第5章 『褐色の幽霊』 9
俺やスタイアが生きてきた時代ってのは、酷い時代だった。
飢饉が長く続いたんだ。
コルカタスの奥地、ニンブルドアから吹く死の風が麦の実りを奪い、人の命を奪って行く。
働けない子供は冬を越すためにみんな奴隷として売り払われた。
それでも余った子供は実りの賢神ホロニュオに捧げるために、冬の冷たい川に放り込まれる。
そうやって口減らしのされた時代なんだ。
領主だって、楽じゃあない。
各地で暴動が起きればそれだけ鎮圧の為の出費がかさむ。
そうなれば国は税を重くしてそれを賄わなければならない。
首都の目の行き届かない地方ってのは領主が好き勝手にまつりごとを行う。
毎年、収穫の時期になれば納めなければならない税の量もそのたびに増えてゆくし、俺たちの生活は苦しくなっていく。
悪いことが起これば、悪い方に転がるだけ転がったんだ。
俺やスタイアはそんな時代に売られた地方の農村のガキだったんだよ。
俺とスタイアは同じ奴隷商に買われたんだ。
ハインバステアの街の奴隷商の館の地下の押し込み箱ン中で、寒さに震えて壁に寄りかかってたのがスタイアだった。
押し込み箱ってのはまあ、簡単に言えば奴隷が寝起きする部屋のことだ。牢獄とたいしたかわりはしない。鉄格子がドアになっただけで、逃げたところで行く場所もねえから死んじまうんだ。
まあ、スタイアと出会ったのはそんな押し込み箱の中で、俺はそこで一つの責任があったんだ。
先に入った奴隷は後から入った奴隷の面倒を見てやんなきゃならない。
これは俺が奴隷になる前から延々とある奴隷同士の暗黙の了解でもあるし、そうしないと奴隷商から厳しい折檻を受ける。
売り手が決まるまでの奴隷ってのは奴隷商の雑用を何でもやらされるんだ。特にガキの場合はな。
俺は奴隷商のところで一月ばかし過ごしてたからスタイアがこのままじゃ死ぬなってのがわかっちまった。
「壁にひっついてんじゃねえよ。余計寒くなるぞ」
今にも死にそうなツラで震えてやがるから、俺はスタイアの背中から抱いてやった。
同じ押し込み箱の中にゃあ似たような奴隷は一杯いる。
その殆どが俺やスタイアみたいなガキだった。
だけど、スタイアはその中でもひときわ痩せてたよ。
「温いす。あるがとです」
震える唇で酷い訛りで泣いてやがった。
「わしは……」
「親から貰った名前なんざ捨てろ。いつまでもダラダラ未練ばっかり引きずるぞ。俺達ぁ奴隷だ。新しい主人に買われて、死ぬまでコキ使われるんだ。それに、奴隷は墓に入れねえ。名前なんざ彫って貰えねえよ」
「……ほしたら、わしは一体、わしをなんといえばいいんですかね?」
「知るかよ。でもな?奴隷には奴隷の誇りがある。どんなに辛くても、惨めでも、それでも生き抜いていけば、それは自分の中に積み上げた誇りになる」
「そったら誇りで腹はくちくならんですよ」
「豚じゃねえんだ。腹一杯喰って喰われる為に殺される豚や牛と俺たち人間の奴隷は違うんだ。どんなに辛くても間違えるなよ」
……こいつは俺を買った奴隷商の言葉だ。
奴隷商っつったって人間を売る人間だ。
売った先でよく働く奴隷が売れれば奴隷商の信用になる。
いっちまえば商売のためだわな。
だがな、わかれよ?
人が人を売るんだ。
売られなきゃならねえ人間の全部を銭勘定しなくちゃならねえって立場もよ。
「豚でも、牛でも生きてられるです……人間、辛ぇがや」
本音だろうよ。だから、俺も何も言えなかった。
奴はしばらくしたら泣きながら寝たよ。
自分を売った親の事でも思い出しちまったんだろうかね。
ガキだからってバカじゃねえんだ。自分を売らなくちゃならない親の身を切るようなつらさだってわかるし、そうしないと他の兄弟が売られちまう。
だけど、自分が売られた切なさってのは相当、つれえんだわ。
スタイアと俺はしばらく押し込み箱に居て、寒い冬の間を他の奴隷の世話や野良作業に駆り出されて働いた。
炊事も俺たちの仕事だったが飯だけはよく喰わして貰えた。
手があかぎれする冬の朝の冷たい水汲みから、煤だらけになって竈の火を炊いて、開いた時間は近くのギルドの作業をやらされる。
惨めで辛かったが、俺たちを売った皆が麦を伸ばしたスープを啜ってる中、ちゃんとパンを食べられるというのはある意味、幸せではあった。
冬を、生きて越せるんだからな。
スタイアの買い手が決まったのは確か陽風の月だったはずだ。
冬を越して、まともな食べ物を与えられた俺達は血色もよくなったし、野良作業や一通りの家事について仕込まれたから、何も知らないガキよりかは高く売れる。
どこに売られていくかは、聞かないのが鉄則だ。
そこが、奴隷達の今生の別れになるんだ。
中には酷い主人に買われた奴隷が逃げて押し込み箱の奴隷を頼って買い受け先に押しかけることもある。
そうなれば困るのは買い受け先を教えた奴隷の方だからな?
スタイアは最後の日に、俺んところで頭を下げたよ。
「兄ぃ、世話になりあんした」
どこか、線の弱い奴だったよ。そんときは。
「おぅ、頑張れや?」
そう言うとよ、スタイアはもう一度深々と俺に頭を下げるんだよ。
「わし、オーロードに行くことになりあんした」
……今の若い連中は知らないだろうが、オーロードに行く奴隷ってのは死刑を宣告されたのと一緒なんだ。
かつてのヨッドヴァフの首都、オーロード。
そこにゃあ、今のグロウリィドーンにゃあ無い、野蛮な娯楽が残っていたんだ。
その娯楽にゃあどうしても人間が必要でな?
オーロードは奴隷制があるうちぁ、結構、奴隷を買い付けていったんだ。
何に使うかって?
闘技場奴隷だよ。
戦争の敗残兵を猛獣や魔物と戦わせるんだ。
残虐性の象徴である闘技娯楽での子供はまさしく、見せしめに惨殺されるんだ。
子供を殺すのは可哀想だと思うだろう?可哀想だよな。
だがね、人間ってのはその可哀想なことをみんなが楽しんでいりゃ、平気で楽しむ生き物だ。
タマ坊にしろ、マリナにしろ経験はあるはずだ。
自分を叩く人間の目にあきらかに楽しんでる愉悦の光が確かにあっただろ。
オーロードに行くってのは、奴隷にとっちゃ死ぬのと同じことだった。
俺はそれ以上、なんて声をかけてやりゃあいいのかわかんなかった。
「兄ぃ、絶対、絶対、生き延びてくださいや」
バカだと思ったよ。
てめえが死ぬのに、俺の心配かよ。
どうしょうもねえバカだ。
だから、家族からいっとうはじめに切り捨てられて売られるんだろうよ。
俺は鼻を鳴らして、押し込み箱で横になったよ。
だって、そうだろうよ?これから死にに行く奴になんて声をかけてやりゃあいい?
お前も、生き延びろ?死ぬってわかってんのにか。
達者でな?達者でいられる訳がねえ。
行く当てもねえ、家族のところに帰られる訳もねえ、どうしょうもねえ現実って奴の前に居る奴に、何が言えるんだよ。
最後の日も、奴ぁ、震えながら寝てたよ。
スタイアが連れてかれる日も今日みたいに嫌な雨が降ってやがった。
その日の朝の仕事が終わるとよ、奴隷商の主人が俺に休憩時間をくれたんだ。
俺は心底、主人を恨んだよ。
だって、そうだろう?てめえで死ぬような場所に売ったくせに、俺に見送りにいけってことなんだぜ?
冷てえよ。冷てぇよな。
しんしんと降る雨ン中、あいつは手かせから伸びる鎖を馬に引かれて歩いかされてたよ。
オーロードに戻る行商の最後尾にひっついて、背中を丸めて空を見上げてた。
泣きそうになるのをぐっと堪えて、歯ぁ食いしばって。
俺を見つけた奴ぁ、辛い顔してんのに、笑いやがったんだ。
「お見送り、ありがとあんす」
いいか、タマ、お前より年端のいかねえガキだったスタイアがそう言ったんだ。
がんじがらめの鎖に縛られた俺達は時代とか、貧しさとか、そういった軋轢の中でいっとう弱い存在なんだ。
俺は雨んなか走って、奴の足にすがりついたよ。
俺の足についている足かせを外して、奴の足につけたんだ。
足かせや手かせってのは外そうと思えば、簡単に外れるんだ。
行商の連中は、それを見て、見ぬふりをしてたよ。
畜生と思ったよ。助けてやれよ。そんなことするっくらいならよ。
スタイアは自分の手かせを外して、俺につけてくれたんだ。
「……兄ぃ、わがまま、言っていいですか」
スタイアは泣きそうな顔で、俺に頼んだんだ。
「あしには兄者がおらんでした。下に、弟ばっかりで、母親から離れたら泣ぐと思って奴隷こさなりました。儂の兄者になってくれあせんか?」
――俺と、スタイアが鉄鎖の契りを結んだのはこの時だ。
「儂ぁ、兄者に約束しあす。絶対、生きぬきあす。今生、今しばお別れしあす。どうぞご達者で」
家族にすら見捨てられた奴隷が生きていくには、一人じゃ辛ぇんだ。
だから、血の繋がりより確かで、どうしょうもなく重い鉄の鎖で契るんだ。
馬の嘶きが俺達の慟哭を裂いて、はっきりと別れを告げたんだ。
わかるだろう?
マリナも、タマも、自分ではない誰かが生きていて欲しいと思うのはよ。