第1章 『最も弱き者』 9
少女は気がつけば、屋敷の外に居た。
さきほどまで見たものがまるで、悪夢のように思われた。
だが、ざっくりと裂けた足が現実であったことを痛いが故に証明している。
ぼんやりとした意識を引きずり、それでもこの場を離れなければいけないという意思だけで歩きはじめた。
屋敷が騒がしくなり、物々しい鎧を着込んだ兵達が庭に現れ始める。
痛む足を引きずり、見つからないように逃げはじめた少女は、やがて、痛みに足をもつらせて転ぶ。
這ってでも進もうとして、途中で、諦める。
最早、帰るべき場所も、達すべき目標も無いのだ。
最後に見た、彼女の無惨な姿だけを思い浮かべる。
「くふっ……ウウッ……ウウッぅぅ……」
力の無い者はああやって、強者の玩具として弄ばれる現実に悔しくて泣いた。
握った拳が地面を叩き、赤く腫れる。
ぼたぼたと零れる涙が舗装された道を濡らす。
「悔しいか?」
何者かが少女に語りかける。姿は、無い。
「誰っ!?」
嗚咽を引きずりながら、噛みつく勢いで尋ねる少女に声は応える。
「虫の囁きだ。この通りを真っ直ぐ行って、突き当たりを左、ずっと行くとリバティベルという店がある。この時間ならば、請け負ってくれるだろう」
リバティベル。少女は聞き覚えのある名前に、僅かに怪訝な顔をした。
「何を言ってるの?」
「金貨五枚。それで、お前の代わりに殺してくれる。だが、ゆめゆめ忘れるな?殺すことを選択したのはお前だということをな?」
ぞくりと背筋が寒くなる。
ビリハムを殺せる。
そう思えるだけで、少女の心の中に暗い愉悦が広がってゆく。
自分たちを玩具にした男に制裁を加えなければならない。
少女は痛む足を地面に叩きつけ、歩き出した。
◆◇◆◇◆◇
夜も更け、人も捌けたリバティベルは静かに闇の中にその店を佇ませていた。
少女がウェスタンドアを開けると、チリン、と小さな音が鳴った。
店の中の照明は落とされ、暗い闇に包まれていた。
少女は臆することなく店の中に進んだ。
「こんな夜更けに、誰でしょうかね?」
聞き覚えのある声がどことなく冷たく聞こえた。
マッチを擦る音がして、燭台に火が灯った。
テーブルの上に置かれたろうそくが、背中を丸めて炎を見つめるスタイアを浮かび上がらせる。
「おや、まあ、可愛らしいお客さんだこと」
緊張した面持ちの少女をスタイアは柔らかく、どこか恐ろしい笑みで迎えた。
「……殺したい奴がいるの。ここで頼めば、殺してくれるって言ってた」
スタイアは苦笑する。
「仕事の依頼かい?」
ぼんやりとした光の中に、シャモンとラナの姿が浮かび上がる。
「……嬢ちゃん、銭は持ってるのかい?金を持ってるようにゃ、見えんのだが?」
「今は、無い。けど、今殺して欲しい」
シャモンはテーブルに足をかけ、背もたれに体を預けると鼻で笑った。
「……ダメだ。殺すということは殺されても文句は言えない。そんな仕事を引き受けるのに金を後払いにされれば、死に神に渡す手間賃も払えない。帰れ」
シャモンは冷たく言い切った。
「……そうだね、金貨五枚。それすら用意する覚悟の無い人の仕事は、受けられない」
スタイアは柔らかな笑みでそう告げた。
少女は言葉を継げない。
なぜなら、そのスタイアの瞳はどこまでも笑っていなかったからだ。
しぼんでゆく意思に、少女は肩を奮わせる。
うつむいたつま先に滴る血を見つめ、意を決して前に進み出る。
「私を買って!」
少女は唾を飲み込み、続けた。
「……体を売ってもいい、奴隷として死ぬまで使ってもいい。私を買って、そのお金にして」
シャモンはひとしきり少女を眺めて鼻を鳴らす。
「金貨四枚」
少女は何を言われたのか一瞬、わからなかった。
「自分にどれだけの価値をつけたのかわからねえが、てめえの価値は金貨四枚だ。それ以上は出せたモンじゃねえ」
「そんな!」
「甘えンな。金貨四枚でも充分に高いくらいだ。今のてめえにそれだけ稼げるだけの道が他にあるってか?ああ?」
少女は俯く。
奴隷で売られる人間の値段は、確かにそのくらいの値段なのだ。
理解している。だけど、少女はどうにもならなくて、叫んだ。
「あんた達にはわからないけど、あの子と私は仲間だった!親に捨てられて、気がつけば修道院でパンも食べられずに働かされたの!逃げ出した時には、あの子は病気で拾われた仲間達にも厄介者にされてた!私しか、あの子を助けてあげることができなかった。けどね、結局、あの子は多分……助けられないんだっ!」
語る少女の瞳に、大粒の涙が浮かぶ。
「……神様を信じている訳じゃあないけど、あの子は悪いことは何もしてない!化け物にされる理由なんて、どこにも、無いんだよぉ!お金が足りないなら私を殺してくれても構わない!だから、あいつを殺して!ビリハムを殺して!お願いだからっ!あの子を助けて!もうやだ!こんなのやだ!どうして!どうしていっつもいっつも私たちが酷い目に遭うの!弱いから?子供だから?そんなのってあんまりだよ!」
泣きじゃくる少女をスタイアも、シャモンも冷たい瞳で見つめていた。
「殺してやるぅ!全部、全部殺してやる!ビリハムも!あんたもあんたもだ!そうやって私たちが辛い目に遭ってるのを見て楽しんでるんでしょう!その顔をぐちゃぐちゃにして殺してやる!絶対、ぜったい!ぜったいに殺してやるんだから!」
少女は叫び、その場に膝を折る。
「うあぁぁあああああああっ…ああっああっ……ああぁぁ……」
少女の慟哭が、静まりかえった店の中に響く。
ろうそくの炎が揺れ、その中で皆の顔が一様に曇った。
そんな中、スタイアが苦笑して大きく背伸びをした。
「……わかった。引き受けよう」
泣き叫ぶ少女にそう告げる。
シャモンは冷たい眼差しをスタイアに向ける。
「……スタさん。そいつぁ、ちょっと甘くねえかい?」
「甘いですかねぇ?」
「命のやり取りってのは、情じゃねえ。仕事だ。それに、辛ぇだの酷ぇだのでいやあ、そんなモンは誰だって同じだ。俺もお前さんも奴隷やらされてた時に通ってきたことじゃねえか。びぃびぃ泣いたくらいで命取られるとしたら、取る方も取られる方もたまったモンじゃねえ」
スタイアは笑う。
「知ってるよ。知ってるとも。だから、僕が、金貨四枚で彼女を買おう……ラナさん」
ラナは溜息をつき、金貨を四枚テーブルに並べる。
「……身請けして金貨四枚。だけど、一枚足りない」
ラナが初めて口を開いた。
スタイアは懐から金貨を一枚手に取る。
「じゃあ、これで丁度でしょうや?」
スタイアは指で弾き、泣きじゃくる少女の前に放った。
「それで、五枚だ」
少女は泣きながら、目の前に落ちた金貨を見つめ、スタイアを見上げた。
「おいおい、そいつぁ……」
「盗ってきたモンだって金は金、これでいいでしょう?シャモさん」
シャモンは鼻を鳴らす。
スタイアはあらためて尋ねた。
「……さて、お嬢さん。殺しの仕事の依頼かな?」
少女は金貨を拾い上げ、テーブルの上におずおずと置く。
チン、と澄んだ音を立てて金貨がテーブルに乗った。
少女はぐずる鼻をぬぐい、嗚咽が混じる声で絞り出すように応えた。
「……はぃ」
ラナがそれを見届けてから金貨を盆に載せた。
「……確かに、金貨五枚、お預かりしました。お客様、どなたの死をご所望ですか?」
ラナは恭しく少女に頭を下げる。
少女は、涙を振り払い、力強く告げた。
「ビリハム……バファー!」
ラナはハンドベルを鳴らす。
幾度も、幾度も、何かを告げるように鳴らす。
「承りました」
ラナは少女に頭を垂れると、盆をテーブルの上に載せる。
「……引き受けて下さる方は一枚、お取り下さい」
スタイアが一枚取り、シャモンが諦めたように一枚を弾き袖に滑らせる。
闇の中から、ぬっと現れた巨体――ユーロがいかつい手で一枚引き、ラナが一枚。
そして、少女の首元からひらりと人影が飛び、金貨の上に降り立った。
「人が悪いな。スタイア」
「人殺しで金取るような人が善人な訳ないでしょうに。あなたには言われたくないですよ。パーヴァ」
「私の方が人が悪い、と言うのか?残念、私は人ではないからな?」
小さな人――パーヴァリア・キルは不敵に笑ってみせて少女を見つめた。
金貨を小さな足で踏みつけ、光の中に消すと羽をはためかせ、闇に消える。
スタイアは空になった盆を手にし、顔を隠すと穏やかな声で言った。
「さて、じゃあ、いくとしますか」
ラナが差し出した褐色の外套を受け取り、羽織ったスタイアの顔は少女が見たことがないくらいに厳しかった。
「まんず、まず、斬りに行こうか」