第2章 『鉄の理、英雄の果て』 5
どんなに悲しいことがあっても人は生きるために食べる。
日用の糧を得るために働かねば生きていけないのはマリナにとっても同じだった。
幸せなことなど何一つなく死んだアンネに悲しみを向ける暇も無く、マリナは店に出る。
「マリナちゃんはいつもかわうぃーなぁ。おっかわり」
訓練の後、何軒もの店をシャモン、イシュメイルと巡り、酔うだけ酔ったスタイアはマリナの店に転がり込んでいた。
アンネが魔物に殺されたことは知っていたがそれを話すことはしない。
余計に明るく振る舞うスタイアの気遣いがマリナには嬉しくもあった。
「スタさん、今日は騎士団の合同訓練日だったんでしょう?王城の王庭からわんわん聞こえてましたよぅ?」
「そうなんですよぅ。頑張りたくはないんですけど、ちぃとばっかし無理やっちゃってへっへっへ」
「強い男の人って好きですよぅ?」
「はっはっは、さんざっぱら負け超してきちゃってヘコんでるんだけどなぁ。誰かに慰めて欲しいなぁ?」
「あら、じゃあ慰めてあげなくっちゃ」
「わんー♪」
「誰に負けちゃったのぉ?」
「あのねぇ、あのねぇ、第三騎士団のオズワルド騎士団長」
「あらー、騎士団長に」
膝の上に頭を載せるスタイアを撫でながらマリナは寂しげな微笑を浮かべた。
アンネと共に奴隷となった頃は、こうしてよく不安に泣いたアンネをあやしたものだった。
スタイアは気持ちよく酔った顔で笑った。
「まだ僕は飲めるですよぅ?」
「え?」
「塩水は吐くときにお客に出すもんでしょう?」
マリナは頬が熱く濡れているのにようやく、気がついた。
「アンネちゃん、いい娘だったのにねえ」
「スタさん……」
スタイアは笑みを消し、苦い顔で起き上がると杯を傾けた。
「……人の命なんざ、一山いくらだった頃と比べて、随分生きやすい時代にはなりました。がしかし、なかなか生きてくのは大変ですね」
「はい……」
スタイアはマリナに酌をするとワインを勧めた。
「他人事だから言います。忘れてしまいなさい」
杯を傾けるスタイアにマリナはただ、黙って頷いた。
涙が止めどなく溢れてくる。
「ごめんなさいね、スタさん……私、甘えちゃって」
「男は甘えられるのも好きなんですよ。アンネちゃんは甘え上手でしたよ。一生懸命甘えてくるアンネちゃんは僕も、大好きでした」
「本当に……本当に……ごめんなさい」
スタイアは渋い顔で鼻を鳴らした。
「悪くも無いのに、謝るのはよしなさい。謝られる道理なんか僕にゃあありませんよ」
「はい……はい……」
周囲の喧噪はまるで二人のささやきを押し流すように響き渡る。
スタイアは大きな溜息をつくと杯をテーブルに落とした。
「アンネちゃんのお話をしましょう。死んだ事実に目を背けるくらいなら、一杯語って送ってやるのがせめてもじゃあないですかね?」
「そう、ですね……」
マリナはようやく笑った。
「あの子はウィルベリルの出身でしてね、十年前の飢饉の時に親に奴隷として売られたんですよ。男兄弟四人に女の子一人の末っ子でしたら、当時はしょうがない部分もあるんですよね。男なら力仕事を任せられるけど、女の子であればそうもいきませんから」
「……マリナちゃんも、そうだったんでしょうね」
「ですね。だから、余計同情しちゃったのかもしれませんね。可愛くて仕方がなかった。だからですかね、私、早く一人前にしてあげないといけないって厳しく当たっちゃって……もう少し、優しくしてあげればよかったかもしれません」
マリナはそう言って、苦い笑みを浮かべた。
「……アンネちゃんがね。前に言ってたんですよ」
「え?」
「三年くらい前ですか。アンネちゃん、病気になりましてね。風邪かと思ったら随分と厄介な病気だったそうな。マリナちゃん、自分の身請けが決まって自由になれるのに大枚はたいて医者に診せたそうじゃないですか」
「そういえば……そんなこともありましたね」
マリナは言われて、ようやく思い出した。
「当たり前なくらいに、愛してたんでしょうさ」
じんわりと胸の奥に広がる暖かさに、また、涙がこぼれた。
不器用な慰めに、マリナは客として来るスタイアの別の面を見た気がした。
「僕も、そこで寝転がってるシャモさんも、似たような人生送ってましてね。食い扶持が無い男の子が売られるのもまた奴隷で、それはそれで飯を喰ってける場所に行けるから、まあ、今思えばそれでも幸せだったりするんですよ」
杯に手を伸ばしたスタイアが苦そうにワインを舐めた。
「僕の親兄弟は、流行り病でみんな死んじまいました。貧乏でギスギスしてていい家族とは言えなかったけど、それでも何ででしょうかね。生き残っちまったのが僕のように売られた人間だってのは皮肉な話です」
「そうだったんですか……」
「死んでいった人の分、僕らはしっかり生きなきゃならないってのは重っくるしいですが、ほんの少し肩に乗っけるくらいならいいんじゃないですかね?」
「はい」
マリナは涙を拭いて、しっかりと頷いた。
「でも、意外でした」
「はい?」
「スタさんがいい男だったのを知らずに、アンネに任せっきりだったなんて」
「あらら、実は僕、結構いい男だったりするんですよぅ?」
「ふふふっ、こんなことならもっと早くに手をつけておくべきでした」
苦笑を交わし、杯を重ねると二人はワインを煽った。
スタイアは革袋から銀貨を出して卓上に置くと、立ち上がる。
「……リバティベル、という酒場の噂がありましてね」
それは小さく、呟かれた。
「人の恨みを金で買ってくれるそうです。お代は……ヨッド金貨五枚」
「……スタさん?」
「いけないねえ……酔っぱらうとたわいもない話をべらべらとしゃべっちまう。ありもしないことをくっちゃべってると夜中にフィダーイーの悪魔に舌を抜かれちゃう。セトメント、セトメント!」
子供のおまじないを唱えたスタイアは元の酔っぱらいに戻っていた。
「おうい、シャモさん、イシュさん、次のおっぱいにいきますよー」
「おっぱいにいくぞー!」
「おっぱるどー!」
◆◇◆◇◆◇
マリナは誰も居なくなった店を片付けると、暗い夜道を一人帰る。
気落ちしていたここ数日に比べ、軽くなった足取りにマリナは溜息をついた。
明日から、また、頑張らなければならない。
死んだアンネの分まで幸せにならなければならない。
いつか二人で自分の店を持つと決めた夢を夢のままで終わらせてはならない。
小さな絵空事のような夢だが、それだけで、生きていける。
ツンと鼻に刺さる腐臭のする道を歩く足がほんの少しだけ、力強くなった。
巡回中の騎士とすれ違った。
軽く会釈をするが騎士は答えずに路地裏に入っていく。
その騎士の挙動がどこかおかしく、マリナは首を傾げた。
「……?」
なにげなくふらふらと後をつけたのがまずかったのだろう。
路地に入った騎士が手にしていたのは小さな、小瓶だった。
騎士はその小瓶の封を切ると、その場に置いて駆け去ってゆく。
マリナは訝しげにその小瓶を見つめる。
小瓶からは黒い霧が立ち上り、どこかで嗅いだような匂いがした。
赤い、瞳が霧の中に輝いた。
マリナの背筋にぞくりと冷たい汗が滲んだ。
「ひっ……」
あれだ。あの、魔物だ。
霧が集まり、鋭い爪を持った足を形成する。
地面を蹴った足が霧を引いて迫ってくる。
マリナは背を向けてその場を駆けだした。
「いやぁぁっ!」
腐臭を引き連れ追いすがる魔物がマリナの脇を通り抜け、前に立ちはだかる。
「……コァァ……クゥルルルゥ……」
喉から唸り出る声は甲高く、鳥のそれを思い出させる。
脳裏に焼き付いたアンネの最後が体を縛り上げる。
その場に崩れたマリナは目を閉じた。
「いたぞ!こっちだ!」
魔物の背後から騎士達が白刃を携えて駆けて来た。
魔物はマリナから視線を外し、背後に迫った騎士達に頭を向ける。
訓練された騎士達はそれぞれが包み込むように魔物を包囲し、白刃を閃かせた。
黒い霧が散り、緑の体液が壁に叩きつけられる。
腐臭のするその体液の匂いにマリナは酔いを戻し、路地にぶちまけた。
「キュァアア……アアァ……アアアァアア!」
魔物は瞬く間に、切り刻まれ黒い霧の残滓を残して消えた。
「大丈夫か」
そう告げたのはオズワルド騎士団長だ。
マリナはその顔を覚えていた。
アンネを手厚く葬ってくれたのはオズワルドの指示だったからだ。
オズワルドの騎士の一人がマリナを抱え上げる。
「……先日の?」
「はい……」
震える声で告げるマリナは恐怖で体が動かなかった。
騎士の肩越しに別の騎士隊がやってくる姿が見えた。
「どうやら、終わったようだな」
遅参した騎士達を率いていたのはオズワルド卿だった。
その後ろに構える騎士の一人を見て、マリナは息を飲んだ。
先程、路地裏で小瓶を開いた騎士だったからだ。
「はい、今回は犠牲者を出さずに済んだようです」
そう答えた騎士の言葉が恐ろしく冷たく聞こえた。
「オズワルド卿、市街巡回等はもう我々に任せて下さい。近衛騎士選抜も近いのですからもし何かあればと思うと……」
「私とて同じだ。今回こそ誰も死ななかったものの、お前達のいずれかが欠けてしまえば大きな損失だ」
「そうしてオズワルド卿が怪我でもされて選抜から外されてしまえばそれこそヨッドヴァフの損失ではございませんか」
マリナは身を固くしてその言葉をただただ、聞き流していた。
そして、一つの結論を得る。
それがふと理解できたとき、恐ろしいものを彼等のなかに見つけてしまった。
オズワルド卿が眉を潜める。
「……このお嬢さんは」
「ええ、以前の……」
いくつもの戦場を駆け抜けてきたオズワルドは危険に聡い男であった。
マリナの顔に恐怖とは別の感情が浮かんでいることを見るや、マリナを抱える部下に目配せする。
「夜道は危ない。お送りしてさしあげろ。二人でな」
「はい」
緊張した面持ちで答える騎士にマリナは恐怖を覚えた。
グリーブが石畳を叩く音を響かせ、散り散りに去っていく騎士団を見送ると、マリナを抱えた騎士はもう一人残った騎士とうなずき会うとマリナを地面に降ろした。
そして、おもむろに剣を抜きはなった。
「な、なにをされるのですかっ!」
「殺すんだよ。知っちゃまずいことも世の中にはあるんだ」
騎士が冷たくそう言い切った。
「……運がなかったな」
マリナは逃げようとしたが、即座にその背後にもう一人の騎士が回り込んだ。
殺される。
そう、確信した。
「なあ、バルメイ、せっかくだ。楽しまないか?」
「それもありといえば、ありか。足の腱を切る」
騎士が下卑た笑みを浮かべる。
騎士の一人が剣を振り上げ、マリナに振り下ろそうとしたその時。
騎士の分厚い甲冑を突き破り、心の臓を握った手が現れた。
「……え?」
騎士は自らの胸に生えた手が握っている自分の心臓を見下ろし、何が起こったかわからない様子で呟いた。
「仕事あがりの女郎をこますにゃ、いささか外道すぎやせんかね?」
体から離れたことに気がつかず脈動を続ける心臓を握りつぶし、シャモンは告げた。
崩れ落ちる相方に驚き、もう一人の騎士は後ずさる。
そして、視界がぼんやりと霞む。
気がつけば指の先が砂のように崩れていた。
苦しいと思う暇も無かった。
体中の水分という水分を抜かれ、干からびた体は僅かな風で崩れ去る程、脆いものになりはてていた。
「欲望なくして繁栄は無い。だがしかし、過ぎたるは他を滅ぼし自らをも滅ぼす。フィダーイーは天秤を傾ける者をよしとしない」
彼を構成する水を球体にして手にしていた魔術師――イシュメイルは呪詛を呟くように死体にそう告げた。
明るく知的な昼の顔とは違い、どこか残忍で冷淡な顔をしている。
人間とはとうてい思えないその冷めた顔にマリナは別の恐怖を覚えた。
「あの……シャモンさん?」
「やあやあ、驚かせるツモリはなかったんだがね。目の前にクソの詰まった肉袋があるとどうしょうもなく掃除したくなっちまう。だからいつも汚いナリなんだろうな俺はぬ」
シャモンは厳しい目つきのまま笑うとマリナを立たせた。
マリナは自分に起きたことを理解しきれず立ちつくす。
「理解する必要は無い。覚えておく必要も無い。知らずとも生を全うすることができるのが凡人だ」
イシュメイルは淡々とマリナにそう告げると背を向けて闇に溶け込む。
シャモンはその背中を見送ると苦笑しマリナに告げた。
「まあ、忘れるこったな。覚えていたところで今日みたいに狙われることになる。それも面白くあんめえ」
「……あの、一体、何を」
「人は自分の為に人を殺せる。あんたは殺されそうになったんだよ」
冷淡に告げたシャモンにマリナは言葉を失う。
「そういうこった。まあ、帰りねえ」
だが、それでも絞り出した声は本心だった。
「……幸せになるべきだったアンネはその為に命を落としたのですか?」
マリナは震えていた。
「アンネはそれだけの為に殺されなければならなかったのですか?」
シャモンは面倒くさそうに告げた。
「幸せになるべき人間なんざ誰も居ない。幸せになる人間だけが幸せになるんだぜ?」
「ああ……」
「それが受け入れられないのは、幸せだったってーことだよ」
マリナはそれを理解できる自分を見つけ、どこか冷めてしまった。
「じゃあな」
シャモンはのろのろと歩き、その場を去った。
残されたマリナはじっと闇の向こうを見つめ、覚悟を決めた。