第3章 『セトメント・セトメント』 7
フィルローラは自分が夢の中にいるのではないかと錯覚した。
のどかな昼の最中、神秘的なコルカタス大樹林の中に開けた野っ原の中、スタイアが長剣を手にし立っている。
その眼前には何百もの魔物がひしめき、うなり声を上げていた。
それらが順番にスタイアの前に立ち、飛びかかり、斬り伏せられてゆく。
巨大な体躯からは想像もできない俊敏さで飛びかかる双頭の獅子の吐く炎と吹雪をかいくぐり、振るわれた爪を腕でいなし、神速の突きを顎の下から二度、それぞれの頭に繰り出す。
途端に力を無くした獅子が地面に重々しい音を立てて崩れ落ち、スタイアは剣についた血糊を拭う。
もう既に斬り伏せた魔物は百を超える。
剣は切っ先が欠け、根本から曲がり、力を無くしたスタイアの手に千切られた布でがんじがらめにくくりつけられている。
スタイアの甲冑は幾たびに魔物の爪や牙で穿たれる度に傷を残し、鋭いささくれを立たせる。
その間から流れる血が肩を、胸を、腹を伝い、太ももをぐっしょりと湿らせ、暖かな陽光を照り返し、湯気を放っていた。
次の順番を待っていた灰色の巨人は三つの腕に巨大な棍棒をそれぞれ持ち、スタイアの前に立ちはだかる。
フィルローラが驚いたのは、その巨人が静かにスタイアに一礼をしたのだ。
スタイアは静かに腰を落とすと剣の切っ先をその魔物へ向ける。
巨人はそれを待って棍棒を構えたのだ。
フィルローラは何度となくスタイアに声をかけようとした。
だが、何故だろうか。
そうして丸めた背中を自分に向け、震える膝で幾度となく立ち向かってくる魔物に剣を向けるスタイアを止められるとは思わなかった。
その頼りなく、いまにも崩れ落ちそうな背中にスタイアが何かを必死に背負っていることだけは理解できた。
同時に振るわれた棍棒を目にも止まらぬ速さでいなすスタイアの剣が中程から折れる。
棍棒がスタイアの腹に鈍い音を立ててたたき込まれ、スタイアの背中がはじめて地面に触れ、勢いよく転がる。
スタイアは転がりながら起き上がり、折れた剣を大上段に構えると、震える膝を伸ばして立ち上がった。
その口元からは血と、か細い息が吐き出されているが、赤く染まり、力強く噛みしめた歯がぎりぎりと音を立てていた。
よろよろと踏み出すスタイアに巨人が再度、棍棒を振るう。
「チェァ――ァィイアッ!」
裂帛の気合いを迸らせ、スタイアの体躯が疾風と共に掻き消える。
巨人の膝を切り払って潜り、反転し跳躍、首筋にしがみつくと折れた剣で無理矢理にのど笛を掻き切った。
青い血を勢いよく喉から噴き上がらせて倒れる魔物と一緒に地面に倒れ込むと、スタイアはよろめきながら立ち上がり、次の魔物の前に立った。
それはフィルローラが聞いてきた騎士達の英雄譚とはほど遠い悲壮な背中だった。
雄叫びを上げる魔物を前に、弱々しく踏ん張り、申し訳なさそうに剣を構えるスタイアはそのいずれからもほど遠く、儚げだった。
次の魔物もただ一度の斬撃で斬り伏せたスタイアは静かに、静かに息を吐き出し溜息をついた。
「……しんどいなぁ」
弱々しい苦笑を寂しげに浮かべてスタイアは震える腕を持ち上げて剣を構えた。
いつ根本から折れてもおかしくはない剣にすがるように背中を丸める。
魔物達の雄叫びが一際激しくなる。
まるで輪唱するように吠えると、魔物達がスタイアの前に道を空けた。
「グィン・ダフ、ラッサロッサ・ハガルグゥン」
凛とした声が響き、魔物達の咆哮が消えた。
魔物達が開いた道を、灰色の肌を持つ少女を抱え、一人の女性が歩いていた。
フィルローラはその姿をどこかで見ていた。
ラナだった。
ラナは悠然と魔物達の開いた道を歩み、フィルローラの元へ来る。
そして、フィルローラに目をくれることもなく五つ目の魔物にその少女を引き渡した。
「セトメント・セトメント」
五つ目の魔物はそう呟くと腕を上げ、ラナにひれ伏した。
静かに、そう、静かに魔物達が森の中へと消えてゆく。
それぞれが静かにスタイアに一礼し消えてゆくなか、スタイアはただ風に吹かれながら静かに震えていた。
朝起きて、夢と現実の狭間に居るような心地のままフィルローラはしずしずと立ち上がる。
ラナはようやくフィルローラをその赤い瞳で見つめ小さく一礼した。
そうして、静かにスタイアの前に立つ。
スタイアはまだ、剣を掲げたまま、次の魔物を待っていた。
「スタイアさんっ!」
スタイアは一度びくりと身を震わせるが、目の前に立つラナを見てゆっくりと全身の力を抜く。
糸の切れた人形のように地面に倒れ込んだ。
「スタイアさんっ!大丈――」
フィルローラがスタイアに駆け寄ろうとするが、そのスタイアの傍らにそっとラナが膝をつき抱きかかえた。
蹲り、子供のように怯えるスタイアをあやすようにラナが陽光の中で抱きかかえる。
フィルローラはその光景にしばしば目を奪われた。
まるで子供をあやすかのように傷ついたスタイアの額を撫でるラナの物憂げな顔が美しく、まだ、夢の中に居るような心地であった。
目の前に広がる光景が美しければ美しいほど、何故か胸の奥が締めつけられる。
フィルローラは吐き出した息にようやく現実を覚え、のろのろと歩み寄った。
ラナの膝の上で細い息を吐くスタイアは擦れる声で囁いた。
「フィルさん……先ぃ、戻ってて下さい」
「何をバカなことを。その怪我では命に関わりますよ」
血で汚れた顔にいつものように冗談を言う笑顔でスタイアは言った。
「だって、男の子ですから」
ラナの膝の上からのろのろと頭を上げ、地面に座り込むと、空を見上げながら大きな溜息を落とした。
そうして、自分が斬り伏せた魔物達の亡骸を見て頭を垂れた。
「まんず、まず、ごめんよぅ」
そんなスタイアにフィルローラは静かに顔を伏せて一礼すると、黙って立ち去る。
何故、や、どうして、等の疑問はいくつもあった。
だが、それでも、今はそれしか、できなかった。
◆◇◆◇◆◇
騎士団の撤退が完了したのは夕刻だった。
大樹林の外の前進駐屯地に全部隊が引き上げる頃には陽が西の空に赤やけを作っていた。
汗だらけになったアーリッシュは自分の直轄部隊の点呼を終えると、ダッツを呼び、各隊の状況を把握するため伝令を走らせた。
その傍らでスタイアの姿が無いのを知ると、失礼を承知の上でアルテッツァが傷の手当てを受ける天幕を尋ねた。
天幕の中ではシルヴィアがアルテッツァの細い足に包帯を巻いているところだった。
「なんだ。最近の騎士は子女に対する礼節も知らんのか」
「肌を露わにしている子女の寝台を尋ねるのは夜に限るとでも申せば、彼のように振る舞えるのでしょうかね?」
アーリッシュは苛立ちを隠そうともせずにアルテッツァに詰め寄った。
「それは魔物による傷じゃあない、刀剣による傷だ」
「遠巻きにはよくわかるまい。たとえもしそうだとしたら、私はひょっとすると貴様の友人の首を刎ねなければならぬだろうよ」
「姫様は初の戦場で血の臭いに酔っておられる。軽率にそのようなことを口にしないでいただきたい」
アルテッツァはしばしアーリッシュを睨み、鼻を鳴らした。
「誠実で朴訥だというのは嘘のようだな。貴様の箴言、胸に止めておく」
アーリッシュは少女ながらいささか聡すぎるアルテッツァに確かな王族の器量を見た。
「……姫様、いかようになされるおつもりか」
「貴様は全て知った上でそう我に尋ねるか?」
「知らずとも察することはできるでしょう。私の友人の命がかかっているのです。私は私の名誉にかけて彼を助けねばならない」
アルテッツァは鼻で笑う。
「あの軽薄な男のことだ。適当なところで尻を捲っているやもしれんぞ?」
「ありえない」
「……何故、そう言い切れる」
「僕が彼の友人だからです。戦場で得た友とはそういうものです」
アーリッシュはそれだけ告げると、続けて尋ねた。
「して、彼は今どこに?」
「おそらく魔物の巣窟だろう。一人で先駆けして全滅させるツモリだ」
「それならばフィルローラ司祭が居ないことはおかしいですね」
アルテッツァは苦い顔をする。
「カマをかけられるのは嫌いだ。教えてやる。スタイアは魔物の集落に直談判をしに行ったのだよ。こちらが魔物の要人を生け捕りにしたことで相手を引くに引けない状況にしてしまった。そうなる前にフィルローラを人質に時を稼ぐツモリだ。お前の友達とやらは何も知らない子女を人質に取る酷い男だということが理解できたか」
「僕が彼の立場でも、そうするでしょう」
アルテッツァは鼻で笑う。
「できるか?お前に」
「……これより、第七騎士団はフィルローラ司祭の奪還に向けて強行軍をかけます。その裁可を得たく参上した次第です」
アルテッツァが僅かに驚いた。
「多くの血を流すぞ?」
「人は痛みでしか学べぬというなら、真っ先に血を流してみせましょう」
淀みなく言い切ったアーリッシュにアルテッツァは侮蔑の表情を消して答えた。
「アーリッシュ・カーマイン卿に命ずる。直ちに第七騎士団を率いてコルカタス大森林に存在する魔物の集落を襲撃せよ。手段は問わない」
「御意」
丁度、その時だ。
聖堂騎士のタグザが天幕にあわてて飛び込んで来た。
「急報にございます!撤退中の第六騎士団が何者かに襲われ半壊した模様です!さらに冒険者隊の一部が逃走、離反して略奪行為を……アーリッシュ卿?」
「……そういう、ことか」
アーリッシュはぎりりと悔しそうに奥歯を噛みしめる。
アルテッツァはしばし沈思黙考した後、一人、得心のいった様子で頷いた。
「いささか事態が混迷してきたようだな?どうする。第七騎士団でもって侵攻を行うのであれば裁可するが?」
アーリッシュは瞳を閉じ、大きく息を吐くと答えた。
「いえ。我々は冒険者離反による混乱を抑えるために尽力いたしましょう」
「奴の手の上で踊るか?」
「……道化を任されたのであれば演じきってみせねば格好もつきませんよ」
アルテッツァは小馬鹿にするように鼻で笑う。
「バカにされていると知ってもか?」
「自分と彼は友人です。私は彼の求めるものを演じきってみせますよ。最後の、最後まで」
アーリッシュは悲壮なまでの覚悟を秘めた面持ちで重く、そう答えた。
アルテッツァは急に真面目な面持ちになり口を引き結ぶ。
そして、最後につけくわえた。
「思うように致せ」
◆◇◆◇◆◇
グロウリィドーンの片隅に位置するリバティベル。
冒険者の集まるこの酒場に店主が戻ってきたのはそれから四日後だった。
「店主が戻ってきても店番から抜けられないってどういうこったよ」
ラナとタマが忙しく配膳する横で、帳簿をめくるシャモンが陰鬱そうに呟く。
「しょーがないでしょーに!がっつり怪我しちゃってるんだから。それよっか厨房の手が足りてないからシャモさん入って!」
「俺ぁ客だぞ?」
「そんなことはツケ支払ってから言ってちょーだい!利子取るよ?」
「……利子なんて言葉ぁ一体どっから覚えてくんだか」
シャモンはぶつくさと文句を垂れながら厨房に入る。
厨房ではユロアールがむっつりとしながら鍋を振るっていた。
「お前さんも大変だな。遠征が終わって懐具合が暖かくなった連中がバカみたいに騒ぎやがる。留守番連中の気持ちも汲んで貰いたいモンだぬ?」
「……許さないだろうし、許されるものではない」
「だよなぁ」
「行き過ぎた行為への報復は必ず行われる。人が、死ぬ」
シャモンはようやくユロアールが結論から喋る男であることを思い出し、大きな溜息をついた。
ぼりぼりと不衛生な頭をかきむしり、ぼつりと呟く。
「どうしたもんかねえ……」
「収まるべきところに、収まる」
苛ついた表情でシャモンは吐き捨てる。
「……棺に死体をいっつも納めてるお前さんが言うと説得力あるわな。スタイアの奴もかっちり埋めてくれや」
「それが、仕事というものだろう」
冒険者の集まる酒場リバティベル。
そこに、店主の姿は、無い。
第3章これにて終了。
ご感想、ご評価などくだされば励みになります。