第5章 『褐色の幽霊』 5
鍵のかかったフレジア教会の大扉に剣を走らせる。
緩慢に伸びた剣が錠前を音もなく切り裂くと、スタイアは真正面から扉を開いた。
礼拝堂には既に完全武装した聖堂騎士がスタイアを待ち受けていた。
聖堂騎士団を率いるタグザが槍を構え、不敵に笑った。
「コルベス大司祭の仰ったとおりだな、賊が正面から現れるとはな。何を盗り来た?」
「命を、奪いに」
「――ッ!」
スタイアはタグザを斬り伏せていた。
タグザは目の前に立っている褐色のローブの男の剣が赤く染まっていることに気がつかなかった。
遅れて響いた鋼の音、そして、噴き上がる鮮血。
「な……」
ぐらりと体が傾き、シャンデリアを仰ぎ、ステンドグラスを見上げる。
そして、硬く冷たい床に倒れ込みその床が静かに暖かくなる。
「……仕損じましたか」
浅く、荒く息を吐き、痛みと寒さがじんわりと全身を支配していくなかで確かな死を感じる。
だが、それより。
「いささか短くなりましたからね。次は仕損じません」
聖堂騎士団が槍を伸ばす中、スタイアが一陣の疾風となる。
槍の穂先から槍を裂き、伸びた剣が聖堂騎士団の首を刎ねる。
振り返りざまに切り上げた剣が股下から頭上に走り、人の体が両断される。
褐色の影が伸び、追従する銀閃がおののく聖堂騎士を次々と屠る。
盾を構える騎士を盾ごと横凪ぎに両断する。
悲鳴すら上げる暇もなく、うら若き聖堂騎士の乙女達が殺されてゆく。
暴力の風が吹き荒れ、鮮血に染まる褐色の悪魔を雷が闇の中に映した。
「……あなたは」
「シルヴィアですか」
朦朧とする意識の中、タグザは自分の友人が褐色の悪魔と言葉を交わすのを聞いた。
それは臨終の間際の幻覚のように思えた。
「……あなたが戦っているもの、それが私にはわかりません」
「理解する必要などありあせん。剣はただ、屠るために振るうモンです」
「近しい人を守るために振るうのではないのですか?」
「剣は鉄、鉄はただ、命を奪うのみ」
「私が戦うべきものと、あなたは戦っている。私が戦うべきものより、まだ、大きなものとあなたは戦っている。ご教示、願えますか?私が、真に、戦うべきものを」
褐色の悪魔は血に染まったローブを翻し、シルヴィアを切り払った。
銀の閃光が振り上がり、高々と血しぶきが舞い上がる。
瞳を大きく開いたシルヴィアにスタイアは鈍い瞳で告げた。
「全ての、不条理」
「ありがとう、ございます」
仰向けに倒れたシルヴィアは細い息を繰り返しながらスタイアを見上げていた。
切り裂かれた分厚い甲冑の下には鎖帷子が二枚重ねで着込まれていた。
「……教えたのは僕でしたね」
「はい。帷子はしっかりと着込みなさい。並の使い手であれば死に体になるお突き以外では死ぬことはない……っかはっ!」
「死ななかったことを、後悔する日が来ますよ。剣に生きるとはそういうことです」
「あなたが……魅せたんですよ……何者にも負けない……強さは……」
シルヴィアの言葉はそこでとぎれた。
スタイアは血糊を拭うことなく、忌々しげに礼拝堂に吊された聖剣グロウクラッセを見上げた。
そして、静かに息を吐くと礼拝堂の支柱から黒衣の僧が姿を現す。
「……フィダーイーのセトメントとは違うようですね」
礼拝堂の祭壇にコルベス大司祭が姿を現した。
「頑張っているようだね。アルテッツァ公が褒めておりましたよ」
コルベスが前に出るとその傍らに黒衣の僧が静かに立った。
黒衣の僧達が静かに、スタイアを包囲する環を縮める。
「……だが、いささか君は知りすぎ、そして、やりすぎた。古き盟約に従い、我々は君をセトメントする」
僧達が一斉に剣を抜き放つ。
どこまでも冷たい銀色の光が暗い礼拝堂の中で光を放つ。
それらの中でスタイアは呟いた。
「……鐘が鳴る」
静かに、静かに、静寂が熱を孕み、燃えてゆく。
コルベス大司祭の顔が怪訝に歪む。
「いや、僕が鐘を鳴らすんです」
スタイアはちりん、と小さく鐘を慣らした。
燃えた静寂が爆ぜる。
黒衣の僧が一斉に雷撃を放つ。
青白く伸びた稲光が縦横無尽に礼拝堂を埋め尽くす。
伸びた稲妻をスタイアの白刃が切り払った。
青白い燐光を散らし、稲光が霧散する。
竜巻のような銀閃に阻まれ、いくつもの稲光が燐光となって消える。
その燐光を曳きながらスタイアは飛び出した。
高く跳躍し、黒衣の僧と切り結ぶ。
尋常ではない速度で黒衣の僧は礼拝堂の柱を蹴り、上空からスタイアを襲う。
だが、それより速く走るスタイアの剣が黒衣の僧を捕らえる。
「無駄ですよ」
切り裂かれた黒衣から零れた血は紫色だった。
「青銅血……フィッダ・エレですか」
「魔物と人の古き盟約を実現するために作られた神の作られた人間。それが、彼等です」
コルベス大司祭がどこか哀れむように言った。
スタイアは悲しげな目で司祭を見上げた。
「人の未だ届かぬ魔術を操り、人を越えた忌むべき青銅の力をもつ。赤き血の力で敵うべき相手ではありません」
黒衣の僧達はフードの奥、複数の瞳を赤く輝かせじっとスタイアを見つめていた。
「要するに、魔物と人の混合です。彼等はヨッドヴァフの闇に生き、調和のために君のような知りすぎた人を屠る。君には伝えていませんでしたね、スタイア。それが……フィダーイーなのだ」
スタイアはただ、ただ、辛そうに呟いた。
「……つらかったでしょうに」
剣の切っ先が震えている。
怒りでだ。
黒衣の僧達は静かに、唸るように、スタイアに答えた。
慟哭にあわせ、スタイアは吠えた。
「惜しまずに断つッ!御免なすってやっ!」
黒衣の僧が一斉にスタイアに飛びかかった。
コルベス大司祭は目を見張った。
力任せに振るったスタイアの剣が黒衣の僧の剣をへし折り、その体を両断した。
紫色の血煙の中を褐色のローブが翻り、銀が暴力の風となって渦を巻く。
黒衣の僧の裾を引っ張ると首を叩き斬り、骸を蹴飛ばし、受け止めた僧を串刺しにする。
背後から剣を振るおうとした僧より速く、剣を抉り、切り裂きながら剣を引き抜き胴を払う。
紫色の血がその剣圧に飛沫を爆ぜさせていた。
「――ッぁぁぁ……ぁぁぁ……」
獣のような低いうなり声を上げ、スタイアの剣が走る。
三方向から走り寄る僧がそれぞれに剣を突き込もうとする。
だが、力一杯振り下ろされたスタイアの足が教会の大理石の床を激しく揺らした。
地面から足が離れた僧の体が宙に浮く。
刹那、スタイアの剣が光り、僧達の中心に突き込まれる。
ばん、と爆ぜる音がした。
目で追えない速度で放たれた突きが僧達の上半身を吹き飛ばしていた。
後ずさる僧に紫と赤の血で染まった床の血が跳ね上がり追いかける。
血と骸の積み上げられた礼拝堂の中で銀の暴力を構えた褐色の悪魔が吠えた。
頭蓋を切っ先で貫かれ、痙攣して事切れた僧に涙を流し、スタイアは祭壇の前に立つコルベス大司祭を見上げた。
「なばして、こげなことばするんですか」
「何を言っている」
「あんたはこったらことがしたくて、偉くなったんですか」
コルベス大司祭は目の前に居る人間が、悪魔のように思えた。
「貴様に何がわかるというのだ。大司祭という職責の重みを知らずして」
「知ってます……知っていますよ……でも、そったらことしなくたって、人は生きていけるんですよ。普通に、生きていけるんですよ」
「貴様は社会がもたらす恩恵を全て捨てて、それでなお人は生きていけるというのか。法術がなければ人は生きながらえられない、魔物という資源が枯渇した後、人はどうやってその資源を得る?」
「そうじゃ、ないでしょうに」
スタイアはずるずると鼻水をすすりながらコルベス大司祭を見上げた。
「寒ければ人は抱き合うんですよ。痛ければ誰かがさすってくれるんですよ。どうしてもダメだったら、悲しんでくれるんですよ……手ぇさしのべてくれるんですよ」
血に染まった剣の切っ先を上げ、眉間に皺を寄せると獰猛に吠える。
「わっしは人をこったらにするために教会の門ば叩いたわけではねっど!人ば助けたくて、みんなば助けたくて教会さ入った!おめらのやってることは畜生以下のことでねっが!」
スタイアの咆哮に気圧され、コルベス大司祭は息を飲む。
「あんただって……そうじゃろが。行き場のねえ子供で、助けてくれた人が居たからこそ、そうまでして誰かを助けてえと思ったから大司祭ばしてんじゃねのですか。そったらこと忘れちまえば、もう、人でも何でもねえのすよ」
「……人は立場と共に守らなければならないしがらみが増えるのだよ」
コルベス大司祭は静かに祭壇の裏から縛り上げたフィルローラを引きずりだした。
「どうやら君は彼女と懇意にしているようだ。すまないが人質として使わせて貰う」
スタイアはどこか冷たく、さめた瞳でコルベス大司祭を見上げた。
コルベスは言いしれぬ恐怖を感じ、目眩を覚えた。
その首筋に細い細い鉄が突き刺さっていた。
コルベスは自分の体に回りはじめた毒が自由を奪っていくのを確かに感じた。
「……フィダーイーのセトメントは一枚岩ではない」
羽の生えた小さな人型が残虐な笑みを浮かべてコルベスの肩に乗っていた。
「パーヴァリア・キル……まさか……」
「……弱いな、人は。簡単に道を見失う」
鈍い銀の光が走った。
深々と胸を抉った銀の光を見下ろすと、スタイアが長剣を法衣にねじ込んでいた。
赤々と血を吸って、純白の法衣が染まってゆく。
暗くなってゆく意識の中で、コルベスは呟いた。
「貴様……フィダーイーに牙を剥くつもりか」
「あい」
コルベスの胸から剣を引き抜き、スタイアは寂しそうにそう答えた。
褐色のローブは血を吸って黒々と濡れ、返り血で顔を汚したスタイアは静かに涙を拭った。
それを見上げたフィルローラは行き場を失った子供のような危うさをスタイアに見た。
だが、それも一瞬で、スタイアは剣を修めるとどこか寂しそうで、それでいて苦しそうな笑顔を作っていた。
「……パーヴァ。後はよろしくお願いいたしあんす」
パーヴァと呼ばれた小さな人型は頷く。
「苦労をする。もっと簡単に生きられように」
そして、フィルローラに一瞥もくれることなく背を向けた。
タグザを、シルヴィアを斬り伏せ、多くの少女を躊躇いもなく切り伏せた剣鬼の背中がどこか寂しそうに丸まっていた。
「……地下祭壇の奥に旧ヨッドヴァフの史跡があります。おそらくは」
フィルローラは切れ切れに小さく、そう呟いた。
スタイアは一度だけ振り向き、フィルローラを見つめた。
その、どこか辛そうな顔を見た瞬間、フィルローラは自分では抗えないと諦め、恐怖した自分を痛烈に恥じた。
「申し訳、ありません。私は……私は……」
「できるわけ、ありゃあせんです。それで、ええんです」
スタイアが苦笑した。
フィルローラはそれだけで救われた気がした。
人が、人を救う。
人は神にはなれない。
だが、最も神に近い人間がそこには確かに存在したのだ。
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ラナはしんしんと降る雨の中、じっとグロウリィドーンの東を見つめていた。
明け方の薄暮に染まる空が静かに明るみを灯すが、分厚い雨雲が光を遮り、陰鬱な影をグロウリィドーンに落としていた。
向かいの海羊亭から寝起きのタマが心配そうにラナを見つめていた。
「ラナさん、どうしたの?」
ラナは答えることなくじっと、雨に濡れたまま東を見つめていた。
「風邪引いちゃうよ?」
タマがおそるおそる近寄る。
思わず、息を呑んだ。
銀の髪が頬に張り付き、凍える息を静かに吐きながらラナは泣いていた。
その涙に被るように雨が静かに、静かに降っていた。
「……何があったの?」
ラナは答えない。
「ねえ、何があったの!」
尋常じゃないラナの様子に何かあったと確信したタマがラナを揺さぶる。
ラナが笑った。
「今、暖かいスープを作ります」
誰よりも早く並んだスープの皿はラナと、タマの二人分しか用意されなかった。