最終章 『誰が為に、鐘は鳴る』 3
アーリッシュ・カーマインは全てを知った訳ではない。
だが、それでも確証はあった。
「……大規模な掃討戦になるんだろうな」
ダッツ・ストレイルがそう呟く。
誰しもがそう感じていた。
繰り返される合同演習の規模を思えば誰しもそう思わずにはいられない。
魔導具の設置作業に走る騎士達を見てダッツは眉を潜める。
「騎士団の合同訓練に王室が異を唱えない。それどころかアカデミアが開発中の魔導兵器の試運転を依頼するくらいだ。俺たちに死ね死ねとせっついてやがる」
「それが仕事だろうさ。構わんよ。だが……」
アーリッシュは暗く曇る空を見上げて言いかけた言葉を止めた。
「生き方に従わされる者達はかなわんよ。そのせいで死ぬんだからな」
ダッツが続けた言葉にアーリッシュは苦笑した。
「怠惰が裁かれる律法は無い。なぜなら多くの人間が怠惰だからだ」
「そんなものかね」
「だから時代が裁くのだろう。怠惰であった人達を不平等のままにね」
「直接の原因であった奴らを裁いて欲しいモンなんだがな」
アーリッシュはスタイアのように肩をすくめてみせた。
「運が悪かったと諦めるしかない。だが、誰しもがその怠惰に身を任せ、恩恵を受けていたのだ。騎士団の裁きが不平等であるのと同じに、時代の裁きもまた不平等なんだろうさ」
そう言い切ったアーリッシュはどこか疲れていた。
ダッツはそんな友の危うさを知りながらも、黙ってその傍らに立つ。
「……どうなるんだろうな」
「さぁな。だが、変わらなくちゃならない。先陣を切って誰が変わるか、なんだろうさ。俺はきっと、変われない。変わるにはもう、疲れちまったよ。だが、お前さんの居る場所ってのは変わらざるを得ない。それは、覚悟してンだろ?」
ダッツに言われ、改めてアーリッシュは友から託された思いを知る。
「……そういうこと、なんだろうな」
「ゆるくはねえぞ。いずれにせよ」
アーリッシュはそびえ立つ王城を見つめ、呟いた。
「騎士で在り続けられれば、楽なのだろうな……」
思わず呟いてしまった言葉をアーリッシュは恥じた。
それは、弱さである。
だが、弱さを自覚せねば、強さなど得られるものではない。
だから、こそ、今はせめて英雄くらい演じてみせよう。
「……配置が済み次第、大規模掃討演習を行う。ダッツ、差配は任せる。抜かるな」
「ハッ!」
◆◇◆◇◆◇
日の傾いたグロウリィドーンの街の外をシャモンは歩いていた。
けだるげな瞳が映すのは一時の平和に馴染んでしまった人々の喧噪である。
それが、どこか愛おしげに見えて、だが、決してそのままであれないことを知る。
その平和の裏にはいつだって弱い者達が存在する。
一歩、路地裏へと足を踏み入れれば襤褸を纏った物貰い達が身を寄せ合い、温もりを分かちあっていた。
シャモンは酔いつぶれたように路地裏に転がりこみ、どっかりと腰を降ろす。
屋根と屋根の間から見える薄闇のかかった空を見上げて懐からパンを手にすると半分に割った。
乱暴に路地の奥に放り投げると、それを拾いに襤褸を纏った物貰いが一人鼠のように素早くシャモンに寄った。
「……江湖のみんなに伝えてくんねい。皿がてっくら返る」
まだ、幼い子供だった。
「宗主様、皆、惑うております」
そう伝えた子供に苦笑して、シャモンは抱きかかえると膝の上に載せた。
外套でくるんで暖めてやる。
「フィダーイーのセトメントも無く、我々は我々の所業を行うにありますか?」
「……俺達はフィダーイーじゃあない。鉄鎖の兄弟だ。スタイアという鉄鎖の兄弟が戦っている。血の繋がりは無く、肉親の情も無し。無情無縁、ただ、鉄鎖の重みに血肉の重みのみを知る」
「繋がれた鉄鎖の重さが血肉の重さぞ……兄者」
「温い飯、一杯食べたろ?一飯の恩義は命でもって購うべい」
少年は寒さに身を震わせてシャモンの胸に潜り込んだ。
シャモンはその背を力強く撫でてやると苦笑した。
「行け。畜獣に非ず。我らは人ぞ」
「はい」
少年はシャモンの懐から銀貨を幾ばくか抜くと、それを手に走った。
大きく溜息をつき、シャモンは冷えてきた風に身を震わせてとうとう路地に横になった。
そのシャモンの傍らに屈み込んだイシュメイルはにんまりと笑う。
「やあやあ、シャモさん奇遇だね」
「なんでえ、アカデミアの学士さんじゃあねえか」
「コウコの実体ははじめて見るよ。なかなかどうして、立派なものじゃないか」
「豊かさは同時に、人の心を削ぐ。っと……こいつはスタイアの受け売りだな」
「あれで学があるからね、彼は」
イシュメイルは学士のローブが汚れるのを厭わず、地面に腰を降ろした。
シャモンは鬱陶しそうにイシュメイルを見ると、イシュメイルは表情を変えた。
「……フィダーイーのニザとして尋ねるがよろしいか?」
「江湖は鉄鎖の契りを果たす。スタイアの邪魔はさせねえよ」
イシュメイルは淡々と告げる。
「弱き者達の血が流れるのをフィッダは良しとしない。人が人たり得るのはその弱さ故、フィダーイーはフィダーイーに、人は人の手に。それが天秤を支える根幹なり」
「吹く風を前に集い温まるは鉄鎖の者の生きる術だ」
シャモンはそう吐き捨てると、酒臭い息を吐いた。
イシュメイルは壁に背を預けるとくつくつと笑う。
「ラナさんにしろ……君にしろ……どこまでもあの男に肩入れするものだね」
「違う」
シャモンは首を振ってイシュメイルを否定した。
「……成すべきことは成すべき者が己の強さでもって成す。覚えよ。人はどこまでも一人也。他の者に依って立つことはなく、朽ちるは孤独。我らはただ、鐘の警鐘を受け入れる」
イシュメイルは表情を引き締めてシャモンの言葉を受け止める。
気がつけば空は宵闇が静かに迫りつつあった。
喧噪が静かに遠のきはじめる中、シャモンは居住まいを正しイシュメイルを正眼に見据えた。
ぼろぼろのろうそくを立て、その先を指先で擦る。
オレンジ色の柔らかな光が静かに灯り、揺れた。
「俺も、奴も、誰もが自分の生き様を生きる。痛みは、人が生きる為に常につきまとう。逃れ得ぬものであるなら……我らはせめても痛みを分かつ。それが人也」
イシュメイルはそれだけを聞くと立ち上がりローブを翻した。
「理解した。それが人のあるべき姿、か」
「白鯨イシュメイル。叶うなれば杯をもう一度だ……いい酒といい女、笑ってやれりゃ人生なんてこともなしだ」
「違い無い。人の戯れ、存外に心が透く」
イシュメイルはシャモンに背を向けると、宵闇の向こうに立つ墓堀を見つけた。
ユーロは流れる人並みの中に、居場所を無くし呆然と棺桶を背負い立ちつくしていた。
イシュメイルはどこか面白そうに笑う。
「ニンブルドアンの扉は開かれた。ヘルゲイズの谷から吹く青き嵐はかくして吹きすさぶ。人の死の守り手よ。お前は何を成す」
ユロアールは帽子の唾を深く被ると瞳を塞いだ。
静かに捌けていく人の波の中、すれ違うイシュメイルだけに聞こえるように呟いた。
「……生きるさ」
彼は、そう、いつだって結論から先に述べるのだ。