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Dingon・Dingon~『誰が為に鐘は鳴る』~  作者: 井口亮
第一章 『ヨッドヴァフの魔王』編
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第1章 『最も弱き者』 5

 公衆浴場ではなく風呂という設備を設けている場所は一部の貴族を除いて、そう多くあるわけではない。

 高級宿や人気のある安宿に備え付けてある場合もあるが、公衆浴場での湯浴みが庶民としては一般的であり、そうそうお目にかかれるものではなかった。

 そういった意味で、リバティベルはヨッドヴァフ中を探して唯一、風呂場を持っている酒場となる。

 元来は向かいの宿屋『海羊亭』が客室を拡張する際に一階部分の食堂を取り壊し、食堂を別棟としてはじめたのがリバティベルの始まりであり、今でも続く慣習である。

 海洋亭には増設できる場所が無いことから、リバティベルの裏に浴場を作った為に酒場でありながら風呂を持つという経緯に至る。

 とはいえ、四方を板で囲い、石材を並べて作った浴槽に湯を張るだけの簡素な代物だ。

 店主が趣味で並べた植木がいささか他の公衆浴場と違い、屋外で風呂に入っているような趣にさせるが、仕切りの向こうに見える外壁が景観を著しく悪くしていた。

 湯が張られたばかりの浴室で、ラナは黙って少女の体を洗っていた。

 少女の体にはいくつもの傷があり、そのうちいくつかは黒ずんで跡になっているものがあった。

 少女はラナを警戒しながらも、されるがままに体を洗わせているうちに、ラナがとても丁寧に体を洗ってくれることに気がつき、気を許した。

 張り詰めていた緊張の糸が解け、痛みと眠さが意識の中でよみがえる。


 「ねえ……」


 おずおずと漏らした吐息に乗せた言葉が喉の奥にからみつく。


 「……本当は嫌じゃないの?」

 「何が」

 「あたし……くさいから」

 「くだらない」

 「……あたし、牢屋に入るのかな?」

 「そんなことはしないと思う」

 「なんで?人のもの盗んだのに?」

 「まっとうな泥棒には手ひどいことはしないわ。スタイアは」


 スタイアの振る舞いは、少女を騎士団に連れて行くことはしないだろうと確信させるものがあった。

 少女の頭に湯を被せ、熱いタオルで顔を拭いてやりながらラナは考える。

 この少女は、とても聡明なのかもしれない。

 自分のしていることが社会的に悪いことであることを認識している。

 まともな教育を受けられない中で、自分の行為が悪いと認識できるのは相手がどのような被害を被るか想像できるからだ。

 ――盗まれた相手が困るということを十分に理解しているのだ。

 追い詰められた人間というのは自分の事で精一杯になる。

 飢えと寒さに迫られる毎日の中、生きる糧を奪った相手の痛みを共感できるというのは易しいことではない。

 ラナはしばらくしてから、言葉を継いだ。


 「疲れたでしょう?」


 無遠慮に頬を押し上げるタオルに瞼を細め、少女は湯と違う物が零れるのを隠した。

 少女はそれでも必至に肩に力を入れてか細く応える。


 「あたしより、辛い子もいるもん」


 ラナは眉を潜めてほんの少し、考えた。


 「……誰か、助けたい人が居るの?」


 少女はタオル越しにラナの手のひらに鼻を押しつけ、小さく頷いた。


 「……一緒に暮らしてた子。名前は無い」


 名前が無いのは親が居ないからだ。

 親が居ない子供は往々にして孤児院に引き取られるか、奴隷として誰かに売られるか。

 そのいずれにも当てはまらない場合、浮浪児として生きていく為に盗みを働く。

 盗みを働く子供達の間では、捕まった時に仲間の名前を言わないように名前が無いままにしているのだ。

 いや、当然のように呼び合うための名前はある。

 だが、それは決して誰かに知られることはなく、墓に彫られることもない。

 それが、彼女やその周りの人間の当たり前なのだ。


 「人さらいに捕まって、売られちゃった。お金、持ってけばかえしてくれるって言ってた」


 ラナはそれでようやく合点がいった。

 非公然だが泥棒にも秩序がある。 

 金を持っている相手から、自分が困らない分だけ盗む。

 貧しい時代を経験しているヨッドヴァフの住人はそれくらいであれば許容する。

 それを越えて大きく仕事をすると、スタイアのような騎士もその取締を厳しくするし、なにより、それで飢える者もでてくるからだ。

 そうなると、同業者からも相手にされなくなる。

 当然、少女もそのことわりを知らない訳が無く、少女の体に残る傷跡にはその理を無視した証拠である。


 「その子は、もう、戻らない」


 ラナは言い切った。

 少女が驚き、ラナを見上げる。


 「あなたが買い戻すまでに、その子は奴隷として生きていかなくちゃならない。安い額ではないのなら、その子は奴隷として生きていく方法を覚えてしまう。あなたが買い戻して自由にしてあげても、染みついた生き方は変えられない」


 少女は緩みかけた心の糸を張り直して、顔を背けた。


 「それでも、やるもん!」

 「できるわけない。奴隷一人の値段がどれくらいのものか知っている?」

 「……金貨二千枚、いくつか数えられないけど、たくさんだって話は知ってる」


 それは明らかな嘘である。

 金貨一枚あれば贅沢をしなければ一月は生きていける額である。

 金貨二千枚とは貴族の邸宅が造れるくらいの値段である。

 だが、しかし、彼女にはそれが全てだった。


 「今、どれくらい持ってる?」

 「金貨一枚……今日盗んだものだけど……」

 「諦めなさい。それが嫌なら、頑張りなさい」


 ラナは淡々と応えた。

 ラナが言ったことは事実の一つではある。

 しかし、買い戻すと決めた少女の代わりに金を出せる訳ではないし、出してはいけない。

 そして、その現実は厳しくてもやると決めた人間にしかできないことであることをラナは知っていた。

 少女はラナの手から逃げるように浴室を出ると一人で体を拭いて新しいシャツに身を包んだ。


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