「涼さんは京都大学にトップの成績で合格。信じられないことに数学は満点合格だった。それで在学中に公認会計士の資格を取得。経営コンサルタントの事業を同級生と立ち上げた。しかし非弁活動をしてしまい、卒業時に発覚し、執行猶予つきの実刑判決を下された。非弁活動とは、弁護士法第七二条において、弁護士資格を持たない者が、法律に規定されていない限り、報酬を得る目的で弁護活動を行うことである。
釈放された涼さんは、この事件が原因かは定かではないが、家に引きこもるようになった。そして理学部数学科を首席で卒業した涼さんは、数学の研究に没頭。しばらくの間ニートとして過ごした。
だんだん外に出るのも億劫になったが、アマゾンで注文した数学の専門書が届いたとき、父親がレイ先生の一般向け講義のチラシをさりげなく渡した。父親に付き添って連れていってもらうと、会場は満員。人混みが怖くて仕方がない涼さんは帰ろうしたが、レイ先生が出てくると、先生の最初のこの一言を聞いて、涼さんは足を止めた」
『僕は指数が大好きです』
「この言葉が、何故か涼さんの心に響いた。そして講義を受け終えると、サプライズがあった。なんとレイ先生が涼さんに会いたいと、涼さんを控室に呼び出した。そして二人の天才が出会ったのであった」
「VTRは以上です。この内容について、何か意見があれば」
女性キャスターがそう言うと、レイは言った。
「僕は巨大数とオイラーの公式についての話をしましてね。あとはみなさん苦戦した常用対数を天文学でどう使うかについて解説しました」
すると即座に涼が、
「レイ先生は、数学をわけのわからないものだという思い込みを講義によってわかりやすくする、なんて考えていない。数学は自然的だ、かと思えば超自然的でもある、身近なようで、身近でない。そう、先生はあえて数学って不思議だなという印象をもたせ、興味を惹くんですよ」
「それでレイ先生は涼さんと会って、どうだったんでしょう」
進行役となった女性キャスターが言う。
「僕は受験数学を教育する身ですが、差し出がましいことを言わせてもらうと、生徒の心のケアをしようと心理学も勉強しています。近いうちに僕なりの教育心理学について精神科医との共著として出版するつもりです。それはいいとして、涼くんのお父さんと僕は、イギリスで出会い、親交が深かった。イギリスを観光しているとき、同じ日本人がいたもんですから、声をかけてね。それで君のことを知った。君の事件の後腐れから、外交官であるお父さんが弟さんをかくまい、イタリア料理店で働かせて。そのピザを食べたら、とても美味しくてね。それで君のお父さんから引きこもりの息子である君の話を聞いたら、数学が抜群にできて海外留学も考えているときたから、是非、というわけなんですよ」
「それで会ってみたら何か力になれることはないか、と切り出されました。それだけでうんざりしたけれど、数学的直観は嘘をつきません。何故ならそれは僕の直感でもあるからです。その直感が先生を信じるように心を突き動かし、先生と数学の話を始めた。そして僕は先生にはっきり言いました」
「先生は何て言われたのでしょう?」
「涼くんにね、これ言われたのは衝撃だったんだけど、彼ね、こう言ったんです。あなたは数学の講師を辞めるべきだ、僕の講師になってほしい、と。簡潔な言葉で、彼は僕を認めてくれたんです」
それから二人は雑談を交わした。話が専門的な方向に行こうとすると、カンペで話題を変えるよう指示がなされた。
「ではそろそろお時間ですので、最後に一言なにかありますか、涼さん」
涼は無表情のままで、
「まあ……数学の好きなところは、法律や政治や文学の専門家がそれについて語るのと、数学や物理学などについて語るのとでは決定的に違うということです。前者は無学を晒して恥をかくことがあるが、後者は比較的そういったことはない、といったところでしょうか」
「レイ先生はどうでしょう」
「いえ特に。また今回の対談でどう生徒たちと接するべきか、いい勉強になりました。この場を用意してくださったスタッフの方々と涼くんに感謝したい」
「それでは、小柴涼さん、北里レイ先生、ありがとうございました」
対談終了後、涼の部屋ではカメラマンたちがカメラを下げた。
「もういいだろう」
涼がそう言うと、彼はカメラマンに扮していた迷彩服を着た男たちに連れ去られていった。彼の後には、母親と、番組スタッフたちの血まみれの死体が転がっていた……。




