第1章 『最も弱き者』 7
グロウリィドーンの東部には貴族街が広がる。
爵位を得た者達は治世の要職につき、この場所に邸宅を構えることを一つのステータスとしている。
政治の要となるヨッドヴァフ騎士団、聖フレジア教会、貴族院、枢機院といった建造物は全てこの東区画にあった。
少女は夜でも街灯が灯され、視界の効く町並みを小走りで歩き、一つの邸宅を見上げた。 ビリハム・オファー伯爵の邸宅である。
グロウリィドーンの建築当初に構えられた邸宅は高い外壁に囲まれた二階建ての石材で組まれた邸宅である。
少女は荘厳な門の前で、執務を終え邸宅に帰宅するビリハムを待ち受けることにした。
宵が深まる頃、邸宅に馬車が乗りつけ深緑のチュニックに身を包んだビリハムは戻ってきた。
随伴する召使いが門の横に佇む少女を見つけ、怪訝な顔をする。
ビリハムも少女の思い詰めた表情を見て、怪訝な顔をしたが、すぐに用向きを尋ねた。
「この時分にいかが用件ですかな?」
「……家を追い出されました。どこか、働かせてくれる場所を探しています」
ビリハムは少女を値踏みするように頭の先からつま先まで眺めると、召使いに小さく耳打ちすると寛容に頷いた。
「それであれば、力になれることもあるだろう。中に入って、ゆっくりと話を聞かせて欲しい」
少女は小さく頷き、ビリハムの後に続き邸宅に招かれた。
外壁の内側には豪奢な庭園が広がっており、家を取り囲むようにゲッケイの生け垣が広がり、庭木として植えられたスマラグが道の脇に並べられている。
シャンデリアのある広いホールを有した邸宅に入ると、ビリハムは少女を客室に招くように召使いに指示した。
召使いは僅かに頭を下げると少女の手を引き、地下室へ向かった。
石壁で支えられた地下室はどこか冷たく、灯されたろうそくの明かりがぼんやりと揺れていた。
「あの、どこへ……」
召使いは何も応えず、少女の手を乱暴に引くと、地下室の一室へ乱暴に放り込んだ。
少女は冷たい石床に尻を打ち、小さく悲鳴を上げるが、召使いは冷たい眼差しを向けたまま扉を閉めた。
がちゃりと鍵のかかる音がして、少女は地下室に取り残される。
「待って!お願い!一つだけ教えて欲しい!」
地下室を立ち去ろうとした召使いの足音が止まる。
少女は扉に駆け寄り、精一杯の声を上げて尋ねる。
「恵雨の月の初めの頃に、金色の髪をしたあたしと同じくらいの子がここに来てるの!その子が今、どうなってるのか!それだけ!それだけでいいから教えて!」
召使いの靴が石床を叩く音が大きくなり、やがて扉の前で止まった。
「知っているのね?」
召使いはどこか冷めた声でそう尋ねた。
「……うん。多分、私も奴隷として売られる。それは、わかってる」
しばらくの間、召使いは沈黙していた。
「その子なら、よく覚えてる。体の弱い子だった。勤めに耐えられず、すぐに死ぬとわかっていたから誰も買わなかった」
「じゃあ!まだ、ここに居るの!?居るのね!?」
召使いは答えない。
少女はその沈黙に別の意味を受け取った。
「……うそ」
少女の頬にすっと、一筋の涙が差した。
震える喉が嗚咽を零しはじめ、膝が力を無くしはじめる。
今日まで少女を支えてきたものが、ふと目の前から無くなり、少女の肩に疲れがどっと押し寄せてきた。
自分を慕ってくれただけの少女で、何をしてくれた訳でもない。
辛くても、生きていく事を互いに誓った。
その少女の前では、彼女は強くなければならなかった。
だが、もう、そんな必要も無い。
そうなったとき、少女はただの少女に戻ってしまったのだ。
「扉の鍵は開けておくわ。落ち着いたら、逃げなさい」
召使いの声はどこか、疲れていた。
少女は疲れた中、ただ、どこかで触れたことのある良識だけで尋ねた。
「……どうして、そんなことしてくれるの?」
「私にはこんな生き方しかできませんから」
召使いはそれ以上、何も言うことなく足音を遠ざけた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
暗い石壁に囲まれた部屋で少女は体を横にしていた。
今まで張っていた緊張の糸が全てほぐれ、生きていく意味を無くした少女は最早、立ち上がる気力も無かった。
それでも覚える空腹に鬱陶しさを覚えながらも少女は冷たい石床に顔を擦りつけた。
振り返れば、空腹と痛みだけが自分を生かしてくれた。
名前も無く、ただ一度も満足に腹を満たしたこともなく、飢えと寒さに耐え、最後はこの地下室で病死したと考えると、とてもやりきれなかった。
かつて仲間だった者も、彼女から離れていった。
弱い者は淘汰される。
足も遅く、体も弱く、何一つ、彼らに貢献できなかった彼女は、生きる為に彼らの食事を減らさなければならないことから切り捨てられた。
それは、受け入れなければならない現実であることは知っていた。
彼らもまた、ただ一度だって満足に腹を満たしたことが無いからだ。
自分を慕い、自分のようになりたいとかつて言ってくれた少女を鬱陶しいと思ったことは何度もあった。
だが、無くして初めて、自分がその弱い少女に支えられて強くあったことがわかる。
人は自分の為に卑しくなれるが、貴くあるのはいつだって他人の為だ。
流れに、身を任せよう。
少女は諦めて身じろぎする。
「ごきげんよう」
ビリハム・バファーは穏やかな笑みで少女に声をかける。
少女は床に寝そべったまま、動かなかった。
「君は、いつぞや私が保護した少女の知り合いみたいだね」
少女は答えない。
ビリハムは続ける。
「どこまで知っているか知らないが、それはよくないことだ。人は誰しも秘密を持っている。秘密は誰にも知らされず、伏されているからこそ大切なのであって、それを吹聴してまわるのはとてもよくないことだ。もちろん、私は君がそのようなことをするような人間ではないと知っているし、信じている。だけど、わかって欲しい。人は誰しも臆病で、私も残念ながら臆病な人間なのだ。そこで、だ。私は君とその秘密を、そう……なんといったらいいのか、共有したい。お互いに秘密を持つのだ。そうすれば君は私の持っている秘密を深く知ることで私を信じてくれるし、私も真に君を信じることができる。その秘密は君の知っているあの子、そう、あの子だ。とても可憐な子だ。金色の豊かな髪をして、とても優しい眼差しをしている。あの子もまた、共有してくれたものだ。どうだろう?私とその秘密を共有してくれないだろうか?」
長々と喋るビリハムに、少女は僅かな違和感を覚えた。
「……生きてるの?」
「誰が、そのような悲しいことをいったのかわからない。メラージェンが言ったのであれば彼女にも、正しく、伝えねばならない。それは私が彼女を引き受け、彼女の生きる道を示さなければならない身分にあるが故の義務だ。だが、問題はそこじゃあない。君はひょっとして勘違いしているかもしれないが、そう、あくまで勘違いしているものと思って尋ねるが、その子が殺されて……いや、フレジアの光に祝福されたと思ってはいないかね?だとしたら、悲しい。私は大いに悲しい。その誤解をどうか、私に解かせてくれはしないか?どうだろう?」
ビリハムの言葉には嘘は感じなかった。
だが、どこか狂気に触れた危険さを少女は既に感じていた。
少女はゆっくりと身を起こし、気だるげだが、それでもしっかりと応える。
「会わせて」