第2章 『鉄の理、英雄の果て』 7
モルガンディアの魔物。
ヨッドヴァフ王国の西に広がるコルカタス大樹林の奥地、アルバドス大空洞を抜けた先にある古代王国ニンブルドアを守護する魔物。
オズワルドはその魔物を前に、部隊を指揮していた。
「第一部隊、第二部隊、盾横開けっ!第三部隊、突撃っ!」
盾を構えた部隊が横に開き、長槍を構えた部隊が割って魔物に突撃する。
長槍が何本も魔物の体に突き刺さり、魔物が雄叫びを上げて尾を振り回し、炎を吐く。
「第一部隊、第二部隊、前へっ!第三反転撤収!」
前面、頭上に盾を構えた第一部隊、第二部隊が前進し撤収してくる第三部隊を飲み込み炎や振るわれる尾から守る。
魔物は尾を振り上げ、真上から第七騎士団を叩きつぶそうとする。
「散開、集合ッ!」
まるで蜘蛛の子を散らすように部隊は広がり、叩きつけられた尾を避けると再び集合して盾の壁を作る。
「槍、構えッ!再度突撃隊形を取れっ!」
――勝てる。
オズワルドは戦場の中で感じる高揚を抑え、自らも剣を抜く。
モルガンディアの魔物は羽をはためかせ空を飛ぶ。
距離を取り、狼の双頭が炎を口腔の中で渦巻かせる。
「弓隊撃てっ!」
空に逃げた魔物の翼に弓が打ち込まれ、地面にたたき落とされる。
落ちた先の石造りの家屋が潰され、行き場を失った炎が溢れ、隣家を延焼させる。
逃げ遅れた子供が這いだし魔物と第七騎士団の間に蹲った。
オズワルドは躊躇無く告げた。
「突撃、止めを刺せっ!」
騎士達は槍を構えて、疾駆した。
子供は一斉に走り出した騎士を見上げ、父の名を叫んだ。
モルガンディアの魔物が起き上がり、腕を振るる。
――その間に割って入る者があった。
砕けた石道の破片が土砂降りの雨の中、砂塵を巻き上げた。
最前列の騎士達が吹き飛び、宙を舞う。
「……あれは」
オズワルドは不意の乱入者に眉を潜める。
子供を褐色のローブの中に抱え、モルガンディアのかぎ爪を片手で受け止め、もう片方の腕で巨大な槌を振るっていた。
「……褐色の幽霊」
「人を殺すが人の所業なれど、フィダーイーを手に掛けるは古き盟約を違えられはしない。盟約をもって私はセトメントを行う。人は人の手に、フィダーイーはフィダーイーに」
燐とした女性の声だった。
その背後からもう一人、褐色のローブを着た人物が立った。
「オズワルド卿、その命、頂戴いたしあす」
雨の降りしきる中、おだやかな声で告げた。
手には鋼鉄でできた肉厚の剣が握られている。
オズワルドは直感した。
その剣士がほんの少し前に、自らの剣を理解した男であることを。
でなければ、自分の前に出てくることは無い。
だからこそ、だ。
「……斬れっ!」
号令が響くや否や、散開した第七騎士団はそれぞれが抜剣し褐色のローブの剣士――スタイアに斬りかかった。
スタイアは駆け出すと自らに迫る騎士を三人、甲冑ごと切り伏せる。
肉厚の剣を目にも止まらぬ速度で振り払い、胴と下肢を断ち離し返す刃で背後から迫る騎士の胸を突き抜いていた。
「……今宵はいい、戦ができそうですね。オズワルド卿」
「この数に勝てると思うか?」
それは戦場を知るからこそ重みのある言葉だった。
「楽な方ですよ」
スタイアはそう呟いて騎士達の中に躍り込んだ。
槍を腕で払うとそよ風のように伸ばした切っ先で喉元だけを掻き切る。
距離を取ろうとする騎士に一瞬で肉薄すると力強く振るわれた剣で兜ごと頭をたたき割る。
連携を思い出した騎士達が盾を構える。
盾を構えて並び、壁を作る騎士達の突撃を真正面から横殴りの斬撃で切り伏せる。
後続に構えていた槍騎士達が唖然とした一瞬にスタイアは切り伏せた騎士の首を切り、力一杯蹴りつけた。
怯んで避けた騎士は次に懐に潜り込んでいる褐色の幽霊を最後の視界に焼き付け、頭を叩き割られて死んだ。
「……やれやれ、頑張るねえ今日は」
シャモンは闇から闇を走り、甲冑の騎士の首に腕をかけた。
スタイアに気を取られていた騎士は巻き付けられた腕に呻き、もがくが次の瞬間、あらぬ方向に首を曲げられこときれる。
ごきり、と鈍い音がして騎士はその場にこと切れる。
騎士達の中で一人、大立回りをするスタイアを目の端に捕らえ鼻を鳴らす。
「風々流転、山賊か騎士か。やることはたいして代わりはしないわな」
四人に突き込まれた槍を剣の一払いで切り払い、返す刃で突き殺していくスタイア。
その間を黒い風となったイシュメイルが横切った。
腕から青白い光が伸び、大気の中を走る間に一本の氷柱となり騎士の首に打ち込まれる。
衝撃で横倒れになった騎士の首では既に氷柱は溶けて消えていた。
「……感傷にふけるな」
「嫌にはなるさ。人殺しだもん」
シャモンはイシュメイルの脇を抜けると、彼の背後から斬りかかろうとした騎士の胸を力強く押した。
地面が揺れる程の衝撃が走り、ひしゃげた騎士の甲冑の中で肉の潰れる音がする。
「……コウコウの技か」
「正しくは江湖だ。どっちでもいいがね」
二人は縦横無尽に戦場を走り回り、騎士達を屠り路地へ消える。
オズワルドが二人の姿を捕らえると舌打ちする。
「追うなっ!まずは一人の敵に戦力をあつめろっ!」
制止が届く前に路地へと追った騎士達は無惨な悲鳴を夜空に轟かせた。
その悲鳴をかき消すようにモルガンディアの魔物が吠えた。
咆哮が空を揺らし、騎士達を怯ませるがスタイアは剣を走らせる手を休めない。
まるで彼の背中を守るようにモルガンディアの魔物の前にラナが立ちはだかった。
「ウッズ・スー・ガルファン・ニクス」
ラナの声にモルガンディアの魔物は僅かに動きを止めたが、再度、激しい咆哮を上げた。
ラナは僅かに俯くと、再度、モルガンディアの魔物を見上げた。
「……頼みましたよ」
「……はい」
スタイアに答えると、ラナはモルガンディアの魔物に向けて駆けだした。
モルガンディアの魔物は紅蓮の炎を吐きだす。
炎はラナを飲み込み、黒煙を巻き上げる。
魔物はためらうことなくその炎の中に身を躍らせてラナを踏みつぶした。
だが、割れた石畳の下、ラナは白く細い腕を伸ばしてモルガンディアの魔物の爪を押さえていた。
モルガンディアの魔物の背後から鉄鎖が伸びる。
長い、長い鉄鎖がモルガンディアの魔物の首と胴に巻き付いていた。
鐘楼の上、屋根に足首から下を埋めたユロアールが太い腕に鎖を巻き付けて立っていた。
ユロアールは屋根を踏み破り、鎖を引く。
モルガンディアの魔物がよろめき、倒れる。
鎖を引いたユロアールの背中に背負われた棺桶の輪が鎖に通し、ユロアールは力強く鎖を振り上げた。
棺桶を放り上げ、肩で激しく打ち付ける。
棺桶が鎖を滑り、モルガンディアの魔物へと奔る。
振り上げた鎖を振り下ろし、波が棺桶を追う。
鎖を辿り、真っ直ぐにモルガンディアの魔物の首に辿りついた棺桶を叩く。
――棺桶が破れ、炸薬が破裂し槍が撃ち出された。
幾本もの槍がモルガンディアの首に突き刺さり、炎が溢れた。
ラナは苦悶の咆哮を上げてのたうち回るモルガンディアの魔物を見上げて僅かに涙を流した。
「どうか……許して下さい」
ラナはそう告げて、細いたおやかな手を頭上に掲げた。
白い腕に黒い紋様が奔り、大気が歪む。
紋様が生き物のように奔り手のひらに昇ると大樹がまたたく間に伸びるがごとく禍々しい斧を作る。
それはモルガンディアの魔物より大きく、教会の鐘楼で見下ろすユロアールの目線の高さまである斧だった。
「セトメント・セトメント」
騎士達が息をのむ中、ラナはその斧を振り下ろした。
二つに裂かれたモルガンディアの魔物は自らの炎に焼かれ崩れていく。
「……終わりました」
炎の中で振り向いたラナは寂しげにスタイアに告げた。
騎士の胸に剣を埋めていたスタイアは優しく笑う。
「フィダーイーはフィダーイーに、人は人の手に」
スタイアはそう告げると、オズワルドに向き合った。
崩れ落ちる騎士の返り血に全身が黒く染まったスタイアは鼻を拭う。
鋼鉄の剣は血に染まってなお、炎を照り返し鈍色に輝く。
騎士達に既に戦意は無かった。
「……褐色の、幽霊」
「剣を取りなさい、オズワルド」
撤退を決意したオズワルドをスタイアは厳しく制した。
鐘楼の影に、炎の中へ、ユーロとラナの姿が消える。
ただ一人、黒煙に焼かれる空が零す雨の中、スタイアだけが残った。
だが、その場に居る誰もがわかっていた。
誰一人、生きて帰れることが無いことを。
それでも生きようとあがき、背を向けて走り出す。
オズワルド、スタイアが何度も見てきた光景だ。
迫り来る死の恐怖に背を向け、走り出し、狂気に駆られ剣を振るう。
そして、選ばれたものだけが生き残る。
「これが……戦場です」
散って消えてゆく騎士達の断末魔の悲鳴が遠く響く。
どこか遠くで鐘が鳴っていた。
スタイアはフードを取るとその素顔をオズワルドに晒した。
血と傷にまみれた白銀のヘルムのバイザーを上げて、スタイアは真っ直ぐオズワルドを見つめた。
「……戦女神のグロウリィ・ウィングヘルム……何故貴様がそれを」
「鉄鎖解放戦争……あなたは敵でしたね。今は無きウィルヘミナ・ティアリス卿に買われた剣奴。覚えてらっしゃいますか?」
「ティアリス卿?……千人斬のアスレイという少年の話を聞いたことがある。国王直轄の金獅子騎士団に一人走り壮絶な最期を迎えたと聞いた」
「……代わりに、死んだ人が居たんですよ」
スタイアは苦笑した。
「自分が生きるために他人の命を踏みにじる。それは当たり前のことです。それがわからないのは自分で生きたことが無いからです。生きるというのはそれくらいには厳しい。僕らは僕らを否定する人達にこう言います。『それは綺麗ごとだ』と」
オズワルドは剣を握りしめる。
「なればこそだ。私は進まねばならない。平和は戦士の生きる道を閉ざす。我々は戦場でしか生きて死ねない。狂いきった戦場で生き延びてしまった我々は剣を捨てて生きる術を知らない。今は、まだ。だが、いずれは人々は我々を責める日が来るだろう。そのときに我々はどうなる?私は彼等に生きる希望を、剣を最後に捨てるまで戦士であり続けさせねばならなかった……そのために踏みにじらなければならなかった」
スタイアは告げた。
「あなたは所詮、英雄であり、王となる器ではない」
スタイアは笑った。
「来なさい。王を斬ったリョウンの剣、見せてあげましょう」
そして、くるりと手の中で剣を回し、切っ先を向けた。
オズワルドの腕がぎりぎりとたわみ、鋭い気迫が熱気となって空気を硬くする。
今にも爆発しそうな大気の緊張が雨すら蒸気に変えた。
スタイアは静かに息を落とし、やわらかく剣を後ろに引いた。
しんしんと降る雨が剣にこびりついた血を洗い流し、磨き上げられた鋼鉄に静かに炎を照り返していた。
「ぬぅぅぅ……ぁぁぁあああっ!」
オズワルドは駆けだした。
奴隷解放戦争の英雄はその名に恥じぬ鋭い剣閃をスタイアに奔らせた。
一条の銀閃がスタイアの額に真っ直ぐに伸びる。
だが――
オズワルドの剣が夜空に跳ね上がる。
スタイアの剣が深々とオズワルドの額に突き刺さっていた。
半ばから斬られた剣を手にオズワルドは苦悶の表情を浮かべたまま死んでいた。
スタイアは押し込み、切り払うと血を流しながら倒れるオズワルドに一瞥をくれた。
「金貨五枚……それだけのために振るえばよかったんですよ。あなたは優しすぎた」
スタイアはフードを目深にかぶり、鐘を鳴らした。
ようやく、遅まきに駆けつけた騎士団がウェストグロウリィの惨状を目にした。
その先陣に立つアーリッシュは火炎に包まれたモルガンディアの魔物と惨殺された騎士団を見て息を飲んだ。
「あれは……」
褐色のローブを着た幽霊は雨の中、静かに路地へと消えて行った。
追おうとして、呼び止められた。
「アーリィ!こっちだ!」
ダッツがオズワルドの元で厳しい顔をしていた。
アーリッシュは倒れ伏したオズワルドの遺体の側に膝をつくと、割れたその相貌に僅かに眉を潜めた。
「何が、起こっている」
静かに燃える魔物の熱がアーリッシュの胸に確かな不安を灯す。
ダッツは小さく、息をつくとアーリッシュに答えた。
「……わからん」
◆◇◆◇◆◇
クロウフル・フルフルフーはアカデミアの自室で小さく揺れていた。
ロッキングチェアが揺れるたび、きぃきぃと小さな音を立てる。
ろうそくの頼りない火が揺れる中、まどろむ意識のまま呟いた。
「……老いたのだよ。私も」
うずたかく積まれた本の中、闇に目を細めクロウフルは呟いた。
「王になる英雄が見たかったのかもしれん。また、私一人では抱えることができなかっただけなのかもしれん。川が雨雲から滴る雨を山があつめたものであるように、ただ一つの事柄が存在するものではなく、それは全てあって一つの事象でしかない」
クロウフルは背もたれに背を預けて小さく吐き出した。
「私はもう、永く生きすぎた。君に斬られるなら、本望だよ。スタイア」
闇の奥、血の臭いを隠すことなくスタイアは褐色のローブの中でクロウフルを見つめていた。
「あなたは生きなければならない」
「……事が公になればアカデミアの失墜だけではない。国そのものが危機に瀕する。なればその責は誰が負うべきかね?それはアカデミアの最高権威である私自らが負うべきだ」
スタイアは静かに告げた。
「逃げることは、許されない。死することで購える罪もある。だがしかし、あなたは大師星だ。あまねく人々を照らし導く星でなければならない。太陽が沈み、月を導き、また新たな太陽が地平から生まれるまで、人々を照らし導かねばならない」
「スタイア……お前は」
褐色の幽霊は静かにクロウフルに背を向けた。
「聖なる剣は納めるべき鞘を神に預け、夜明けを告げる鐘はニンブルドアンの向こうへと優しく導き、歓喜の歌を歌う。覚えよ。我々は未だ宵と朝が寄り添う暁に立つ。忘れるな。夜は死の訪れる時ではなく安寧の眠りを授けるものと」
クロウフルは重くなった体をそれでも引き上げ、身を乗り出す。
「スタイア……お前は全てを知って、なお……」
「失礼いたします。大師星」
身を翻したスタイアはそのまま、また闇へと消えた。