最終章 『誰が為に、鐘は鳴る』 4
その夜は唐突に訪れた。
前触れも無く、グロウリィドーンの東の空から黄金色の雲が立ち上った。
ふくれあがった雲は太陽を覆い、晴天を暗黒に閉ざすと赤い稲光を走らせた。
不吉な空に危険に最も敏感な獣達が唸りを挙げて互いに警戒を促した。
鳥が森を離れ、獣が列を作って走る。
人の手を離れられない畜獣が哀しげに吠えたくり、飼い主である人間に不吉を伝えた。
西の空まで覆った暗雲は稲光をコルカタスの森に落とし、やがて大粒の雨を降らせる。
雨は大河となり、ヘルゲイズの谷に落ち、雪となり、氷となる。
降り注いだ氷がヘルゲイズの底に横たわるマグマに溶け、爆ぜる。
爆ぜたマグマは火柱となり天に伸び、やがてその熱を失い岩へと戻る。
天に伸びた岩は樹木のように連なり、ヘルゲイズの底に横たわる彼等へ忌むべき地上の風を送り込んだ。
なだらかな、それでいて確かな熱を持った風がニンブルドアンの扉を叩き、ニンブルドアンの扉は傾ぎ、永遠の安穏に横たわる彼等に光を与えた。
青き血の民、フィッダ。
人の言葉で、魔物と呼ぶ。
彼等は久方ぶりに感じる風に歓喜の咆哮を挙げた。
古の盟約により地上を明け渡した彼等は今、天上を渡る金の雲と熱き大地の許しを得て再び地上に戻れることに歓喜した。
天と地の狭間を漂う白鯨が彼等を見下ろすと、彼等は歓喜の声を上げた。
ただの一匹の獣が走れば、その後を他の獣が追う。
そうして走る獣が連なり、コルカタスの森にかつてから居住する彼等に時が来たことを告げる。
木々を押し倒し、粉塵が空に巻き上がる。
その粉塵を分けて漆黒の翼竜が赤、青、緑の竜を引き連れ空を舞う。
大地が裂け、牛鬼が炎を吐いて雄叫びを上げた。
その体を引き裂き、追って現れた蛇竜がその死肉を啄み炎を喰らう。
尖塔のように立ち並ぶ蛇竜に翼竜が旋回して咆哮を交わすと、それらは一斉に東の平原に立つその象徴を瞳に納めた。
ヨッドヴァフ王国首都グロウリィドーン。
その中心に稲光を受け、暗澹と佇むグロウリィパレス。
古の約定を交わしたかの地が静かに震えていた。
彼等は進撃を始める。
巨人が静かに大地を踏みしめ、その大きな歩を進め雄叫びを上げた。
コルカタス大樹林の奥、ニンブルドアンの扉が開かれ、ヘルゲイズの谷から地獄の青き冷たい鎖に繋がれた魔獣達が、解き放たれた。
◆◇◆◇◆◇
首都グロウリィドーンの混乱は凄まじいものであった。
この世の終わりを目にした民はこぞって街を出て生き延びるために逃走をはじめようとした。
人々の喧噪が空まで届くグロウリィストリートには悲鳴が交わされ荷馬車に轢かれ潰される人々の怨嗟の声が響く。
だが、その中でも自らの欲望に走り、死すれば価値を無くす財を未だに奪う不逞の輩も存在した。
彼等は逃げまどう人々に暴力を加え、放置された家屋に押し入り、略奪の限りを尽くす。
金色の雲の赤い稲光の下、愚かな人々はただ生きるために混沌をあるがままに受け入れていた。
だが、全ての人がそうだったわけではない。
一部の賢き者達は恐怖に支配された衆愚の為、王の指示を待った。
人という集団が統制を失うのであれば、今こそグロウリィドーンが誰の物であるか指し示してやらねばならない。
神から地上を統べる権利を任された地上の代行者である王が指し示す道へ彼等を正しく導いてやることが賢き者達の責務であると認めていたからだ
だが、しかし。
神々の代行者たる王の席はそんな彼等をあざ笑うかのように空席のままだった。
彼等は悲哀に暮れ、やがて西の空を埋めつくす魔物達の群れを王城のテラスから為す術もなく見つめるだけであった。
賢き者達もやがて一人、二人と王城を去ってゆく。
王はいずこへと悲哀に暮れるより、また、自らも衆愚となって生きる術を探す他に無いとその理性が悟ったからだ。
人の失せた王城は静かに、暗く、そして不気味に混沌の中で聳える。
夜の闇が空を更に暗くし、月の明かりすら無いグロウリィドーンに人々は光を求めて炎を灯す。
宵闇が混乱を幾ばくか納めはしたが、それでも人々は恐怖の中で震えていた。
夜の闇は全てを覆い隠し、人に幾ばくかの安穏を与えた。
だが、それは次に来る朝の絶望を深く彩る闇として人は受け止めた。
明くる朝、金色の雲から僅かな光が差し込み西の地平に押し寄せる魔の軍勢を浮かびあがらせる。
誰しもが恐怖した。
誰もが諦め、明日を思うことを止めようとした。
だが、しかし。
それでもその絶望に立ち向かおうと鉄を手にした者達が居た。
陽光の中、ウェストグロウリィストリートを整然と闊歩するその勇ましさに人々は僅かな希望を見出した。
甲冑に身を包み、雄々しくグロウリィドーンの栄光旗を掲げ、高々と槍を掲げる勇者達。
混乱の中に在りながら、静かに息を潜ませ来るべき時を待つ隠者達。
そして、この国で行き場を無くし、それでも明日への生きる希望を捨てず、険しい生き様を冒してきた者達。
かくして、彼等を率いるそれは言うなれば英雄なのだろう。
自らが望んだ訳は無く、また、誰かが望んだ訳ではなく。
ただ、そうあることを自らで決め、彼は希望の先頭に立つことを決め犬を走らせた。
アーリッシュ・カーマイン卿。
崩壊せんとする栄光あるヨッドヴァフ王国騎士団第七騎士団の若き騎士団長。
彼はただ、友である責を果たすがため、剣を高々と掲げて吠えた。
◆◇◆◇◆◇
「聞けッ!」
ヨッドヴァフ王国首都グロウリィドーンの西側に広がるアルバレア平原。
アーリッシュ・カーマイン率いる騎士団は整然と隊列を組み、陣を敷いた。
号令一つで思考を止め、体が動くまでに訓練された騎士達の根幹は人である。
人は死を前にして、恐怖を覚える。
アーリッシュ・カーマインは彼等に、これから死の恐怖を乗り越える欺瞞を与えなければならない。
英雄とはとかく残酷なものかとその場に立ち、覚える。
だが、自分の先にある道はこれより困難な物であることを既に知っていた。
先を征く友に遅れてはならない。
アルバレア平原に集めた騎士達の先頭でアーリッシュ・カーマインはまずは英雄たろうと雄々しく吠えた。
「時は来たッ!我々が血を流す時だッ!騎士とは何かッ!人々に生き方を示す者だッ!弱者の盾となれッ!困難を貫く剣となれッ!私は最も君達から忌むべき者となろうッ!!死しても我らの誇りを守れッ!我らが信念の中にある、騎士が為にッ!」
飾る言葉は何の熱も持たない。
死を前にして言葉などは最早、何も届かない。
だが、それでも、なお、届くことがあるとすれば。
胸の内に宿る確かな熱き迸りを猛るまま、吠えるしかない。
それを情熱というのだろう。
騎士で在り続けたアーリッシュ・カーマインは友ではなく、自らの言葉としてその言葉を告げた。
「勝てッ!強くあれッ!それが、騎士也ッ!」
地平の果てまで届く怒号はそれでもただの音。
だが、発した熱はその場に立つ者に熱を伝える。
伝わった熱はやがて人の魂を揺さぶる。
揺さぶられた魂は溢れた情熱を雄叫びとして迸らせる。
その場に集う騎士達が雄々しく猛り、槍を掲げた。
アーリッシュは応えるように剣を抜き放ち、銀色の鎧を纏った犬の背で平原を埋め尽くす魔物の群れを睨み据えた。
ヨッドヴァフ史上、最大の掃討戦の戦端が今、開かれた。