第4章 『死者の王国 愛憎の楔』 10
「おそらく、今日が最後の探索だ」
「はい」
携行する食料や装備品の摩耗を考えると、あと二日は滞在できるだろう。
だが、不測の事態を想定するとなればそれは多少、心許ないものである。
だからこそ、今日で打ち切ると明言することで意識の統一を図る。
帰りの行程とて安全な行程ではない。
今でこそ、緊張が疲労を押し隠すが確実にそれは彼等の体と意識を蝕む。
リムローは弓を背負うと夜営の撤収を済ませて先を歩くシャモンらに追従した。
「リムお姉ちゃん、はいこれ」
とてとてと近寄ってきたタマがリムローに袋を手渡す。
「これは?」
「環石。少しくらい持って帰らないともったいないよ」
無邪気な笑顔で笑うタマにつられてリムローも笑ってしまう。
リムローは袋の中にある高濃度環石の量を見て、しばらくは生活できる稼ぎになると見積もる。
そうすると、自然に顔がほころぶ。
「いい顔だ」
ユーロが苦笑していた。
「あ、いえ……その」
「服でも買うといい」
リムローは顔を染めて視線を逸らしてしまう。
奇しくも同じことを考えていたとは言えない。
「……死者の王国の最深部だ。気持ちを切り替えていけ」
先を行くダッツがそう告げ、リムローは自分がニンブルドアに居ることを思い出す。
開け放たれた環石で作られた水晶の扉を潜ると、そこには幻想的な光景が広がっていた。
赤い環石などは見たことがなかった。
それらがまるで咲き誇るように中庭に花壇を作り、城への道を彩る。
風が吹くたびに赤い粒子が舞い、赤い星空を作る。
魔物すら近寄らない城の門を潜ると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
「これは……」
薄く、青白い水が波紋一つ無く城のホールに敷かれていた。
その中心に環石でできた精緻な塔が建てられ、塔の上には雲が浮いていた。
何の目的で作られたかは理解できない。
だが、それは理解できないからこそ彼等の意識を引いたのであってその束縛から解放されれば彼等はその異様さに気がつく。
階段が、あった。
「なんで……こんなものが?」
階段が、あるのだ。
イシュメイルは静かに城の中を見渡すことなく告げる。
「……生物の中で唯一、高度な知恵を持ち広大な生息域、そして発達した社会系統を持つ形がある」
言おうとしていることは、ここまで踏破してきた彼等には理解できていた。
「なら、魔物の形も行き着けば、人間と同じになるってこと?」
タマの疑問にイシュメイルが苦笑した。
「一つの形としてね?……だから、人の使う規格の階段なんかが、あるんだ」
愕然とするリムローの横でシャモンが大きく溜息をつく。
「魔性の女ってのを抱いてみるのも悪かぁねえが……」
「あまり、気持ちの良いモンでもねえな」
ダッツは顔を歪めてそう吐き捨てた。
よく見れば、塔の中には人の形をした魔物が居た。
体毛こそ無く、まだ完全な人の形を成してはいない。
だが、そこには明らかに人と同じ姿をした魔物が成長していた。
「……いつまでも見ていても仕方あんめえ」
シャモンは意を決すると城の中に足を踏み入れた。
波紋が広がり、青い水面が赤く染まる。
城が静かに振動し軋みをあげる。
塔が明滅をはじめ、虫の鳴き声のような澄んだ音が響き渡る。
「……来るぜ?」
シャモンは一言だけ添えると、波紋すら立てずに水の上を滑った。
その冷たい殺気はリムローですら感じられた。
まるで沸き上がるようにそれらは城の柱の影から姿を現した。
漆黒のローブを身に纏ったそれらは外観から察するに人の形をしていた。
いや、人と縁のある者なのだろう。
それぞれ、手には人が作り出した、鉄の剣を携えている。
「フィッダ・エレ」
イシュメイルが忌々しげに呟いた。
馴染みの無い単語に、一同が怪訝な顔をする。
だが、イシュメイルはそんな一同に構うことなく、姿を現した黒衣の集団に吠えた。
「フィダーイーは古き盟約に従い、セトメントを果たすッ!主なきニブルグライムにて貴様達は何をしているッ!」
怪訝な顔で振り返るシャモン。
「おい……イシュメイル」
「答えよ!ニザリオンの聖域を荒らす不届き者め!フィッダの誇り無きエレよ!」
黒衣の集団はイシュメイルの言葉に何も返さなかった。
ただ、携えた剣を眼前に立て、静かに身を引くと一斉に襲いかかってきた。
尋常ではない速度だった。
矢のように放たれた黒衣の集団は一瞬でシャモンの側まで駆け寄ると、剣を振り抜きざまに駆け抜ける。
そのまま背後のダッツに斬りかかり、ダッツは僅かに身を捩って甲冑でその剣を滑らせるのが精一杯だった。
弾けた鉄が火花と、澄んだ音を立てた。
呆然と立ちつくすリムローに黒衣の襲撃者が迫る。
眼前で振り上げられた剣を、呆然と見上げるしか無いリムローは確かな死の手応えを感じた。
「……ッ!」
それでも体は反応した。
鋼鉄の合板でできた弓を前につきだし、剣を受け止めようとする。
だが、剣は弓を押し、そのままリムローが纏う革の鎧を引き裂いた。
一拍遅れて、焼けるような痛みが押し寄せてくる。
「かはっ……はっ……」
水面に倒れ込み、青い水が赤く染まっていくのがわかった。
誰かが自分を抱えるのがわかった。
「お前は、死なない」
ユーロはそう告げると黒衣の襲撃者に向き直った。
襲撃者は跳躍し、ユーロの頭上で錐もみしながら反転するとその背中に剣を振るう。
だが、ユーロの足下にぶらりと垂れ下がった鎖が、まるで意思をもっているかのように跳ね上がると襲撃者を打ち据えた。
ユーロが腕を上げると、跳ね上がった鎖が横凪に襲撃者を叩こうとする。
だが、襲撃者は黒衣を閃かせ、何度も宙返りをしながら跳躍しその鎖を避けた。
その向こうではシャモンが徒手で三人と渡り合う。
目にも止まらぬ早さで振るわれる剣を、幾重にも残像を残し水面を滑り避ける。
背面から心臓を抜き出そうと突き込まれる腕を襲撃者は同じように残像を残して避け、剣を繰り出す。
ダッツは襲撃者の剣を槍で捌くので精一杯だった。
だが、その剣が肩口に閃き、高々と血が昇る。
片膝をつき、水面が激しく跳ねる。
槍が激しく振るわれる。
突き込めば正面に、振るえば円弧に。
衝撃が槍から生じ、襲撃者の黒衣を薙ぐ。
襲撃者の黒衣が衝撃に切り裂かれ、そこから青い血が噴き上がった。
黒衣の向こうでミリミリと音を立てて傷ついた体が再生される。
だが、傷を負ったリムローの目を引いたのはそんな事実ではなかった。
はだけた黒衣の向こう、青白い体躯の胸に刻まれた刺青【タトゥー】。
――ヨッドヴァフの紋章。
黒衣の襲撃者には、確かにその紋章が刻まれていた。
タマは最早、生き残れないと覚悟した。
せめて、スタイアにムギュルスの茎を届けられればと思う。
だが、シャモンを振り切った黒衣の襲撃者が自分に向かってくるのを見てそれが叶わないと知る。
「セトメントを果たします」
それは、唐突にやってきた。
青い光が爆ぜ、視界が染まる。
薄く赤く染まった水面に青い環石の塔の影が重なり、紫紺の道ができあがる。
紫紺の道が淡く輝き、青い燐光が泉のように沸き上がる。
沸き上がった燐光は互いに螺旋を描き、絡み合い、そして激しく輝く。
気がつけば、そこに人が立っていた。
「フィダー・イー」
少女であった。
どこまでも白い布を纏い、白銀の髪をなびかせ、紅の瞳を静かに開く。
彼等は言葉を失った。
死者の国の静寂を統べる王城に彼女は鈴の音を響かせ、佇む。
深紅の瞳が彼等を憎しみではなく、親しみを込めて向けられていた。
「……ラザラナット・ニザの愛したイー……グィン・ダフは、古きセトメントのままイーとなる」
景色が一転する。
城の内壁の環石が明滅すると、全ての光を奪い去る。
淡く輝く紫紺の道に、星が広がり、天上の光が全てを包んだ。
彼等は言葉も無く、彼女の前に立ちつくす。
「ニザリオンの扉へは、未だ、至らず。力なきイーを統べる御旗がやがて、汝らに試練を与える。その時、ニンブルドアは汝らと袂を分かつ。それがイーである為の盟約である」
星々の瞬きが過ぎ去り、陽の光で燃え上がる大地が現れる。
それらを背に、少女は告げた。
「力なき赤き鉄の血の民よ。紫紺の姫は告げた。汝らは強さを繋ぐ。だからこそ、ニザリオン・ラザラナットは汝らに寄り添う。だからこそ、力なきグイン・ダフはイーの暴虐を許す。良き友が痛みを受け入れるのと同様に」
少女はどこか寂しげに呟いた。
遠く、遠くから広がる光が意識を呑み込む。
その中で、彼等は消え入るような少女の声を聞いた。
それは、どこまでも哀しげだった。
「それが、私の決めたセトメント」
◆◇◆◇◆◇
ブルゾナの木はコルカタスにしか、生えない。
グルマグの蔓を幹に巻いたブルゾナは特有の広い葉を広げ、日の光を浴びていた。
朝焼けに燻るコルカタス大樹林の冷気が肌を冷ます。
熱を持つ傷に、木々の放つ蒸気に載った冷たさが心地よい。
吐き出した息が震え、リムローは自分が今まで夢を見ていたのではないかと錯覚する。
「……なんだったんだ……今のは」
ダッツが呆然として、呟く。
その槍の先には切り払った黒衣が絡まり、風に僅かに揺れていた。
シャモンは腕を組み、じっと虚空を見つめていた。
「さて、ね」
どこか思うところがあるようにも見えるが、問いただせる雰囲気ではなかった。
気がつけば、イシュメイルとユーロの姿が無い。
「ねえ、シャモさん……ユロさんとイシュ兄がいないよ?」
「大丈夫だろうさ。心配する方がバカを見る」
「でも、ひょっとしたら……」
「濁水痰魚、清水に戻らず。本来はかくあるべきなんだろうさ」
そう呟いたシャモンは腕をほどくと、リムローを抱えた。
「……手ひどくやられてるな」
「大丈夫です」
強気に答えたリムローだが、腕に違和感があった。
「大丈夫な訳ねえよ。毒の仕込まれた剣なんざ受けやがって」
シャモンは手早くリムローの鎧を外すと腰に吊した容器から酒を口に含むと、手早くリムローの酒を吹きかけた。
「痛っ!」
「我慢しろ」
シャモンは袖からいくつかの丸薬を手にすると、それらを手のひらの上に載せて叩いて潰すと粉末状にする。
それを自らの口に含めると、リムローの肩口に吸い付いた。
「ひゃ」
シャモンの舌が傷口をなぞる。
丸薬は毒に自らが冒されないようにするための予防でもあり、また、毒を吸い出した傷口の悪化を防ぐものでもある。
シャモンはひとしきり毒を吸い出すと自らの外套を破ると応急の包帯を作り、それでリムローの傷を塞いだ。
その隣ではダッツが自分で傷の手当てをしており、タマが手伝っていた。
「応急措置が済んだら引き上げる」
ダッツが怪訝な顔をする。
「ユーロとイシュメイルはどうするんだ?」
「戻れなければ死ぬ。それだけだ」
リムローは背筋が寒くなる。
タマがどこか恨めしいような目でシャモンを見ていた。
「タマ公、そんな目で睨んだってどうしょうもあるめえよ。止めやしねえぞ?お前が一人でニンブルドアに行って探してくるのは自由だ。どの道、今の状態で探しに行ける訳もねえ。俺たちですら下手をすればここで命を落とす」
それはどこまでも冷静な判断だった。
反論はできない。
従うしかない。
皆が悲嘆に暮れる中、それは姿を現した。
「ひどいな」
ユーロだった。
その後ろにはイシュメイルも居る。
「ああよかった。小便している間に置いてかれたらどうしようかと思ったよ」
シャモンは呆然として、それから、苛立ちを隠せずに頭を振る。
そして、唸るように二人を睨みつけると吐き捨てた。
「……小便して死んでこいこの野郎!しんみりしちまったじゃねえか!」