第一章 『雄鳥の産む卵』2
メリグレッタは街壁の外に来て、とうとう自分が一人になってしまったことを理解した。
穏やかであった日々は戻らず、これから一人で生きていかねばならないと思うと心細かった。
随伴して歩く騎士はそんな自分を見て、面倒くさそうな顔をしている。
優しさを期待してはいなかったが、それでも、何か声をかけてくれても良いものなのに。
「泣くなら一人になってから泣きなさいなみっともない」
これは人の不幸を喜ぶ浅ましい人間だ。
往々にして平民は貧しさから貴族を嫉むものだと聞いてはいたが、これほどに人の悲しみに手酷いものだとは思っていなかった。
だが、メリグレッタは貴族であった。
「泣いてなどおりませんッ!誰がお前のような者の前で涙を見せるものですかッ!自惚れるのも大概にしなさいっ!」
「そう怒ることがもう泣いてるのを認めているようなものなんですが……あーあ、どうせなら舐めても小便の味しかしない子供じゃなくて、もっと深窓の令嬢めいた大人の女の人の護衛をしたかったですよ」
「恥知らずっ!ドゥモルトを侮辱するのですかっ!身の程をわきまえなさいっ!」
「ドゥモルトったってもう、ゴルトアン伯も亡くなった訳ですし貴族でもなんでもないですからね。身の程わきまえるのは自分でしょうに」
貴族による高貴な義務で執り行われる治世のおかげで生きながらえてきた平民の侮蔑がメリグレッタには痛かった。
「お前は私の平静を掻き乱します。早くに案内して一刻も早く私の前から立ち去りなさい!」
毅然としてそう告げると、その騎士は嫌らしい笑みで自分を笑う。
世の中の全ての不幸が一斉にやってきたかのような失望感にメリグレッタは襲われた。
臭く、やかましい街壁の外に広がる集落をフードの間から眺める。
下卑た輩が好き勝手に甲高い声を上げて何かを喋り合っている。
同じヨッドヴァフの言葉かと思うくらい、彼等は聞きづらい言葉を使い物を売り買いしているのだ。
その誰もが自分を見ないことは幸いだが、それでも、一人くらいは優しくして欲しかった。
犬の背に乗せられて辿り着いたのはそんな集落から外れた一軒の荒屋だった。
乾いた板で組まれた壁に、簡素な屋根が載っている。
「着きましたよぅ?ここがアルマリア婆さんの家です」
騎士がにこやかにそう告げる。
「これが?」
メリグレッタにはこれが家だとはとうてい信じられなかった。
「そうですよ」
「物置でもまだマシな建物ですよ?ここに本当にアルマリアが?」
「雨も風もしのげるし、ちゃんとドアだってついてるじゃないですか。立派な家ですよ」
メリグレッタは気が遠くなった。
幼き日に折檻されて閉じこめられた物置より、酷い。
「お邪魔しますよーっと」
騎士はそんなメリグレッタに構わず、戸を開けると薄暗い部屋の中に入っていく。
開け放たれた戸から中を恐る恐るうかがうと、粗末な衣服に身を包んだ老婆がベッドに横たわっていた。
「やあや、アルマリア婆さん、調子はどうですか」
「えと……どちらさまで?」
「街壁の中の店の店主といえばわかりますかね?先だってお話は騎士団から通してあるとは思いますが……」
メリグレッタがまだ幼い頃に世話になった乳母のアルマリアである。
物心につく前に暇を出されて居なくなり、メリグレッタは良く覚えてはいない。
だが、何か粗相をすればお仕置きと言って尻を叩くアルマリアにはいい思い出はない。
「困りましたねえ」
騎士から簡単な説明を受け、アルマリアは困った顔をする。
その意図がわからない程、メリグレッタも子供ではない。
親が殺され、天涯孤独となった貴族の娘の面倒を見てくれと言われても困る。
ましてや、仕事で数年、世話をしただけの娘である。
だが、騎士はどこか優しい笑みをつくるとアルマリアに微笑んだ。
「他人の尻を拭いて嫌がるのは幼い時、誰かに尻を拭いて貰って居ることを忘れているからですよ?」
メリグレッタは静かに余生を送るアルマリアの邪魔をしてはいけないと思った。
だが、それでも、その場から立ち去って何処に行ける訳でもない自分を思うと、惨めでならなかった。
アルマリアは静かにスタイアに頭を下げるとメリグレッタを見上げる。
「大きくなられましたね」
「世話になります」
どこか、困ったような、それでいて懐かしむようなアルマリアのぎこちない様子にメリグレッタは屈辱だとわかっていながらも、頭を下げるしかなかった。