最終章 『誰が為に、鐘は鳴る』 9
アルテッツァは王の玉座に一人座り、その様を最後まで見届ける義務があった。
レオ・フォン・フィリッシュは王に剣を捧げた最後の忠節として、その様を最後まで見届ける義務を自らに課した。
グロウリィパレスの謁見の間に広がった青白い燐光はゆるやかに螺旋を描き、複雑な紋様を城に走らせていく。
それは見る者が見ればすぐさに魔術印象であることが知れた。
アルテッツァもレオも当然、それが魔術印象であることを知っていた。
いや、この二人はもっと深く、今、目の前で起こっている変異について理解していた。
「よもや、城がニザリオンへの扉を封ずる魔術装置であったとはな」
アルテッツァはどこか哀しげに呟いた。
レオは王の苦悩に対する言葉を持たない。
自らの権威を象徴する城が大昔に残されたこの国の負債であると知った王の落胆はそれでも些末なものだった。
アルテッツァは脈動する自らの手の甲を眺め、嘆息する。
青く浮かび上がった魔術印象が明滅している。
その印象は謁見の間に現れた印象と同じものであった。
「……初代ヨッドヴァフは魔物はびこるこの地を聖剣グロウクラッセと退魔の鐘を携え平定した。だが、それは後の世の人が作った寓話であることくらい、我も理解している」
レオは幼き王が自らにその先を言えと言外に述べたのを理解した。
「当時のヨッドヴァフの手勢ではこれだけの魔物の大群を抑えることはできませんでした。ヨッドヴァフは単身、ニンブルドアの扉を開きヘルゲイズの谷を越え、魔物という生き物を理解した上でアブルハイマンの山頂でニザと呼ばれる魔物と密約を交わしました」
「魔物は人より強く、賢かった。そして、長くを生きる彼等は人が辿り着けぬ思考の泉の縁に寄り添い、最も賢き選択をした」
それは、王族のみが知るこの国の真実だった。
「人より多く生きる魔物であろうともやがて、人に駆逐される日が来ると知っていた。だが、その時点において魔物は人に仇なせば、人は滅ぶしかなかった。だが、魔物は知っていた。たとえ、その場でヨッドヴァフの人間を駆逐したところで、長い年月を経れば他の人間が彼等の前に現れることを。人の脅威を取り除くには永遠ともいえる時間をかけて広大な世界から人という種を取り除く他に無いということを魔物は既に、理解していた。だが、それは愚かな選択である。人という生き物は決して滅びず、種としてより強くなり、再び彼等の前に立つからだ」
アルテッツァは王族とその側近にしか伝えられない事実を語った。
「考えてもみろ。明日のことを考えるのに精一杯な我々が千年先、一万年先という途方もない未来を想像できるか?だが、彼等にとってはそれは当たり前のことなのだ。だからこそ、彼等は我々に恐怖するのだよ。明日のことに精一杯になる我々に。その我々が千年後、一万年後にどのようになるのか理解しているが故に」
レオは尋ねる。
「ならば、将来、我々人間は魔物を駆逐するということですか?」
「愚かな。魔物が決して人を絶滅させられぬように、人もまた魔物の全てを滅することなどできぬ。我々は決して彼等には屈さぬ。だが、彼等もまた我々には決して屈さぬ。だからこそ、互いを認め合う隣人になるべきだと最も賢い選択を行ったのだ」
アルテッツァはそこまで語ると、小さく溜息をついた。
「……人と魔物は互いに密約を交わした。人は安寧を得るために、そして、魔物は将来良き人の隣人となるが為に」
アルテッツァは謁見の間に広がる魔術印象の輝きを哀しげに見つめて零した。
「だが、時を経て、人は安寧の為に魔物を利用した。魔物は人が隣人たるまで猶予をくれたにもかかわらず。人は至らずとも安寧を手に入れ、さらなる発展の為に魔物に鉄を向け、そして利用した。賢く、強く、人より優れた魔物はそれを喜び受け入れた。人という種の進化は自らが隣人たる者達の幸福であると。しかし、人は奴隷解放という痛みを魔物に押しつける形で冒険者制度を作り、ヨッドヴァフの混乱を取り除いた」
「我々は、我々が負うべき痛みの全てを隣人に押しつけてきたのですか」
「我々が怠惰であったが故に、今、その精算を求められている。一つの時代の終わりと引き替えにな」
アルテッツァはそう呟き、印象が放つ輝きの中に生まれる闇を見つめた。
闇はやがて人の形を作り、アルテッツァの最愛の人を形作る。
ヨッドヴァフ・ザ・サード。
「初代ヨッドヴァフはこの地を治めるためにグルグジアフヨッドの青い血の祝福を受け、ニザリオンへと至った」
そこでのたうつ闇は紅の瞳に血の涙を流し、苦しげに呻く。
青き血が描く印象が王城に広がり、脈打つ体にヨッドヴァフ・ザ・サードは声にならぬ悲鳴を上げていた。
「フィダーイーの意思であるニザリオンへ至る。赤き血の民がニザリオンへ至るには青き血を受け入れニザリオンの魔物となることだ」
悲鳴は咆哮となり、大気を震わせアルテッツァの柔らかい巻き毛を揺らした。
「聖剣グロウクラッセはやがて来るよき隣人が自らを諫めるための意思として贈られたもの……ニザリオンを討つには聖剣グロウクラッセを用いるしか無い」
伸ばされた腕がとても弱々しく、アルテッツァは頭を振った。
「ニザリオンは隣人としての古き契約を破棄し、父上は承諾した。人は力を示さねばならない。この地が真に人が治めるべき地であるか。そして、魔物――いや、フィッダのよき隣人イーであることを。彼等との約束を果たす――セトメントだ」
人として最後の涙を流す。
「父上……どうぞ、楽になって下さいませ」
人として最後の言葉を残す。
「父上、私は一度も父上に泣いてもらったことが、ありません。父上に頭を撫でられたことがありません。ですが、お恨み申し上げませぬ。父上の手は万人にさしのべるためにあり、父上の涙は万人の悲しみのために流すためにあり……父上の愛は全ての人に捧げられたものと、私は知っております。だから……私の愛を全て父上の愛した万民に捧げます。だから……成すべきことを……成して……くださいまし」
闇は哀しげに泣き、咆哮を震わせて頭を振った。
それは王であった者が最後に見せた人であったのかもしれない。
だが、闇は一際大きく脈打つとみるみると謁見の間に広がった。
深紅の炎が闇を焼き、その闇の中から熱さをもった腕が伸ばされた。
紅の双眸が炎を引き、煌々と輝く。
天に伸ばされた四本の腕はそれぞれに剣を持つ。
雷光を纏った下肢は硬質化した皮膚が鎧のように広がり、印象された紋様が青く輝く。
翻った雷光が蒼炎となって床を走り、壁を登る。
炎に焼かれちろちろと燃え上がるタペストリーに描かれたヨッドヴァフの紋章がどこか哀しげだった。
ぎりぎりと撓む体から赤い血が迸り、追って伸びた金色の爪が胸を包み込む。
胸の中心で脈動する三つの心臓は群青の血をその巨躯に激しく送り出していた。
「……あなたの汚名はこの国に未来永劫、語り継がれる」
アルテッツァは父の変わり果てた姿を見て、小さく溜息をついた。
「魔王ヨッドヴァフ・ザ・サード……愛しき、父上よ」