第5章 『褐色の幽霊』 16
鉄鎖解放戦線の後、我々はフィダーイーのセトメントとしての生き方を余儀なくされました。
リョウンのつてを頼り、海洋亭の別館であるリバティベルを開いたのはその頃です。
私と、リョウンはフィダーイーとして天秤を傾ける者をセトメントすることを生業としました。
後ろ盾も無く、ただの個人が生きる糧を見つけるにはまだ、辛い時代であったということは記憶しております。
ですが、小さいとはいえ自らの店を構え商いを行える状況は他の奴隷達の行く末を考えればとても恵まれた境遇ではあったのでしょう。
奴隷の中には生き方をみつけられず、また、かつての生き方すら奪われ途方に暮れて身をやつす者も少なくはなく、スタイアやリョウンはその境遇に憐憫の情をしめしていたからです。
大きな流れに耐えきれず死に絶えるのは自然の摂理なれば、我々は強くあらねば生きてはいけない。
淘汰される弱者はかくあるべくして、淘汰されるのですから。
そうしていなくなる者を糧として、強い者だけが生き残り、その強い者がより強い者を産み、大きな流れの中、生きてゆかねばならない。
だのに、弱者に手を伸ばそうとする人間の気持ちが、理解できない。
リョウンがブレンツと名を改め、アスレイであったスタイアがスタイアと名前を変えたのはその頃でした。
鬼神リョウン、千人斬りのアスレイの名前はヨッドヴァフでは最も、恨まれている名前でもありましたから。
そうしなければいけないくらい、人というのは弱い生き物なのです。
フィダーイーとして剣を振るうブレンツの片腕として、私は人を殺める生業をしておりました。
スタイアがフィダーイーに触れたのはたしか、その頃でした。
あの頃のスタイアはようやく得た自由の元、ヨッドヴァフでの様々な道に手を染めました。
勇猛な騎士として、優秀な学士として、そして、敬虔な修士として愚直なまでに励んでおりました。
妄執のような危うさをもっていました。
自ら得た自由の価値を知ろうとしていたのでしょうか。
いえ、選ぶために多くの自由を奪ってきた責任だったからでしょうか。
彼が選べるようになるために、数多くの人の尊厳を踏みにじってきたからでしょうか。
剣以外の生き方をスタイアは得ることができるようになったから、スタイアは取り憑かれたように自らの生き方を模索したのでしょうか。
そのいずれも、正しく、そして、違います。
彼が騎士であり、学士であり、修士でありながらフィダーイーであるのと同様に、彼が様々な生き方に手を染めたのは彼の中にのみ存在する理由のためです。
私は一度、尋ねたことがあります。
彼はリバティベルの中で書物のページをめくり、溜息と一緒に答えを落としました。
「未だ、至らず」
苦笑しながらそう零した彼の顔には、苦悶とそれを見せることをよしとしない、弱さと強さが滲んでおりました。
彼が、何を見たのか。
私が彼に興味を持ち始めたのはたしかに、この頃からですね。
ブレンツはそんなスタイアを見て、どこか、満足そうに私に言ったことがあります。
「余計な回り道というのは一杯するといいものさ。痛みは血と肉が覚え己を強くする。強くなければ、至れはしないさ」
そうして必ず寂しそうに笑うブレンツはやはり、スタイアの師であり、父であり、そして他人であったのでしょう。
そして、そうあるべきことをブレンツは諦めていたのです。
そう言っても許されるくらいには人として老いていたのですから。
そして、私もそれを知らないくらいには幼かったのです。
褐色の幽霊と私が呼ばれるようになったのはこの頃でした。
慕情に似た感情を抱いたブレンツから頂いた外套を好んで仕事をすることが多かったからでしょうか。
鐘を鳴らすたびに、人は口々に褐色の幽霊が現れると囁きはじめました。
はじめは、フィダーイーとして忠実に天秤の均衡を保つため。
ですが、いつしかブレンツは弱き者のために剣を振るうようになっておりました。
嫌気が差した、と言えばいささか乱暴に過ぎるでしょう。
彼の生まれた国、そしてコンルゥを経て戦乱続きの中でようやく安らぎを得たブレンツは既に人を殺めずには生きていられなかった。
いつか、スタイアが殺めたオズワルドのように。
ですから、せめてもの平穏の為という気概なのでしょうか。
それも、また、好意的すぎる物の見方なのでしょう。
とどのつまり、剣に生きるということは自らの死に場所を求めていたことに相違ありません。
例えば、の話をいたしましょう。
オズワルドが仮に王となったとして、彼は平穏に生きることを望んだでしょうか。
おそらく彼は次の戦いに身を投じる為に民草を巻き込み新たな戦の火を燃やしたでしょう。
戦の中でしか、生きられない。
戦士というのはそのような生き物なのです。
剣を筆に、誇りを下劣さに替えることができるのならば生きていけたのです。
ですが、年を老い、また、その気力を無くした戦士には難しい。
その術にすがって生きていくことしか、知らないのですから。
それは、私にも言えたことでした。
天秤を傾ける分銅をフィダーイーは好まない。
その分銅を選り分けるのがフィダーイーのセトメントの使命。
言葉というものは時に真実を覆い隠す。
フィダーイーがその行いをもって信義を通すことを尊ぶのは言葉の持つ卑しさを覚えていたからなのでしょう。
私は、まだ、何も知らずに侮っていたのです。
全てを知ろうとしていた、スタイアを。
ブレンツはフィダーイーとして、この国の持つ本当の姿を知りました。
それはもとよりフィダーイーであった私にとっては当たり前の姿でありました。
語る言葉を持つことのない私は、ブレンツに、そして、スタイアにもその事実を告げることはありませんでした。
ですが、真実を知ったブレンツはその矜持にかけて斬ることを決めたのです。
私は諫めました。
ですが、それを聞き入れるようなブレンツではなく、また、他のいくばくかの人間も必ずブレンツのようにその事実を許しはしないでしょう。
人間が、人間たる所以とはどこにあるのか。
知性を用いることが人間であると答えるのであればそれは浅学の徒の答えです。
社会的な動物である。
これもまた、深く物事を考えられぬ浅学の描く答え。
広く、深く全てを観察すれば全ての生物に知性があり、言語と異なる交誼を図り、また、純粋が故に高度な社会を作る生物や昆虫が存在する。
なれば人がそれらと唯一、人であるが故と言えるものを持つのは何か?
矜持。
誇り。
尊厳。
自らを自らと決める拠り所の為に自らの存在を諦めることすらできること。
生物の根幹をその理性で覆せる矛盾を持つこと。
それが、人間たる所以。
リョウン、いえ、ブレンツと呼ばれた人間は自らの剣の力でその尊厳を示すことを決めました。
私はそのような生き方が羨ましかったのでしょうね。
その生き方ですか?
自由な、生き方というらしいです。
自らを縛る規律や戒律、そして境遇すらねじ伏せる力。
それは権力であり、暴力であり、そして個人の持つ剣の力。
ブレンツは自らを縛る諸々を剣でもって切り伏せることで自由に生きて来ました。
そして、最後に、また、自らを縛ろうとする境遇に挑もうとしたのです。
だからこそ、私はブレンツに慕情を抱き、従っていたのでしょう。
この人ならば、ブレンツならば私を縛る諸々の境遇を切り払ってくれると。
ですが、フィダーイーは天秤を傾ける者を許しはしない。
ブレンツのやろうとしたことは、秩序と混沌の天秤を混沌に傾けることでした。
ヨッドヴァフにおいて並ぶ者無しと言われた鬼神リョウン、褐色の幽霊ブレンツ。
絶対的な暴力を持つ個人に、どれだけのセトメントを執り行おうと選り分けることができなかった。
そして、その傍らには私という暴力が常に寄り添っていたのですから。
しんしんと、雨の降る夜でした。
言葉を持つことのない私はブレンツが一人で出掛けたのを知らずにおりました。
ブレンツも、スタイアも居ないあの店でただ夜のくれる安穏をじっと貪っておりました。
暗闇は視界を奪い、人間に不安を与えますが我々フィダーイーはそれが他者から自らを隠し、安穏を与えるものであることを知っていました。
ですから、灯りを持って入ってきたミラを疎ましく思いました。
優秀な冒険者であったミラは片足を失い、生き方を変えざるを得なかった人間です。
ですが、新しい矜持を見つけたミラの人生は幸せだったのでしょう。
そのミラの顔が陰鬱に歪んでいるのを見て、私はブレンツがどこに行こうとしているのかを察しました。
追って出ようとする私をミラが止めました。
「届くわけがない」
そう言ったミラの言葉は深く、重かった。
ミラは決して、高い教養を受けたわけではなく、また、難しい言葉を使ったわけではありません。
ですが、その一言で私のしようとしていたことを見抜き、それが叶わぬことを伝えました。
人間という生き物はどこまでも、感慨深い生き物です。
それでも、私はミラの傍らを抜け、雨の降るゴールデンドーンを走りました。
ウェストグロウリィストリートを探し、イーストサンライズロードを走り、サウスロードを巡り、私はついにセントラルグロウリィストリートでブレンツを見つけました。
夜と呼ぶには深く、朝と呼ぶにはまだ遠い時間でした。
静かに降る雨に、剣の切っ先を輝かせたブレンツは寂しそうに、そして、どこか嬉しそうに自らを殺しに来たフィダーイーを見つめていました。
私は息を飲みました。
そこに立っていたのはグロウリィウィングヘルムを被り、褐色のローブを纏ったスタイアでした。
幾多の戦乱を駆け抜け、短くなってなお鋭さを失わない剣を片手に立ちはだかるスタイアにブレンツは何一つ言葉をかけませんでした。
また、スタイアも何一つ言葉を発しませんでした。
どこまでも静かに降る雨の中、僅かな熱すら見せずお互いが剣を振るいました。
気迫もなく、速さも無く、勢いもなく。
ですが、その底に剣の本質である殺意が横たわる剣が幾度となく交わる。
鉄と鉄が打ち合い、滑る音がもの悲しげに叫んでおりました。
哀しげに、叫んでおりました。
力届かず自由になれぬ不憫さ、境遇にねじ伏せられる恨み、いくつものことを諦めなければならぬ哀惜、そして、惨めにも生き抜こうとする自らの卑しさ。
それらを肯定した上で、相手を否定し、殺す。
ミラが私に言ったとおりでした。
私の言葉が、存在が、暴力が届くわけが無い。
どこまでも人として在り続けた二人にフィダーイーである私が入り込む余地が無かった。
その時の気持ちに、私は、後になって知ることになります。
悔しかったという言葉があったことに。
ブレンツとスタイアの間に入り、暴力を向けた私など、元から居なかったように二人は剣を交えていたのです。
ニザであるセトメントの私の暴力は人のそれとは次元が違います。
ですが、二人の使う剣聖アマガッツォの剣はその暴力の中でも途切れる事無く交わされていました。
しなる小枝にどんな嵐が襲いかかろうと決して折れはしない。
流転千景、雨夕晴朝、また風も命脈を惜しみ、構え。
いかなる場においてもあるがままに受け止め、生き抜く為に剣を振るう。
その極意にある二人に、私は決して届かなかった。
やがて、スタイアの荒々しい剣がブレンツの胸に届きました。
雨を押しのけて噴き上がる鮮血の中、ブレンツはどこまでも澄み切った笑みを浮かべたのを覚えています。
そして、スタイアの泣きそうな顔も。
涙を流していたのでしょうか。
「とどさま……こうまでして、生きねばなんねですか」
ですが、降りしきる雨はいつまでも続き、最後までわかりませんでした。
石畳に横たわり、静かに熱を奪われていくブレンツの傍らに蹲り、その亡骸を掴むスタイアは小さく、震えていました。
その無防備な背中に、私は暴力を振るおうと思いました。
私が求めていたものを打ち砕かれた憎しみに任せて、親と死に別れた幼子のように震えるスタイアを憎しみのまま殺そうと決意してしまいました。
ですが、立ち上がったスタイアは振り向かずに告げたのです。
「斬りたぐ、ねがったぁ……」
背中を曲げたまま、王城を見上げたスタイアに私は何もできなかった。
涙を流し、どこまでも遠くを見つめた瞳に、私ははじめてあの人の大きさを知りました。
振り向いた幼い私に、スタイアは言いました。
「もう、僕は迷わない。全てを、背負います。ラナさん。あなたは、人間だ」
――その時、私は私を縛る全ての呪縛から解放されました。