第4章 『死者の王国 愛憎の楔』 15
転位の魔術で出現する先を選ぶことはできない。
いや、正確にはそのような術式が組まれた魔術環石も存在する。
だがそれは恐ろしく高価で大がかりなものとなる。
おそらく、壁の外に出たのだろう。
粗末な家屋が煩雑に並び、酷い臭気が漂っている。
見上げれば高々と築かれたグロウリィドーンの外壁を見つけることができた。
褐色の幽霊といえどもここまでは追って来はすまい。
だが、サステナはそう思う一方で心臓の動悸を抑える。
「なにッ?……あれ……本物の幽霊の方がよっぽどマシよッ!」
ゴースト種と呼ばれる魔物が居る。
実体を持たない半霊体生物とも言われる。
絶対数が少なく、討伐例や捕獲例も稀少な種だが、サステナは対峙したことがある。
だが、あれほどまでに凶悪な暴力性をもったものではなかった。
グロウリィドーンでは未だ鐘が鳴り続けている。
遠くに鳴る鐘が憎らしく聞こえる。
しつこく鳴り続ける鐘の音にサステナは鼻を鳴らす。
「追ってはこれまいさ……しばらく身を潜めて戻ればいかようにでも潰してやる機会は……」
サステナは怪訝に思う。
「何?……何なの?……」
違和感が拭えない。
その違和感は確かに警鐘を鳴らしていた。
「……鐘の音が……近づいている?」
離れたはずである。
だが、耳の奥にねばりつく鐘の音が遠ざかることは無い。
「なんで……ッ!」
耳を塞ぎ音を閉め出す。
鐘の音が遠のき、僅かに安堵する。
幻聴では無い。
確かに、外から聞こえてくるものだ。
だが、だとしたら――
「……フィダーイーを騙るには小娘のように怯えるではないか」
鐘が、再び鳴りだした。
どこまでも、鈍く響く音が止まらない。
気がつけば、眼前に小さな魔物が飛んでいた。
「……フェアリアン?」
「そのような半霊体と一緒にされては困るな?いみじくも貴様の何倍も生きてはいる」
可愛らしい外見とは裏腹に、どこまでも怜悧な光を称えた瞳でサステナを射貫く。
パーヴァリア・キルの酷薄な笑みを浮かべる唇が愛らしく紡いだ。
「だが、今これから死ぬ貴様には詮方無いことよ。死の妖精、知らぬ訳でもあるまい」
死の妖精。
その伝説はヨッドヴァフの古い人間であれば知っていた。
サステナ・スリィジもその伝説は知っていた。
「最強の……フィダーイー」
「そうとも、フィダーイーを語るアサシン紛いを始末しに来た。そこにセトメントは無い」
サステナは背を向けずに走り出した。
一体、何がどうなってこのような化け物に狙われるのかが理解できなかった。
そもそも、ヨッドヴァフにこのような化け物が居ること事態理解できなかった。
「お前が真に恐れるべきは我々ではない」
パーヴァは嘲るように笑い、そう告げた。
サステナは一つの事実に気がつく。
それは、よく考えれば当たり前のことであった。
――そう、もともと彼女が知っている秘密とは、そういうもののはずだった。
理解し、愕然とした時には既に遅かった。
「さぁ、逃げてみせろ。我々よりもっと、恐ろしいものがお前を殺しに来る」
◆◇◆◇◆◇
どこをどう走ったなど、最早覚えていなかった。
どこへ行っても鳴り響く鐘が執拗にサステナを追い立てた。
「どうなってるのよ……何で鐘の音が鳴り続けるのっ!」
半狂乱になって叫び、サステナは荒く息をつく。
消えないのであれば、消してしまえばいい。
危険であればそこから逃げればいいのではなく、追い立てるのだ。
魔物であれ、人であれ、殺せることには変わりない。
それが危険であることには変わらない。
だが、逃げ続けられないのであれば殺せばいい。
サステナは鐘の音を静かに聞き分け、追いかける。
人気の無くなったグロウリィドーンの路地を抜け、鐘の音を追った。
今度は鐘の音が遠くなった。
一定の間隔を保ち、鐘の音は鳴り響いている。
じっと、息を潜めて耳を澄ませる。
そして、鐘の鳴る位置を定めた。
「そこ……ね」
サステナは腰に吊した獲物を手に走る。
僅かに湾曲した剣を引き抜く。
幻術ではない鐘の音であれば、断つことができる。
あの鐘の音を断たねば、追われ続ける。
――あれは、そう、獲物の位置を伝える合図なのだ。
鐘の音を追い詰めたサステナはそこで訝しげに眉を潜める。
「……何もない?」
何も、無いのだ。
だが、鐘の音は執拗に鳴り続ける。
その距離は再び離れてゆく。
耳を澄まして再度、その位置を手繰る。
何度も、何度も、追う。
だが、鐘の音は彼女が全力で走るより速く、どこかへと消え去る。
魔術の類を疑う。
だが、何度も何度も繰り返される転位の魔術などありはしない。
転位の環石は恐ろしく高価なのだ。
だが、その可能性を考慮してもこれだけ近くで転位したのであれば転位の光を見逃すはずはない。
理解できない恐怖に再び冷静さを失いそうになったサステナは胸を押さえる。
「……からん、ころん。からん、ころん」
いつの間に目の前に現れたのだろうか。
ひどく、うらぶれた男がサステナの前で歌っていた。
「どうでい。ウマイモンなのか。悪意でもって挽き潰した人の味ってのは」
シャモンである。
記録として、知ってはいる。
リムローの依頼に同伴した冒険者の一人だ。
「別に、冒険者がおっ死ぬのは問題じゃあねえんだ。てめえの命を的にして活計を立てる。死して草葉の陰、風雨に流るるはその身上」
ゆらりゆらりと迫るその姿はどこか暗く燃えていた。
「なれば、人の世の奸計に落ち散るは人の世の無情か。真に用なく殺めるは畜獣をもってしてもならざる也」
サステナは目を見張る。
シャモンの周囲から、褐色のローブを着た者達が静かに現れ出す。
いや、褐色の襤褸を纏った物貰い達が、だ。
一人ではなく、十人に少なく、百人で届かず。
「宿世に背負い、非情が育み、縁の作る愛憎の楔。鉄鎖の如く、我らは繋ぐ。あい変わらぬ朱鉄の血を分かつ人として、褐色の土にまみれ、泥を啜り、涙すら垢に乾こうとも」
――千を越える。
鐘が鳴り響いた。
物貰い達が、一斉に鐘を慣らしたのだ。
「不肖、江湖の民は卑情にもって、非情とあって、その身上、至情をもちまして不祥と致しあんす」
サステナは驚愕に目を見開く。
知らない訳ではなかった。
だが、その実体を正しくは知らなかった。
「……コウコの民……こんなに居るなんて」
おそらく、ここにいる者が全てではないのだろう。
冒険者ギルドのマスターとして生活に窮している者がどれほど冒険者としてこの国に存在するのかは知っていた。
その何割かでもが、もし、そのコウコであるとしたら。
「嫌よッ!」
叫んで、逃げ出した。
逃げ切れるものではない。
逃げ切れないということは、既に理解していた。
このヨッドヴァフに溢れている浮浪の輩のいずれかが自分をやがて見つけ出すだろう。
追うように鐘の音が責め立てる。
「まだよッ!まだ、終われないのッ!ヴァフレジアンとして私は……まだ何も成し遂げていないっ!」
どこを逃げなければならない、等はもはや配慮していなかった。
一直線に自らの館に戻り、その閉ざされた正門を飛び越える。
暗く、闇に沈んだ館にはまだ、自らが雇った傭兵達が待機している。
時間さえあれば、フィダーイーにまた私兵を融通してもらえる。
「……っ?」
サステナはその匂いを良く知っている。
それはどこか懐かしくもあり、また、先も嗅いだことのある匂いだった。
自らの邸宅の扉を開けると、そこに、その匂いを放つそれが静かに広がっていた。
赤い、血である。
傭兵達は善戦したのであろう。
激務を終えて安らぎを覚える自らの邸宅の壁のあちこちに激しく争った痕が見えた。
だが、それと同じ数だけの無惨な死体がホールに転がっていたのだ。
その中心にはどれほどの返り血を浴びたのだろうか。
それでも鈍く、重く、不気味に輝く黒い鉄鎖を握り、赤をどれだけ吸っても変色することのない黒を身に纏った巨漢が居た。
「……ああ」
ユーロは打ち倒した傭兵達の亡骸を見下ろし、静かに息を吐いた。
そして、気だるげにサステナを見つめるとじゃらりと鎖を慣らした。
その体にはいくつもの槍が刺さっている。
最早、致命傷と言えるべき傷を負っている。
だが、それでも。
ユーロは静かにサステナを見つめると、ゆっくりと歩み寄る。
「死者が、お前を呼ぶ」
何を言っているのか理解できなかった。
それもそのはずである。
彼女は彼が結論から先に言うことを、知らない。
「死者の国は、お前を迎える」
背筋に氷柱をねじ込まれたような恐怖が沸き上がった。
伸ばされた腕をかいくぐり、サステナはユーロの首に剣を叩きつけた。
半ばまでめり込んだ剣は確実な手応えをもってその肉を切り裂き、骨を断った。
だが。
「……足掻くな。生を足掻く尊さを、貴様は踏みにじった」
ユーロは冷淡な眼差しでサステナを見下ろしていた。
魔物とは違う。
生物とは、違う。
この男はもっと、別の何かだ。
「ひぃ……」
サステナは血の気の失せた顔で邸宅の階段を上りきる。
緩慢なユーロの動きはサステナを追うことはしなかった。
沢山の槍や、剣の重さがそれをさせなかったのではないかとも思える。
だが、そんなことに思考を巡らせる暇などサステナにはなかった。
私室へ至る長い廊下の向こうに、褐色の幽霊が居たのだから。
「……褐色の、幽霊」
人、なのであろう。
多くの人を見てきたサステナはそれが人であることに疑いは持たなかった。
先程までに見てきた魔物や、集団、人でもなく、魔物ですらない者とは明らかに違う。
人という器に入った、自分と変わらない、人である。
だが、何故だろう。
背後を向けたその褐色の幽霊は、そのいずれよりも恐ろしく見えたのだ。
一体、どのような経験をしてくればこのような人間ができあがるのか。
魔物より、恐ろしく、集団より、怖れを抱かせ、人でもなく、魔物でもないものより正体が、わからない。
鐘が鳴り響いた。
褐色の幽霊がゆっくりと振り返る。
サステナは手近な部屋のドアを開き、中に隠れた。
致命的なミスである。
自ら、逃げ場所の無い場所へと逃げ込んだのだ。
こつ、こつ、と、グリーヴの踵が絨毯を叩く、重く柔らかい音が静かに響く。
褐色の幽霊は扉を開けて回るようなことはしなかった。
確実に迫る気配に、サステナは子供のように震え神に祈った。
どうか、褐色の幽霊が自分に気がつかず立ち去って下さいますように。
叶わない願い、奇跡を願った。
足音が遠ざかる。
窓から差し込む月明かりの中で、サステナは両手を胸の前に組み、必死に祈った。
どうか、どうか、と。
「……ぁ」
足音がしなくなった。
人の気配も、しない。
助かったのだろうか。
静かに、手を解く。
助かったの、だ。
サステナは安堵に顔を覆った。
「人激ッ!」
どん、と胸から白刃が生えた。
分厚い扉を破り、突き込まれた剣が開いた両腕の中で鈍い輝きを月明かりの中、讃えていた。
赤い血が静かに刃の上を滑り、滴る。
ほのかに熱を持ち、赤く輝く血が流れて行く。
急速に熱を失い、光を失っていく世界にサステナは血を掻き抱く。
扉の向こう、剣を突き込んだスタイアが忌々しげに吐き捨てる。
「標とならぬ長に生きる価値、あろうものかよ」
引き抜ぬかれた剣を追って血が溢れた。
扉の向こう、溢れた血が静かに隙間から広がった。
忌々しげにその血を見下ろすとスタイアは静かに剣を納めた。
「死んで詫びろ、畜生めが」
怨嗟の声がねばりつくように耳に、最後に残る。