第5章 『褐色の幽霊』 4
コルベス大司祭は席を立つとフィルローラを伴って執務室を出た。
フレジア大聖堂の地下にある修道士の居住区を抜け、さらに地下へ降りてゆく。
燭台に灯されたろうそくの頼りなげな炎が照らす通路を歩くと、祭殿へと出る。
祭殿には儀式の時にしか訪れない。
地下に掘ったにしては大がかりな祭殿ではある。
六本の巨大な石柱で支えられ、天使が支えるフレジアの女神とその膝下にしつらえられた祭壇。
それらをドーム状に石壁が覆い、青白く輝く環石のシャンデリアと点在する燭台が中を照らしている。
フィルローラはコルベス大司祭がするように祭殿に入る際に祈りを捧げると、静かにその後に続く。
コルベス大司祭は祭殿の奥にある待機室の天幕を潜る。
そこは大司祭が儀式の際に待機する部屋だった。
フィルローラははじめてそこに足を踏み入れる。
その先には環石の照明が並べられた、細い廊下が続いていた。
「ここに来るのは、はじめてだね」
「はい」
「覚えておくといい。史跡国家ニヴァリスタと同じく、ヨッドヴァフは遺跡の上に作られた街だ。市街を流れる下水やこうした地下道が編み目のように繋がり、広がっているのだよ」
それははじめて知らされる事実だった。
フィルローラはコルベス大司祭が奥へと進むのに従う。
「このあたりは王城の史跡でね。こうした通路がいくつもある」
古びた石壁にはいくつもの爪後が見えた。遙か昔、ここで大きな戦があったのだけは見てわかる。
史跡国家ニヴァリスタも似たようなものであった。
だが、なぜだろう。フィルローラはどこか、陰惨な雰囲気を感じ取った。
「これが教会の大司祭殿だ」
そこは祭殿、といより拷問室の方がしっくりくるような場所だった。
砕けたフレジア像の膝下に鉄鎖のしつらえられた祭壇が横たわり、そこに燭台を携えた黒衣の僧が並んでいる。
「彼等はフィッダ・エレと呼ばれる僧職だ。これから神の裁きを受ける魔物を祭壇に立たせ、儀式を執り行うためにここから出ることの無い尊い人達だ」
違うとフィルローラは思った。
彼等の足にはめられた足かせは古き時代の奴隷と呼ばれる人達が逃げ出さないように嵌めたものだ。
黒衣の僧の中を一人の少女が歩かされている。
灰色の肌を持ち、尖った耳が明らかに人間と違っていた。
体中に紋様があり、額には環石の輝きとよく似た宝石があった。
覚えている。
――自分と交換に助け出したあの少女だ。
だが、どうしてここに?
あの後、騎士団が追って森に入ったのか?
それとも――
「彼等はフィダーイーと呼ばれる組織の者達でもある。聞いたことはないだろう。ヨッドヴァフが生まれる前からあるアサシンギルドだ。無論、忌むべき存在ではあるが神に敵対するでもなく彼等はこうして教会の要請にも応えてくれる」
全く知らない現実がそこに横たわっていた。
少女は祭壇の上に寝かされる。
両手両足に枷をはめられ、少女は暴れてみるが鎖が重い音を立てるだけだった。
怯えた表情で何かを叫んでいるが、何を叫んでいるのかはわからない。
だが、それでもだ。
少女が助けを請うているのだけはわかる。
泣き叫ぶ少女をまるでそれが当たり前のように見下ろすコルベス大司祭が先程まで自分に優しい言葉を投げかけてくれた人物と同一であることが、フィルローラには恐ろしかった。
「遙か昔、環石は彼等の忌まわしき技術によって生み出されていたらしい。この史跡で見る環石の照明はその名残だ。だが、我々はその忌まわしき技術を知ることはないし、知ってはならない。それは神に許されぬ所業であるからだ。だが、環石を用いた神の奇跡は多くの救済をもたらす」
コルベス大司祭は淡々と語り、眼下に広がる光景を静かに見守っていた。
黒衣の僧が燭台を掲げ、静かに祈りを捧げる。
それはフィルローラが聞いたことのない祈りだった。
少女の瞳に涙が浮かぶ。
黒衣の僧の一人が巨大な十字架を掲げて祭壇に歩み寄る。
「神は我々に求めたのだ。試練として悪を。そして滅した悪の分だけの救済を」
装飾の施された十字架から青白い長剣を引き抜く。
そして、少女に覆い被さり、逃げようともがく少女の心臓に突き刺した。
耳をつんざく悲鳴と、凄惨な光景にフィルローラは目を逸らす。
少女は泣いていた。
その所作は人間のそれとは変わらない。
その少女に、彼等は躊躇いもなく剣を突き刺した。
長剣が血を吸い、青白く輝く。
青白い血の広がった祭壇の上に、にじみ出すように燐光が浮かびみちみちと音が鳴る。
少女の青い血が沸き立ち、そこから草木が伸びるように結晶が生えてくる。
環石だ。
「神々の救済を広く、無辜な人々に分け与える責任が大司祭にはある」
広がる環石の森から、環石を採掘する黒衣の僧を見つめフィルローラは何も言えず立ちつくす。
大きな、大きな闇を前にした子供のようにただ、立ちつくしていた。
◆◇◆◇◆◇
ヨッドヴァフの長い乾期が終わり、短い雨期がやってきた。
明け方の身を刺す冷気の中、ラナは濡れるのも構わずにしんしんと降る雨の中、空を見上げていた。
スタイアはよろよろと店先まで出ると、そっとラナの頭の上から外套を被せた。
ラナはそんなスタイアに気がつくことなく、じっと空を見上げ、しばらくしてから俯いた。
「……グィン・ダフが」
「そうですか」
スタイアは同じように空を見上げ大きな溜息をついた。
ひきずるような大きな溜息をしてから、店内に戻る。
そして、カウンターに立てかけていた剣の目釘を改めた。
研ぎ減りしていささか薄くはなったがそれでも人を断つには十分すぎる。
「……無茶を」
ラナの呟きにスタイアは背中越しに苦笑する。
「大丈夫ですよ。ラナさんがしっかりと看病してくださったんでこの通り、傷の方は大分よくなりました。仕事をする分には差し支えはありません。ありがとうございます」
ラナは首を左右に振る。
「グィン・ダフは……セトメントです」
そう言って無理に笑ってみせるラナをスタイアは辛そうに見つめた。
何も言わずヘルムを被った。
「わしはいきあすよ」
穏やかであったスタイアが唸るように言った。
「なして死ななっきゃならんですか。まだ子供でねがったか。魔物だ人だと言ったってやってること畜生と変わらんでねーか。死にたくねって言ってる子供ば斬って便利な世の中こさえてそれでええわけねじゃろがや」
帷子を着込み、すり切れた褐色のローブを羽織るとスタイアは腰に剣を吊した。
ラナは後ろからスタイアを抱きしめ、額を肩に埋める。
スタイアは肩を小さく震わせ、ラナを振り払った。
すがるように見つめるラナにスタイアは燭台の炎がかげる中、小さく呟いた。
「ラナさんにはいっつも心配かけます。ほんだら、今度も迷惑かけてすまねっす」
そして、褐色のローブを羽織るといつもと同じように、だが、どこか寂しげに呟いた。
「まんずまず、斬りに行きます」
◆◇◆◇◆◇
雨雲が重なり雷雲となる。
激しく石畳を叩く雷雨と夜の闇に包まれヨッドヴァフの夜は過ぎる。
稲光が夜の闇を切り裂き、激しく、白く、じっと耐えるヨッドヴァフを闇の中から浮かびあがらせる。
フレジア教会のステンドグラスが雷雨に濡れ、天使に支えられた聖母フレジアが静かに泣いていた。
フィルローラは寝付けず、私室から外をずっと眺めていた。
環石がなければ教会は法術を失い、その奇跡にすがる人達からの信仰を失う。
定期的に法術の治療を受ける必要がある人も居る。
現に、教会の奇跡が無ければ命に関わる人もいるのだ。
だが、果たしてそれは正しいことなのだろうか。
迷う程でもない。
泣き叫び、命乞いをする子供を殺していい道理はないだろう。
正しくはないのだ。
人が家畜を殺すのは生きていく為だ。
人が魔物を殺すのも生きていく為であるべきなのだ。
そもそも魔物とはなんなのだろうか?
進化の過程を外れた異形の動物であることは基礎過程で習ってきてはいる。
だが、しかし、そうではない何かがある。
「……違う。私は恐ろしかったんです」
とりとめもない思考が、自分を逃がそうとしていることに気がつき嫌悪する。
フィルローラは静かに溜息をつくと、最も知りたくない自分を見つめた。
「助けを求める、あの子を助けられなかった」
儀式の時、自分は全く、何もできなかった。
大勢の黒衣の僧、教会の威信、司祭であるという自分の立場。
それらのものを前に、かくあるべき自分というのが立ちすくみ、救いを求める少女を見殺しにした。
自分が生きるために、見殺しにした。
もし、自分と同じ立場であれば他の大多数の人もそうしたであろう。
だが、それでも。
――見殺しにしない人も居る。
降りしきる雷雨の中に、幽霊を見た。
銀色の剣が雷光の中に鈍く光る。
激しく雷雨に叩かれ、褐色のローブが翻る。
「あれは……」
フィルローラはぞっとした。
理解した。
――司祭でもなく、学者でもなく、そして騎士でもなく。
ただ、ただ、人に死を振りまく存在がそこに居た。
その時だ。
背後から人の気配がした。
「え?」