最終章 『誰が為に、鐘は鳴る』 12
グロウリィドーンの街中は悲鳴に包まれていた。
王城からあふれ出した障気が魔物を産み、魔物は逃げまどう人々をその牙にかけていた。
戦う力の無い市井の人間は魔物を前に、為す術も無く食い破られてゆく。
だが、戦う術を知っていたとしても戦えない者もいた。
市街の警戒に当たっていたタグザは目の前で広げられる殺戮を見て竦んでしまった。
フレジア教会の聖堂での一件以来、タグザは戦うことができなくなってしまっていた。
人の死を見たことが無い訳ではない。
大きな傷を負ったことがなかった訳ではない。
だが、自ら死ぬ感覚はあの場所ではじめて知った。
抗えない質の違う暴力を前に、自分は無力で、ただ一方的に殺されるだけだった。
槍を捨てようと思った。
ダッツが自分に言った意味がようやく理解できたのだ。
女が戦場に立つものではない。
圧倒的な暴力を前に、女の腕力というのはあまりにも頼りない。
だが、しかし。
ウィンブルグ家に自らが戻る場所は無かった。
いや、恥を承知で頼み込めば両親はきっと戻ることを許すだろう。
だが、軽蔑されてまで家に戻れる程、タグザは強くはなかった。
結果、自らでも理解できる程、不様になったまま聖堂騎士団に居続ける。
今も城壁の向こうで騎士団が槍を並べている。
ならば戦う術を持つ聖堂騎士団はそこに赴くべきだった。
そして、シルヴィア達はそうすることを選んだ。
だが、タグザにはそれができなかった。
だから、同じように最も厳しい戦場から逃げた聖堂騎士長に従うように街に出た。
だが、唐突に現れたその魔物を前に、タグザは再び、あの夜の恐怖を思い出し動けずにいた。
「痛ぃ……あふ……あぁ、ああ……」
目の前で魔物に足を食いちぎられ、泣いている子供を前に、進み出ることもできない。
それどころか、魔物が次に自分を狙わないことを祈っている自分に気がつき、気が狂いそうになる。
自分が嫌で死にたくなる。
だが、それでも生きることを選んでいる自分を見て自己嫌悪の渦に落ちる。
「タグザっ!」
子供を喰らい終わった魔物が目前に迫っていた。
祈りは届かなかった。
他者を身代わりにしてでも自分を助けて欲しいなどという身勝手な願いを神が叶えるはずはないことを知っていた。
だが、それでも彼女の親友は彼女の前に立ち、彼女を救った。
魔物に流麗な一撃を突き込み、続く連撃で仕留める。
振り返った親友はどこか冷めた、だが、どこまでも見透かした瞳で自分を見つめていた。
「逃げなさい」
そう言われたことが悔しかった。
自分の弱さを看破し、それでも救おうとする親友に届かないことを知った。
「だが私はっ!」
「弱いままでも人は生きて、いけるのでしょうから」
シルヴィアはそう告げ、もう、タグザを見ていなかった。
彼女が目指しているものがタグザにはもう理解できなかった。
そこに居るのは戦士たろうとする自分の友であった少女だった。
「聖堂騎士は指揮下に入りなさいっ!これより王城を目指しますっ!」
指揮を執るのも自分と同じ女性であるフィルローラである。
敬愛する司祭の中にも確かにこのどうしょうもない絶望に抗う力強さがあった。
散り散りになった市街警備に出た聖堂騎士達を纏めあげ、魔物達と戦うために先陣をきっていた。
タグザは何故、そうあれるのかを理解できずに苦しんでいた。
「聖域十字陣を展開しますっ!聖堂騎士の乙女達よ、隊形を組んで下さいっ!」
騎士団にも明かされない聖堂騎士の秘術である。
巡回司祭達が僻地に赴く際、魔物達を迎撃する為に考案された神術。
それが聖域十字陣だ。
フィルローラを中心に四方に並んだ聖堂騎士の少女達が槍の先を円状に構える。
「第38節から第42節までを奏し奉る……マーナランズ・グラディグラウディ・フェメノンフェメノンフェメンン……」
フィルローラの唱える祝詞に合わせ、グラシアルクルッススの中心にしつらえられた環石が青白い光を零す。
フィルローラの足下に神術陣が印象され白い燐光を放つ。
それが十字を描き、自分を中心に十字隊形を組む少女達の足下にまで伸びる。
フィルローラはどこか納得した。
これは、魔物の業だ。
コルカタスの魔物の刺青によく似た印象ではある。
その由来までは、知らない。
疑問も持たず、ただ、与えられるままに使ってきた。
「……和して同せよ!」
だが、今はそれでもその業にすがらねばならない。
「「アーラメンス」」
少女達の鈴のような声が重なり、響く。
フィルローラがグラシアルクルッススをグロウリィロードの石畳に突き刺すと激しい光が印象を輝かせる。
印象から光が立ち上り、壁となる。
魔物達がその光を前に怯え、それでも踏み込み顎を開いた魔物を焼き払う。
聖域十字陣とは巡礼司祭が魔物の群れに襲われた際に自らの周囲に環石を用い結界を張る神術だ。
だが、聖堂騎士団はこれを対魔物用の攻防一体の秘技として用いる。
魔物達はその光を中心に集まり、取り囲む。
うねる波のように黒い障気が集まり、聖堂騎士の少女達を取り囲んだ。
その量は彼女たちが見たどの魔物の群れよりも多く、彼女たちが懸想する英雄譚のいずれよりも恐ろしかった。
だが、唯一、シルヴィアはこれより厳しい戦場に立った強さを持っていた。
「……死する時は神が決める。震えるな、引きつけろ!」
槍を取り落としそうになる少女達を叱責し、自らが先頭に立つことで彼女達の心の拠り所となる。
追いついたとは、思わない。
だが、今、自分が果たせることはすべきだと自責していた。
「司祭、今です」
「発せよっ!ラグラガッサ・オン・ヘー」
少女達の声が重なる。
「「ヴァフ・センキチュア」」
光が爆ぜた。
少女達の携えた槍を通じて螺旋状に放出された光が魔物達を貫く。
光に貫かれた魔物達はゆらゆらと揺らめき、四肢の端から灰となってゆく。
哀しげな咆哮を黄金色の空に響かせ、吹きすさぶ風が灰を空に返した。
激しく光る聖域十字陣の光がイーストグロウリィロードを駆け抜け、押し寄せる魔物を押し返す。
無辜なる人々に無情なる暴力を振るう魔物達が焼き払われてゆく。
だが、それ以上に王城から沸き上がる魔物が彼女らが敷いた光の絨毯の上を走った。
灰と化し、塵となる魔物の影に身を隠し、また自らが塵となってもそれに続く魔物が走る。
数に頼んだ魔物の侵攻に聖域十字陣が押されはじめる。
まるで浸食するように光の帯を突き進む魔物達に少女達が怯む。
「怯んではなりませんっ!強く、強くありなさいっ!何の為に槍を持ったのですか!何のために教義に殉じたのですか!世界は清らかではない。だからこそ、汚濁にまみれた現実があるのですっ!ならば、自らが汚れなさい!そして清らかにしてみせなさい!」
フィルローラは力強く、聖銀のナイフで自らの腕を切り裂いた。
赤い血がグラシアルクルッススに滴り、十字架は激しく明滅する。
聖堂騎士の少女達を通じて発される光が勢いを増し、魔物達を僅かに押し戻す。
だが、しかし、それでも溢れ出る魔物は光の帯を踏み越え、彼女たちに迫った。
少女の一人が隊形を崩した。
「メシェ!隊形を崩すなッ!」
シルヴィアの叱責はその少女に届いてはいなかった。
先頭で槍を構えていた少女が隊列を離れる。
その先には光に体を焼かれながらも進むことを辞めない魔物の波があった。
その凶暴な牙が、太く禍々しい腕が、捻れ曲がった角が。
先頭に真っ先に立つ自分を貫く想像に恐怖したのだ。
恐慌に陥った少女は訳もわからずに魔物の群れに槍を構えて突進していた。
光が弱まり、勢いを僅かに取り戻した魔物が少女の槍で再び歩みを留める。
だが、その背後から振り下ろされた巨大な腕が貫かれた魔物ごと、少女を潰した。
「……ひぐ…」
悲鳴すら残せず、少女はグロウリィロードの石畳にその身を叩き潰されて埋まる。
その光景が他の少女達に恐怖を伝播するのに時間は要らなかった。
「臆するな!私に従えッ!」
それがわからないシルヴィアではない。
自らが先頭に立つと、再び槍を構え陣を立て直す。
最も厳しい戦場を知るシルヴィアの一喝は少女達をその場に縛り付けた。
戦場で統制を取るのに最も必要なのは使命感ではない。
「死にたくなければその場を動くな」
恐怖だ。
死を恐れるから、指揮官の下に集う。
「死んでも、その場を動くな」
それが、シルヴィアの下した判断だった。
いずれ、このままでは魔物の数に押し切られてしまうだろう。
そうなればいくら聖域十字陣とはいえ防ぎ切れるものではない。
「……シルヴィア騎士長、最善の策は」
「そんなものがあれば、とっくに使っています。持てる全てを出して劣るのであれば、食い散らかされるだけです」
シルヴィアが語る現実をフィルローラは静かに受け取った。
迫る魔物の群れがもはや、そこまで来ていた。
「何も成せずに、死ぬのですか」
「何かを成せて死ぬ人がどれほどに」
フィルローラは至らない自分を悔やむ。
自分が目を背けていた現実が、今、ここで精算を求めているのだ。
惰性に流れた訳ではない。
だが、甘美な教義に思考を停止し、考えることを放棄した弱さはあったのだ。
だから、この試される時に抗えずに、居た。
「……スタイア、さん」
乞うように吐き出した名前はただ一人、全ての現実に向き合って戦ってきた者の名だった。
だが、しかし。
「今、助けるッ!」
その光の中を走る、勇者の姿は彼の友人だった。
彼女が幽霊に渡した聖剣グロウクラッセを携え、魔物の群れを斬り進み、走る。
犬の額が割れ、血が滴っている。
だが、彼の犬は彼の勇気に答え、持てる獰猛さの全てを吐息に吐き出し白く煙らせる。
疾走する犬の背で振るわれたグロウクラッセが銀の軌跡を描いた。
「アーリッシュ……卿?」
「司祭!聖堂騎士団!私に続け!敵は王城にあるッ!」
アーリッシュは声高らかに叫ぶと、剣の切っ先を王城に向けた。
首都グロウリィドーンの中心、荘厳なグロウリィパレスは禍々しいまでに黒い霧を発していた。
アーリッシュの手がフィルローラの手を掴む。
フィルローラは迷うことなくアーリッシュの犬にグラシアルクラッススを携え跨った。
聖域十字陣の光が途絶え、魔物達は勢いを取り戻す。
「聖剣グロウクラッセ、栄光への道を……我が友の命運を切り開けッ!」
アーリッシュの腕の中、グロウクラッセが青い燐光を巻き上げる。
激しく、強く、光が天上を貫いた。
振り下ろされたグロウクラッセがその光をグロウリィロードに振り下ろす。
光は魔物を挽き潰し、かつて喧噪が支配したグロウリィロードの石畳を巻き上げる。
大地が揺れ、空が震える強大な力を振るい、王城への道を開く。
「行く。スタイアがそれを望んだ」
「……はい!」
駆けだしたアーリッシュの犬を追って、聖堂騎士達が続く。
だが、それでも沸き上がる魔物は後から後からへと彼等の行く手を阻む。
上空を飛翔して接近した悪魔がアーリッシュの犬に襲いかかる。
「道は多くの血をもって築かれる。我らは常に、虐げられてきた」
悪魔の群れの前に、幽鬼のように現れた集団が居た。
鋤鍬を手に、悪魔の前に燦然と立ち、振るう。
それらは圧倒的な力を持つ悪魔の前に、とても、弱かった。
悪魔の腕が振るわれれば、炎が吐き出されれば、たちどころに死んでしまう。
だが、それでも、その多くの数でもって、そして、知恵でもって悪魔に鋤鍬を叩きつけ押しとどめ、道を造る。
今までどこに居たのかも、わからなかった。
酷い臭気を放ち、これが人なのかと思う。
「だが、それでも我々は生きる為にその持てる全てで挑まねばならない。それが、人生って奴だ」
襤褸を纏う人だかりの中、その男はゆったりと歩き、アーリッシュに告げる。
「鉄鎖の誓いにより兄弟の苦行の助けとし、英雄の助力に参った」
アーリッシュは胸が震えた。
「君はッ!」
「弱き人の意思を纏め、繋げ。英雄よ。二代目江湖宗主シャモンはこれより兄弟の友の為に、我らが鉄鎖の誓いを果たす――行くぞ!我らが生きる道は我らの前に築く。与えられる物をただ、与えられるだけの玩畜とは違い、人のみがその誇りを持つッ!」
ヨッドヴァフ王城へと駆け上がった彼等の行く手を多くの魔物が阻んだ。
だが、シャモン率いる江湖の民が文字通り、血路を開いた。
何も持たず、何も得られなかった彼等が生を繋ぐ為に得た技はアーリッシュや聖堂騎士団の誰しもが見たことの無い技であった。
「ただ、あるのは手足のみ。なれど、多くの獣がその手足と牙のみで争い生き延びる。人にできぬ訳があろうかよ」
獰猛に笑うシャモンに続く褐色の襤褸を纏った鬼達が走る。
「浮き世に沈み、世情は辛く、陽の影にしかおられず、ただ、それでも生きながらえるため獣に身をやつし、魔を習い、己が武にて成さんとする群雄。それが、江湖也」
魔物の豪腕を軽くいなし、閃光を伴い渦を描く拳が魔物を打ち払う。
幾人もの鬼が英雄の前を走り、魔を払う。
英雄は鬼を知らない。ただ、英雄と鬼を繋ぐ、人を知るのみだ。
だからこそ、先を征く。
彼等が背負い、成そうとすべきことを成さねばならぬ。
彼等の痛みを、分かたねばなるまい。
「英雄が陽向の道を歩むなら、我らは草葉の陰に死す。万象拾宇、陰陽の理にあるなれば、この艱難に際して陰もまた強く差す」
シャモンは強大な悪魔の放つ雷光を幾重にも残像を残してかいくぐると、その悪魔の胸を抉る。
背後から続く聖堂騎士団が槍でもって悪魔の膝を貫き、その傍らを虞風のように駆け抜けた物貰い達が神速の拳を悪魔に打ち込む。
その後ろを駆けるアーリッシュはグロウクラッセを高々と掲げ、王城の門を潜る。
シャモンらはそこでアーリッシュを見送り、押し戻ろうとする魔物達と対峙した。
「征けッ!英雄ッ!江湖の民は決して無力ではないッ!己が明日を己で切り開く力を持つッ!」
「友の、友よッ!感謝するッ!我が栄光の礎は名も無き者の血により開かれたものと深く覚えたッ!」
視線すら、交錯させはしない。
ただ一人の男をもって繋がる彼等は決して交錯することのない道をほんの僅かな、間に理解していた。
同じ、強さを持つからこそ、共感する。
フィルローラはそれが、途方もない現実を見た彼等の生き方なのだと理解した。
それらを考えるのは、後で良い。
今は、成すべきことを成し、奇跡を起こさねばならない。
その為に、身分の貴賤も無く、生まれの違いも無く、境遇の優劣も無く。
ただ、人は生き延びるために今日を戦わねば、ならない。
なだれ込む聖堂騎士達の背後、集まった魔物達を相手にシャモンは獰猛に笑う。
「群雄疾駆天破狂乱。さて、轟こうかね。江湖の群雄を束ねる英雄シャモン。その生き様に恥じぬように」