最終章 『誰が為に、鐘は鳴る』 15
聖剣グロウクラッセは光を失いはしない。
アーリッシュ・カーマインは苦痛に渋さを訴える身体を引き起こす。
この程度の苦痛は、既に覚えてきた。
だが、死の恐怖は生ある限り、拭えるものではない。
目の前にある心優しき魔王は果たしてどれほどの苦痛を耐えてきたのか。
それは栄光である。
称賛である。
そして、希望である。
自らが、その全てを手にしたとき、その激しい光が深き影を持つことを覚えた。
「……アーリッシュ……卿」
傷つき、倒れたフィルローラが名を呼ぶ。
戦わねば、ならぬ。
それがどれほどに強大であろうと、打ち倒さねばならない。
命を賭す、等は生温い。
自らの持てる全てを持って打ち倒さねばならない。
言い訳は、要らない。能わずも、無い。
ヨッドヴァフを護らなければ、ならない。
生きとし生ける者を救わねば、ならない。
それは困難な事だ。
人の身で有り余ること。
叶わねば、多くの哀しみを背負わなければならない。
小さくは、あれない。
大きくも、なれない。
それが人の身だ。
だが、眼前の魔王は誰に語るまでもなく、それを成し遂げてきた。
それが、王というものだ。
駆けだしたアーリッシュと、魔王は剣を打ち合わせる。
雷光と聖剣が交わり、激しい光を剣戟に閃かせた。
地を轟かせ、空を震わせる。
幾重にも閃光を重ね、迸る熱にアーリッシュは何度も地を転がった。
それでも起き上がり、立ち向かう。
ただ、戦わねば多くの無辜の血が流れると思い。
グロウクラッセはアーリッシュに告げる。
王の悲哀を。
栄光と共にある剣は激しく輝き、英雄の腕で確かな重さを持つ。
戦え、と。
その先にある全ての不条理と戦え、栄光の道を築けと。
王の剣はグロウクラッセを通じ、伝えてくる。
それを知り、アーリッシュは涙した。
それが、どれほどの悲壮な道かを知って、なお。
アーリッシュは、怯む。
魔王の雷光がアーリッシュを激しく打ち、アーリッシュは広間を転がる。
魔王の悲哀に満ちた咆哮が、切なげに、鮮烈に響き渡る。
栄光の激しい光は多くの影を差し込ませる。
栄光とは、そういうものだ。
それらの全てと戦い続けねば、ならないのだ。
力なく項垂れるアーリッシュを支える手があった。
「意思を……強くッ!」
フィルローラだ。
その瞳は強い意思をもって魔王を見つめていた。
「僕は……できるのだろうか……全てを背負うことが」
栄光の差す影が、アーリッシュの心をちりちりと焼く。
フィルローラはアーリッシュを引き上げその頬を張った。
少女であった司祭は、確かな強さをもって彼を支える。
「私はかつてあなたに告げましたッ!真意に悖れば危うい。ですが、真に他者を思えるのであれば……いずれの選択も、間違いはありませんッ!」
いつの話であるかは最早、フィルローラは覚えていない。
その頃と、告げた意味もまた、違う。
だが、しかし。
彼女が信じた神が残した言葉は彼女の中に生まれた信仰に確かな、言葉を与えていた。
アーリッシュは立ち上がる。
聖剣が激しく輝く。
鐘が鳴り響く。
どこか、遠く、そして、いつまでも側に。
魔王が空を見上げた。
破れたステンドグラスから差し込む光が、とても眩しい。
アーリッシュは苦笑した。
その音が、どこか悲しくて。
どこか、優しくて。
どこまでも、疲れていて。
「ああ……」
吐き出した息に苦笑が載る。
曲げてみた背中が、どうにも楽だった。
だが、背負うくらいには丁度いい。
「……しんどい、さな」
アーリッシュは乱暴に剣を引き払って地面を蹴る。
差し込む黄金の日差しの中、魔王は再び涙を流していた。
アーリッシュは躊躇わない。
それが、友と友である為に、自らが選んだ意思であるからだ。
聖剣グロウクラッセが激しく光、全てを包み込んだ。
◆◇◆◇◆◇
鐘が、鳴る。
ヨッドヴァフの空に鐘の音が鳴り響く。
明日を諦め、絶望した人々は空を見上げ、恐怖した。
褐色の幽霊を知らせるその鐘は、静かに、人々の心を怖れさせていた。
だが、やがて理解する。
その鐘の音が深く哀しみ、それでも明日を想く優しく響く事を。
その鐘の咆哮を受けて、魔物達も空を見上げる。
黄金色に輝く空の上、金色の蜘蛛は静かに赤い稲光を涙として落とした。
鳴り響く鐘の音が静かに朝焼けに煙る地平を照らし、魔物達は空を仰ぎ見た。
大地が震え、嘶き、そうして理解する。
人の腕を食い千切ろうとしていたディッグがその牙を離す。
そして、ふるふると頭を振るうと彼等から背を向けた。
続くように、魔物達が背を向け始める。
人は夢を見た朝のように呆然と、夜の残滓に向く魔物達を見送る。
静かに、厳かに鐘の音が空に響き渡る。
ラナは最も前で宵闇と朝焼けの間に立ち、彼等を見送った。
名残惜しそうに振り返る彼等に手を振ることなく、人の側に寄り添い、静かに微笑んでいた。
鐘が、鳴る。
ダッツ・ストレイルは退いてゆく魔物を眺め、喝采を上げた。
何度も、何度も。
鐘の音に負けず、響き渡る喝采は徐々に人々に浸透してゆく。
誰かが続いた。
やがて、徐々に広がって行く喝采がアルバレア平原を包む。
鐘が、鳴る。
白鯨は空を渡り、人々の喝采を耳にした。
優しく、悲しい鐘の音を耳にした。
寂しげに立ち去る魔物達の背中に、人の歓喜の声が響き、投げかけられる。
これからも、理解をし合うことは、ないのだろう。
それが、悲しくも、嬉しくもある。
人々を救い、彼が見守った紫紺の姫は炎の馬を従えて戦車を走らせる。
まるで幻想のように青い炎を引く戦車は地平の彼方へと彼女を連れ去る。
飛翔する戦車から、ラナはヨッドヴァフの町並みを見下ろした。
美しい、街だった。
色彩豊かな屋根が彩るモザイクが高い尖塔を頂いた壁に囲まれていた。
その周りには褐色の、寄り添い生きる人々の色がふれ合いながら、それでも集おうとしていた。
その壁は形を、広さを変えても未来永劫、在り続けるのだろう。
鐘が、鳴る。
ダグザ・ウィンブルグはその街の中、静かに震え、ようやく、そう、ようやく嵐が立ち去ったことを鐘の音とともに知る。
嵐の前に自らの偽りの衣を剥がされ、怯える子供のように蹲っていた自分はそれでも生きていけることに感謝した。
鐘が、鳴る。
シルヴィア・ラパットは灰となって消えてゆく魔物に、また、一つの戦場を生き延びたことを知る。
自分が何を成したのか、何を成すべきなのか、明けた空に問うても答えは、無い。
鐘が、鳴る。
シャモンは王城の前で静かに、杯を傾けた。
寄り添う弱き者達と同じく地に腰を降ろし、生の放つ臭気を分かち合う。
新しい、風が吹く。
だが、どんな風が吹こうとも、寄り添えば人はまた、生きてゆける。
鐘が、鳴る。
タマはリバティベルの店の掃除を始めていた。
全ての痛みを知ることは叶わない。
だが、少女は覚えている。
自らが生きる明日を、誰かが作ってくれたことを。
鐘が、鳴る。
フィルローラ・ティンジェルは英雄の背中を見つめていた。
差し込む光は栄光の光か。
鳴り響く鐘は、祝福の音か。
だが、英雄はどこまでも悲壮な背中で空を見上げていた。
鐘が、鳴る。
墓堀のユーロは墓地で静かに宵闇を眺めていた。
多くの死を見つめ、そして、また多くの死を葬らねばならない。
死を忘れてきた彼には、どこか、羨ましくもある。
だが、彼には、最も大きな最後の仕事が残っている。
鐘が、鳴る。
アーリッシュ・カーマインは激しい光に身を焼かれていた。
友との、約束は果たした。
だが、その約束の重みを知るや、最後の剣が振るえなかった。
その重みを分かつと、答えた。
背負うと、答えた。
彼の友は、決して彼を責めはしないだろう。
だのに、果たせずにいる自らの弱さにアーリッシュは悲嘆する。
そして、知る。
彼が、人を殺すのだと。
鐘が、鳴る。
アルテッツァは静かに、鐘の音に耳を傾けていた。
優しく、そして悲しく響くその鐘の音に僅かに涙を零した。
だが、もう、二度と泣きはすまいと誓う。
今日、彼女は栄光あるヨッドヴァフの家系に名を連ねるのだから。
鐘が、鳴る。
全ての幕を引くために、鐘が鳴る。
絶望が終わり、栄光の夜明けがグロウリィドーンを包み込み、やがて人々は陽の光の下、安息を覚える。
だが、まだ、夜は明けてはいない。
我々は未だ宵と朝が寄り添う暁に立つ。忘れるな。夜は死の訪れる時ではなく安寧の眠りを授けるものと。
鐘が、鳴らされる。
――褐色の幽霊が、来る。