第5章 『褐色の幽霊』 14
アーリッシュは三杯目の黒湯に口をつけると、大きく息を吐いた。
フィルローラは汗ばむ手の平を開き、ようやく膝に置いた。
「今の話を聞く限り、スタイアさんはバルツホルドの戦で戦没……いえ、行方不明となられたのですか?」
「スタさんに足はあっただろう?信じられないことに生きていた。コルカタス大樹林の奥、アルバンヘイム古城の地下、ゴルゴルダ監獄の中で魔物の拷問に責められ、それでも生き延びていたんだ」
「ゴルゴルダ監獄?」
「魔物が魔物を喰らう監獄だよ。ジルタルガの魔物が治める遺跡で僕とダッツはディッグの足取りを追ってそこに捕らわれていたアスラガ隊の救出に向かったんだ。生き残っていたのはスタさんだけだった」
フィルローラは生唾を飲み込み、話を促した。
「スタイアさんはゴルゴルダ監獄でどのような責め苦を受けたのですか?」
「ああいう人間だろう?その時の話は決してしなかった。既に常軌を逸していてね。糞尿と血にまみれて、か細い息を吐きながら僕らにすら剣を向けてきたよ」
フィルローラは僅かに涙を零した。
「何故、そうまでして」
「自らの苦痛を人に訴えない誇り高さと、苦境に追い込んだ者への激しい恨みを抱く下劣さは同居できるからさ」
アーリッシュはそれだけを告げると止まない雨を窓の外から見つめ、小さく息を吐いた。
「僕は彼の友人でありたいと思う。そして、彼が言葉にせず僕に託した思いを、僕は受け止める」
「……スタイアさんはアーリッシュ卿に一体何を」
アーリッシュは僅かに振り返り、苦笑してみせた。
フィルローラはどこか、その笑い方がスタイアに似ていると思った時、理解した。
「申し訳ありません……殿方の覚悟を婦女子の好奇心で尋ねせがむものではありませんでした」
アーリッシュは立ちあがるとダッツに目配せをした。
「ダッツ、申し訳ないがフィルローラ氏を送り届けてくれないか?僕はもう帰れそうにない」
ダッツは面倒くさそうに溜息をつくと頷いた。
◆◇◆◇◆◇
十人目を斬る頃には再び、雨が降り始めた。
肩で息をし、地面に突き立てた剣にもたれかかるように上体を支えスタイアは最後の一人を睨みあげた。
恐れを知らない暗殺者は満身創痍のスタイアに容赦なく長剣を振るい斬りかかる。
死の淵にあってなお、スタイアの剣は鋭さを増し、白刃が黒いローブを切り裂き暗殺者を石畳の上に切り伏せる。
だが、背後から足音もなく迫ってきた暗殺者がスタイアの背中に長剣を突きたてる。
「んぐっ……あぁぁぁ……」
暗殺者は背後からスタイアを羽交い締めにすると腰から短剣を引き抜き、その喉元に走らせようとした。
だが、次の瞬間、糸の切れた人形のように地面に暗殺者が崩れ落ちた。
「もう、こんぐれえにしとかねえか?」
スタイアはどこか聞き覚えのある声に朦朧とする意識を奮い起こし、声の主を探った。
「シャモさんですか……」
「……急所は外れてるな。がしかし、お前さんの今の状態でもつのかね」
「……すまねっす……カハッ!」
スタイアは背中から自分を貫いた剣を引き抜き、盛大に石畳の上に吐血する。
「もう、いいじゃねえか。おめえさんはよく頑張ったよ。そろそろ頃合いなんじゃあねえのか?」
シャモンはスタイアを支え、背負うと大きく溜息をついた。
しとしとと降る雨がじくじくと滲むスタイアの血を滲ませる。
「まだ、諦めらんねえのす」
「あに強情張ってんだよ。自分の様ぁ見てみろ。理想ばっか高くて融通がきかねえ。歯ぁ食いしばって頑張ったってぼろぼろじゃねえか」
シャモンは右に左にゆらゆらと揺れながらスタイアを背負ってグロウリィドーンの街中を歩く。
「でも、それでもやらねばならんのす」
「死んじまうぞ、お前」
夜明けの光りが僅かに差し込むが、朝にはまだ、程遠い。
「温い、飯こさ喰いてぇ」
「腹一杯、喰いてぇよなぁ」
シャモンは苦笑しながら震えるスタイアをあやすように背負い直す。
「ラナさんが、一昨日、出てったよ」
シャモンは背中でスタイアが固くなるのを感じた。
「ヨシュ砂漠に向かった。早駆けの犬ならもうぞろ、国境を越える頃だろうよ」
スタイアの腕がぎりぎりとシャモンの背中を掴む。
「なばして……なばして……ですか?」
「仕方、あるめえだろうよ」
シャモンはスタイアの問いを斬り捨てた。
「もうぞろ、いいんじゃねえか?鉄鎖解放戦線でお前が置いてきた約束、てめえ一人で抱えてきたこの国の痛み、もうぞろ、みんな吐き出す頃じゃあねえか?」
シャモンはぞんざいにスタイアを石畳の上に放る。
水たまりの中、力なくごろごろと転がるスタイアを見下ろしシャモンは静かに拳を構えた。
力なくシャモンを見上げるスタイアを見据え、ゆっくりと拳を開く。
「フィダーイーは古き盟約に従い、天秤を保つ。調和を徒に乱すスタイア・イグイットにセトメントを課す。汝、死を恐れるな。魂はエルダコの螺旋を巡り位階を走る」
雷光が閃き、シャモンの腕がスタイアの胸を貫いた。
悲鳴が遅れてやってきた雷鳴にかき消され、スタイアの身体が地面に転がる。
激しく降る雨の中、動かなくなったスタイアにシャモンは静かに合掌すると遠くで立ちつくし様子を見ていたユロアールを見上げた。
「待たせたな」
ユーロは何も答えず、真新しい棺を背負っていた。
びちゃりびちゃりと、黒いブーツが水たまりに沈み、歩を進める。
ユーロは虚ろに開いたスタイアの瞳を閉じると、重々しい棺桶をその隣に置いた。
軋みを上げて開く棺桶の底は暗く、ほのかに土の匂いがした。
ユーロは地面に横たわるスタイアを抱き上げると、静かに棺桶の中に横たえた。
そして、重い蓋を閉めると再び棺桶を背中に背負う。
「……頼むぜ、後は」
ユーロは雨で濡れる帽子の庇を静かに下げると、頷いてみせた。
◆◇◆◇◆◇
ヨッドヴァフ首都グロウリィドーンから街道を南に早駆けの犬で三日程駆けるとバルバメアの街に着く。
バルバメアは南方のニ・ヨルグ、南東のセルヨムとの交易の玄関口であり付近に多くの史跡を有することから活気のある街であった。
とりわけニ・ヨルグからの交易者が多く、照りつける太陽と砂塵を防ぐため、ゆったりとした衣服と顔まで隠れるフードを被った格好が大通りを埋めていた。
ヨッドヴァフからニ・ヨルグに渡るには広大なヨシュ砂漠を踏破しなくてはならない。
そのため、これからニ・ヨルグに移動するキャラバンの犬が列を成し、それらの準備に干した肉や果実、そして何より大事な水を売る露店が多く並び、活気を作っていた。
「お嬢さん、一人で砂漠を渡るツモリかい」
長くこの地で行商を営んできた商人は、ラナが背嚢につんだ荷物を一瞥するだけで砂漠を渡るツモリであることを知った。
ラナは答えずにじっくりとカンバザの実を干した水筒を品定めし、銀貨を商人に渡す。
慣れている、と商人は理解した。
カンバザは砂漠に生息する植物で鉄のように固い樹脂を纏った植物だ。
広く浅く広げられた根から年に一度、降るか降らないかの雨を吸い集め、短く太い茎に水を圧縮して保存する。
「慣れているだろうが、キャラバンに加わった方がいい。なんなら、口を効いてやろうか?」
ラナは商人が親切に言うのを、柔らかく首を左右に振ることで断った。
「……見たところ、砂漠ははじめてじゃないだろうがニ・ヨルグに渡るには女一人じゃ少々危険だよ。じきにヨルマンガの風も吹く。悪いことは言わない。キャラバンに連れていってもらいな」
商人としてはただ、自分のところで砂漠の準備を気前よく整えた客に何かできないかと親切にしただけである。
それがこの商人の信用の源でもあり、この地で成功している理由でもあるがラナはそれに答えることはなかった。
樽一つ分は入るカンバザの水筒に水を吸わせると、ラナは水筒を腰に革紐で括り付ける。
「強情だね、あんたも。そんなんじゃ……」
「マルメラの丘を越えます」
小さく答えたラナに商人は絶句する。
「……正気か?年がら年中砂嵐が吹いている場所だぞ?流砂が激しくて巻き込まれればまず戻ってこれない。確かにあそこにゃあ手つかずの史跡はいくつも残っているだろうが命を捨てにいくようなモンだぞ?」
「命を捨ててでも、守らなければならないものがあります」
商人はそう言って柔らかく笑むラナを見て、悟った。
そして静かに胸の前で印を切り、砂漠の神に祈った。
「……アラマンドラの神よ、慈悲深きあなたの僅かな涙が酌杯に残ってらっしゃるならどうぞこの者に与えたまえ」
ラナは印を切って答えると小さく頭を下げた。
背嚢を背負い直し、喧噪を作るキャラバン隊を横目にバルバメアの街を出る。
杭に繋がれた犬の首輪を外すと、軽く頭を撫でてグロウリィドーンの方向を指さす。
「戻りなさい」
犬は小さく鼻を鳴らすと心配そうにラナを見上げた。
ラナがもう一度だけ頭を撫でてやると犬はくるりと踵を返し、グロウリィドーンへ向けて駆けだした。
ラナは歩き出す。
熱された荒野の大気がゆらゆらと揺れる。
「変わるものだな」
ラナの背嚢から姿を現したパーヴァは面白そうに笑った。
「随分と人間らしくなったじゃないか」
ラナの肩に乗り、荒野の果てを見つめる。
歩きはじめてまだ間もないがラナの額には玉の汗が浮かびはじめていた。
きっちりと編み上げた長靴が踏む土が、いつの頃からか砂に変わる。
ちらほらと点在していた草木も見えず、やがて、吹く風に砂が混じるようになった。
「人間は、好きか?」
パーヴァは小さな羽を背中でゆらめかせ、自らに風を送りながら尋ねた。
「嫌いです」
ラナは短くそう答えた。
「……すぐに死ぬ。すぐ死ぬくせに、浅ましく、残忍で卑しさに死ぬまでかまけている姿は見ていて……いささか見苦しい」
パーヴァは皮肉を込めて笑いながら続けた。
「だからだろうな、見苦しくならぬように必死になる奴も居る」
ラナは遠く地平線を眺めながら淡々と続けた。
「……いささか見苦しいですが……だからこそ、美しい」
パーヴァは眼差しを厳しくして同じ地平を見つめた。
「変わらぬよ。何年も何年も、人の本質は何一つ変わりはしない。石を持ち、炎の祝福を受け、鉄を打つようになった。叡智の理の一端にやがて辿り着き、より豊かに、豊かになっていくだろう」
「だが、人は豊かさと共に、心の平穏を忘れる。豊かさの温もりに包まれるのはいつだって生き物の本性である欲望である」
「……お前はスタイア・イグイットに何を見た。欲望にまみれ、人であり続けるあの男にお前が執着する理由はなんだ?」
ラナは静かに告げた。
「パーヴァリア・キル。あなたに語ります。私が知るスタイア・イグイットを」