第5章 『褐色の幽霊』 17
パーヴァはその話を聞いて苦笑した。
「なれば私は魔物となるのか。いや、それは事実ではあるから否定はせんがな。しかしながら、饒舌に人の言葉を操るではないか。フィダーイーのニザともあろうものが」
言われてみて、ラナは自分が今までで一番長く言葉を操ったことを知る。
風が強くなり、砂塵が巻き上がり、ラナの周囲で渦巻く。
それがやがて嵐となり、ラナの頬を叩いた。
荒れ狂う砂塵は圧倒的な質量となってラナを叩きのめし、体力を奪う。
マルメラの丘に吹き荒れる嵐は来る者を拒み、横になることすら許さない。
幾日も歩くことを余儀なくされたラナの尋常ではない体力すら奪い、いつしかラナは気を遠くしていた。
照りつける太陽が知らず知らずの間に水分を奪い、気がつけば水筒の水は空になっていた。
ラナは水筒を捨て、背嚢を担ぎ直そうとするが、気がつけば砂塵に削られて背嚢を背負うベルトが切れていた。
吹き荒れる砂塵は全てを呑み込み、ラナの落とした背嚢は既に見えなくなっていた。
腰の高さまで昇る砂をそれでも必死に漕いで、ラナは歩くことを決めた。
「……はぁ……」
何年かぶりに、苦痛の息を漏らした。
これが、人の抱えた痛みかと、実感する。
この吹き荒れる嵐の中、平然と佇むパーヴァがラナを見下ろす。
「滑稽だな。たかだか人間のために、そこまでしなければならないものか」
ラナは朦朧とする意識の中、それでも先に歩を進め、自分が笑っていることに気がつき少し、驚いた。
「はい」
そう答えた時、胸が震えた。
パーヴァは今までラナが見せたことのないどこまでも優しい笑みに戦慄を覚えた。
「フィダーイーに拒絶されたお前が、ニザへ戻るとなればなまなかなことでは済まされぬのだぞ?」
「わかって、います」
言葉を紡ぐ喉がひりひりと痛む。
だが、ラナはその痛みすら愛おしいと思えた。
僅かずつ、ほんの、僅かずつでも前へと進もうとする。
荒れ狂う砂の中で足掻き、たじろぎ、怯え、それでも前へ進もうとする。
「滑稽だな」
そう揶揄されても仕方のないことだと思う。
だが、その全てを愛しいと思える自分が、ラナは嬉しかった。
鈍く、重くなる体を引きずり、前へ、前へと進む。
パーヴァはどこか嬉しそうなラナを怪訝そうに見つめ、溜息をついた。
「わたしには理解できんよ。人間という生き物が。そして、その人間のためにマルメラの洗礼を経てまで天秤の目盛りまで行こうとするなど……正気とは、思えぬ」
ラナは小さく微笑むと首を左右に振った。
「……私は、青き青銅の血が流れているとしても、人間だからです」
そうしてラナは意識を失い、マルメラの丘の砂の中に沈んだ。
◆◇◆◇◆◇
ユーロは墓を掘る。
それが墓掘りの仕事だからだ。
かつて人であったものだろうと、死んでしまえばただの肉の塊だ。
教会で暮らす聖職者達はこぞって祈りを捧げ死者の尊厳を飾り立てるが、彼等は決して土を掘り、死者を埋めることをしない。
突き詰めて人の死を見れば、そこに残るのは腐敗し、悪臭を放つ糞尿の詰まった肉が残るだけなのだ。
だからこそ、その汚物の処理を行う奴隷が求められる。
そうして生きてきたのが墓掘りユーロだ。
棺桶を背負ったユーロはどこに行こうか考える。
穴を掘るのに教養は要らなかった。
ただ、どうスコップを振るえば硬い土を掘り起こせるか知れば良かった。
あとは精々、棺桶を作れるだけの木工と、石工からその技術を学べば良かった。
それを覚えてしまえば、ただ、毎日黙々と土を掘るだけの日々が続いた。
そうして、埋めた死人の中には人に知られたくない死に方をした者も少なくはなかった。
だから、墓掘りは言葉を使わない。
黙することがその処世であるからだ。
だが、それでも、墓掘りもまた、人間なのだ。
死した人を最後を見送ることができるからこそ、目を背けられないものがある。
死して運ばれるからこそ、わかる無念もある。
人が、人の死を目にし、そして埋めるのだ。
涙に目を覆える者はいい。そして、どこか別の場所で目をそらせる者もいい。
墓掘りはどんな死人も見つめなければならない。
墓掘りを続けるユーロはだからこそ、自らが埋めるべき人間を僅かにでも選べる死神となるととした。
多くのことは知らない、そして、知れるだけの教養も無い。
だが、平等という概念は知っていた。
だれしも、同じくらいの不幸と幸せを持つべきだと思った。
それは古く、ニンブルドアンの天秤と呼ばれることがあるくらいは昔話で知っていた。
だからこそ、だろう。
墓掘りでしかなかった彼に、生きる意義を与えたスタイアを彼は死なせることができなかった。
スタイアは死すべき人間かどうかと尋ねられれば、死すべき人間だ。
平等という観念で見れば、スタイア一人のために多くの人間が殺されてきた。
なればこそ、スタイアは死すべきだ。
スタイアは殺すことを躊躇することはないが、それが決して好んで殺していることでもないことは理解していた。
だからこそ、スタイアは死すべきだ。
だが――
ユーロは散々迷った挙げ句、アーリッシュ・カーマインの館を訪ねた。
強くなる雨の中、外套が濡れるのを厭わず、棺桶を鎖で吊して街中を歩く。
雨の夜中に出歩く者は居ないから、気にはならなかった。
アーリッシュ・カーマインの館から、ユーロの見知った人物が騎士に送られて出てきたところだった。
「あら……」
その人物は教会の司祭の中で最も脆い人物だとユーロは見ていた。
ユーロは小さく黙礼すると帽子を目深に被った。
そうして彼等が行きすぎるのを待とうとしたが、その司祭はじっと自分を見つめたまま視線を外そうとしなかった。
「ええと……ユーロ、でしたね」
自分の名前を覚えているような司祭はこのフィルローラ司祭ぐらいであろう。
危うい脆さだと思う。
教会という権力が集まる場所でその教義を疑うことなく純粋に司祭まで登り詰めた彼女の誰にでも優しくという信念はその真実の前にもの凄く脆い。
だからこそ、関わってはならない。
それはそれで、幸せなのだろうから。
自ら、その幸せを壊していい程の権利は無い。
ユーロは静かに立ったまま、隣に立つ騎士を見つめた。
リバティベルで、何度も見たことがある。
スタイアの親友の騎士、ダッツ・ストレイル。
世俗と制度の間の摩擦に生きる冒険者として負い、命を的にしながらも口にしない苦労はスタイアのそれと似ている。
そして、戦場で生き延びるくらいに強い。
だからこそスタイアの友としてあれる。
ダッツ・ストレイルはユーロをひとしきり見つめた後、全てではないだろうが察し、目を伏せた。
だが、脆さを持ったフィルローラだけはユーロが背負う棺を見てじっと、目を逸らそうとしなかった。
「ユーロ、その棺はなんですか?」
ユーロは少し、驚いた。
危うく脆かったフィルローラの声が、どこか強さを持っていた。
それは、吹けば飛ぶような強さだが、それでも、事実を受け止め、自らを成したいと思う者のみが持つ強さだった。
だが、ユーロは黙したまま棺を置いた。
「……死者だ」
言葉を操ることを知らないユーロは淡々とそれだけ告げた。
そう、スタイアは死者だ。
王国の持つ軋轢と戦い続け、力尽きたスタイアを表す言葉はそれしか無い。
「なれば墓に葬りなさい。それが墓掘りでしょう」
フィルローラ司祭の言葉は正しかった。
ユーロはそれ以上、反論する言葉を持たない。
降りしきる雨の中に躊躇わずに歩み出たフィルローラに退き、ユーロは静かに棺を見下ろした。
フィルローラは水に濡れ、冷たくなった鎖を解き、棺を開いた。
そこに横たわるスタイアを静かに、熱を持った瞳で睨むと告げた。
「湯を沸かしなさい。そして、清潔な布を。ストレイル騎士長、すみやかに手配を」