第5章 『露流れ、大河となりて江湖に還る』12
冷たくなったコーレイセンの亡骸を静かに掻き抱き、慟哭が震える。
幾多の慟哭を拾い、また、慟哭に切り裂かれた人はどこまでも震える心のままに喉を張り割く。
「――――――――――ァァァ―――――――」
いくら震わせたところで戻りはしない。
多くを奪い、多くを共有してきた人の身をした鬼は自らを包んだ温もりが手を離れ、どこまでも人として泣き咽ぶ。
幾重にも刻み、幾重にも覚え、幾重にも奪い、そして、その度に心を軋ませてきた。
「ばあちゃん!……ばあ!ばあさん!おい!……おいぃぃ!うあ、うあぁああっ!」
どれだけ奪うことを覚えても、奪われる痛みをただ、忘れることはなかった。
だからこそ、振るうべき痛みを正しく受け止めることに竦んでいた。
だが、しかし、それでもと腕を伸ばすことを覚え、今、また、失った。
そして今、我が身をもって覚えた悲しみに、鬼の心は震えていた。
静かに、穏やかに瞳を閉じ、静かに千切れた鉄鎖の環。
「ウアァアァァァァァ―――ァァァァ―――ああ………ぁぁぁ……――」
どれだけの時が流れただろう。
大気を震わす慟哭に悪魔は愉悦を浮かべ、暗く濁った空は重くのしかかる。
強大な敵を前に、激情に流れシャモンはまた、一つ己の愚かさを悟る。
いくつ悟れば至れるのか。
未だ、至らずを知り、そして、覚え遂げてはまた一つ。
成した救った手のひらから零れる慟哭を掬うこと敵わず。
眼から零れた露が頬を流れ、静かに江湖を望んだ一人の老爺に落ちる。
幼子だった自分の手を引いた老爺が腕の中で小さく背を丸めていた。
「……良イ激情デアる。その怒リ、さゾ」
悪魔が嘲笑う。
蔑みと、侮りをもって、誇り高く、気高い魂を汚す。
ただ、愛に生き弱きを助け、愚かに生きた一人の女の生涯を貶める。
許してはならない。
許しては、ならない。
「……あい、覚えました。我、ここに身命をもって江湖宗主としてあまねく露を集め、大河とし、全てを潤す江湖を見ん」
血肉とした業が静かな怒りでもって気を巡らせる。
静かに横たえた母に開いた掌を立てる。
永別の別れを決め、人一人、大地に立つ。
纏った怒りが渦巻き気が小さく炎となって爆ぜる。
「いイ、お前モまた我ヲ満たス贄ニ過ぎン」
鬼気迫る静かな怒りを纏い、シャモンの指が天を指した。
愛が繋いだ業が天道を開き、ただ、シャモンは鬼となることを決めた。
「悪徳のみが欲動の卑しさを持たず、善行を欲する己の欲動が愛を失わせた。過ぎたる欲動はまた、善意をも滅ぼす。だが、許してはならない。許しては、ならない。認めてはならない。認めては、ならない。それは悪徳に善意が敗北し、繋いだ光を暗闇に閉ざす。なればこそ、なればこそ――我、悪徳を討つ鬼とならん」
シャモンの指が天を混ぜ、爆ぜる炎が渦を描く。
「……悪魔ノ業ハ人の思イを喰ラフ。挽き潰さレ、汝もまた我が糧トして生きヨ」
傲然と振る舞う古代から生きる悪意に、今、繋がれた江湖の鬼が震える。
「見えた。繋がれた。我が師が身命を賭して真に継いだ業は愛。悪を打ち、愛を継ぐ破邪顕正の業は我が天道に光を示した。悪魔よ、破邪顕正の拳の前に滅びよ」
渦を巻いた気が光となってシャモンを包む。
慟哭の露流れ、大河となりて江湖と還る。
人が紡ぎ、幾重にも滅びず、そして今なお心の水平に横たわる。
「シャモン様っ!早まってはいけません!あなたは、まだっ――」
メイリンの忠告は意味を成さなかった。
至らずは無い、そして、能わずも無く。
許されようものか、許されようものか。
他の誰が許しても、自らが許すことを認めず、其をして魂魄の依り所と定めた。
――シャモンは遠き未来を夢想する。
遙けき厳しい道を越え、滔々流るる濁流に、落つる雨を汚泥に集め、乾いた風に攫われようと。
――その先に煌めく江湖の水面を見る。
「見よッ!江湖宗主が奥義ッ――天道破邪顕正七生霊拳ッ!」
凪に輝く水面に自らを重ねる。
「――『六道昇宇』」
――血肉を巡る気脈に、涙が溢れる。
飲み込む呼気、そして、外功の隅々まで、血肉として育ててくれたのは師の温もり。
追憶が胸に抱かせた暖かさは、激しさをもって熱さとなり、激しく燃える。
燃える気脈は愛でもって紡がれた業が確かに零すことなく全身の龍脈で渦を描く。
全身を通じ発された気が気脈を通じ全身を巡り、天輪を抜け太極で渦を描く。
震えた気が零れ、淡く、そして、激しく迸る。
――天道が輝き、道を示す。
静かに広がる気が波紋を生み、障気を飲む。
震える大気が鈴の音を響かせ静かな水面を映す。
江湖のただ中に立つシャモンは多くの慟哭が望んだ愛の中に立ち、そして求めて自らの姿を見る。
「――『太極神気』」
人の身にありながら、鬼とあろう。
ただただ、人として幸せを求めることを望んだ人が居た。
だが、他者に分け与えた愛を育み、大きく結ばれた愛はまた、誰かを救うことを望んだ。
全ての命が微笑みに染まる地平を夢想し、やすらぎを捨てた。
自らの道を悲しみに震える鬼の道と定め、悪を討つと見る。
数多くの慟哭の中、ただ、震える鬼が自身を見つめる。
魂魄に宿った神霊が鬼気迫り、真に人を鬼とする。
悪魔はその姿に初めて眉を潜めた。
「……人ガ悪魔トなる?」
「魔道ことなく落つるは鬼道違わず、なれど繋いだ鎖が江湖へと至る天道を示す。我、修羅となりても違わず先を征く露となりて進まん。己を思へば金五つで仇を討つ卑しい鬼也」
揺れる神気を纏い零す吐息が熱く燃える。
零れた吐息が白き炎となり、空が燃える。
――白く輝く神気を纏い、鬼となったシャモンは静かに天を指した。
「無辜なる人の切なる願いを弄ぶ悪魔よ。貴様の喰らった悲哀が天に届いた。その所業――許すまじ、許すまじ」
大きく開いた腕に神気が奔り大気が歪む。
悪魔は背を丸め、静かに目を細め身構える。
「――往生せえよ」
――シャモンの姿が悪魔の前に立つ。
緩やかに放たれた拳が悪魔の胸を打ち、涼やかな音を立てた。
淡い燐光が激しく吹き上がり、悪魔の像が震える。
「――アスとラが……震えルッ!?」
爆ぜた神気が幾重にも広がり、現界した悪魔の向こうに在る本質を叩く。
虹色のアストラの軌跡が震え、骨の龍が苦悶の叫びを上げた。
悪魔の背後、骨の龍が腕を振るう。
「こノあすトラの熱サ――人ガ持てルものナのか」
――シャモンの背後で神気が腕を象り骨の龍の腕を打ち払う。
腕を象った神気が肩、胸を象り、血の涙を流す鬼を作る。
シャモンの背後に立つ鬼が骨の竜に荒々しく吠え、両腕を広げる。
悲しみに燃えた瞳は遠く地平を望み、のばした腕に希望を掴み、そして、慟哭に応え震える喉が天を揺さぶる。
――鬼と在る自らを覚え、シャモンは自らに依って立つ。
大地を踏み抜いた足が骨の竜を浮かす。
浮いた竜の顎を伸ばした腕が砕き、貫く。
ぐるりと舞って、払われた腕が胴を薙ぎ。
そして悲しみに彩られた咆吼が空を燃やし、骨の竜を灰とする。
どこまでも、果てしなく、険しき道を天道と定め、歩む鬼が望む地平に立つ悪徳を許しはしない。
――打ち抜いた拳がミステブブルグを静かに燃やす。
絶えることなく燃える命の炎が悪魔を穿ち、シャモンは静かに拳を振り抜く。
鈍色に輝く悪魔の本質――心の像をその手に掴み、ゆらりと振り向く。
「――ソれは……私ノ……」
「人の望む地平に汝の住まう場所無し。悪徳の澱に沈め」
――握りつぶした心の像が砕け、悪魔は炎に包まれる。
「グレン……我ガ……フタタビ……シルフィリ……ガァ……ァ…ァ…」
霧が震え、炎となり、山が静かに燃える。
悪魔が喰らい、すり潰した悲哀の残滓が輝きとなって鬼を包む。
一匹の鬼が燃えさかる炎の中で喰われた悲哀に応え、静かに、震え吠えていた。
どこまでも響く慟哭の中、それでも鬼は静かに天を仰ぎ、涙を炎に燃やす。
◇◆◇◆◇◆
アブルハイマンの山はようやく冬を迎えた。
遅くやってきた寒さが厳しい風を運び、身を切る寒さに空が応え雪を散らす。
風に舞う雪が眉を凍らせ、どこか寂しさを思い出し、シャモンはもう温もりを持たない老婆に未練がましく額を埋めた。
いつか、撫でてくれた腕は力なく垂れ下がり、小言を言う口は最早何も言わず。
ただ、閉じられた瞼だけはいつまでも優しかった。
シャモンは小さく乾いた老爺の亡骸を抱え、静かに額を埋めた。
「……往生、してくだせぇ」
吐き出して、失ったものを想う。
遠く離れて控えるメイリンがシャモンの背中を見つめる。
「……シャモン様」
惜別の痛みにかけるべく言葉などあろうものか。
なればこそ、言葉は宙を彷徨いただただ重くのしかかる。
だが、シャモンはそれらを振り払い、立ち上がった。
「……明日を知れぬ身上でどれほど生きられようか。なれば、ただただ、己に恥ずべきところなく今日を生きて死ねばよろしい。コーレイセンの婆ぁちゃんは……最後まで立派な人だったことを覚えておいちゃ、くんねえだろうか」
メイリンは静かに頷き、静かに膝を折り、コーレイセンに手を合わせた。
倣い手を合わせたシャモンは静かに膝をつき、コーレイセンの亡骸に頭を垂れた。
垂れた頭はどこまでも深く、深く、生きることを教えた親に、業を伝えた師にどれだけ垂れても叶わず。
額が地につき、それでも震える想いを堪え、ただ、最後の惜別に望む。
いつまでも額を上げないシャモンの大きな――震える小さな背を見て、メイリンは声をかけるのを躊躇った。
そして、静かに一礼しその場を去り、二人の惜別を邪魔しないように離れた。
冷たい雪がうっすらとシャモンの肩に乗り、寒さが辛く、とうとうシャモンは鼻声を上げた。
「婆ちゃん……ごめんよ……本当に、ごめんよッ」
――とうとう堪えきれず、零れた。
「俺ぁ婆ちゃんが言うように弱虫だよっ、強くもなれねえ。だらしねえくせにええかっこしいで、考えもたらねえ。でも、でもよ!それでもやっぱ許せねえんだ!それが身の程知らずだってのはわかってんだ!わかってんだよ!だから、婆ちゃんに無理させちまった!死なせちまった!本当に、堪忍しておくれ……堪忍しておくれぉ……ぉぉ……」
どこまでも穏やかな死に顔のコーレイセンは最早、シャモンを諫めることは無い。
――親が居なくても子は育つ。
かつてそう言って、孤独になった自分を生かす覚悟をした老婆は紛れもなく、親だった。
幾年月を経ても、誰しもが大人として見てくれても、最後の、最後まで。
親は親で、子は子だ。
「いつまでも変われねえよぉ!俺ぁよ!俺ぁよぉぅ!だらしねえまんまだし婆ちゃんに最後の最後まで面倒かけたし!アアッウウゥ……婆ちゃんン!婆ちゃぁぁん!」
変えられぬ絆を失い、また、再び孤独となったシャモンは泣くだけ、泣いた。
どれだけ人の信望を集め、江湖の英雄と呼ばれようとも。
それら全てを取り払えば、そこにはただの一人の力なき人間が居るだけだ。
ただ、悼まれるのを静かに喜ぶように穏やかなコーレイセンの笑顔はそんなどこまでも頼りなく、愚かしい子を愛する親のようであった。
「アァァ―――」
アブルハイマンの冬は、厳しい。
だが、その厳しさの中、それでもそこで人は生き続ける。
◇◆◇◆◇◆
夜に庵を一人抜け出したシャモンは切り立った崖の上で、一人、拳法の型を修めていた。
江湖の者達に生きていく術として教えた拳法を今またコーレイセンの手ほどきで修め直し、至らぬ指摘を受ける。
至ったと思ったことはない。
だが、どこに、いや、どこまで至ればよいのか。
武芸の道を欲した訳ではない。
コーレイセンが言うとおり、自分はどこまでも器の小さい人間である。
弱く、それでいて、人に良く見られたく、だが、どこまでも臆病で。
そんな自分が過酷な時代に生きていくのにコーレイセンが教えてくれた業だ。
生きていくのに、必死で、泥の中をはいつくばって生きてきた。
奴隷として繋がれた生き方の鎖が無くなったとて、自らを縛る生き方の縛鎖に押しつぶされそうになる。
それにすら、打ち勝つ生き方を大きな愛の元で、学んだ。
やがて一人で歩き、それでも迷い、だからこそ至らぬを知る。
「無上、無常。ゆくる道はなくとも、ただ、今生に身一つあれば露となりて風となり、風雨に迷う」
瀑布が静かに地を叩き、重く響く中、シャモンは迷いながら拳を振るった。
「成すべきなどはいずこになく、ただ身の成せるに求め、ただ、先にも後にも成したはなく」
血肉となった技は多くを殺め、多くを成した。
鉄鎖解放戦役を駆け抜けた英雄の拳は、力なき人々の寄る辺となり、助けとした。
彼が知る鬼が、決して人の死を捨てず、背に負うならば、彼もまた。
救った人を負い、ただ、ただ、叶う限り。
「重ねた時に泥に沈む。無情、無常」
突き上げた拳の先にコーレイセンが立っていた。
夜風に黒い髪を流し、遠い地平を見つめ、仙人と呼ばれた女は告げる。
「忘れるな。雨露は地に沈み、泥となる。やがて乾き、風に乗り、雲へと混ざり、天を目指す。至りはしない。また露となりて天へ届かず地に落ちる」
コーレイセンはシャモンの拳に自らの拳を合わせる。
二人は拳を打ちあい、意志を交わす。
「だが、覚えよ。地が飲めず、零れた露が泥となった露を超え、大河となりて江湖へ還る。先ずは泥なり、湖は後なり。江湖は激しい陽に乾くことなく、その輝きを映す。激しい陽に命を育み、息吹を吹かす」
ぼんやりとした月がアブルハイマンの山頂にかかる。
柔らかな月光の中、拳を交わす二人に投げかけられた。
◇◆◇◆◇◆
山を降りる準備をするシャモンにメイリンは驚く。
コーレイセンの埋葬をした翌日である。
「……もう、行ってしまわれるのですね?」
「どうにも、俺はだらしない人間だからぬ。ずっとここに居ると……婆ちゃんにあの世から怒られちまいそうだ」
どこか疲れた苦笑をするシャモンにメイリンは静かに笑って返した。
「それに、待っている奴らが居る。だから、一緒に居てやらねばならんのさ」
武芸の強さのみではない、人としての強さ。
何かを成さんと欲する人が持つ、綺麗な輝きをメイリンはシャモンに見た。
どこか気だるげな、酒気を帯びた瞳が遠く、ヨッドヴァフの地平を望み、疲れた、それでいてどこまでも柔らかく細められる。
「……灰色の、魔術師、ねぇ」
一族の仇敵の名をどこか、面倒臭そうに呟くシャモンの瞳の先に見る光景をメイリンは知る。
――至るべき、地平を今日、初めて、見た。
復讐の怨嗟は決して消えることは無い。
だが、安らぐ地平無く、果たして一族に未来はあるか。
「ご同道、いたしましょう」
流れ着く江湖を見てみたいと、想った。
「ヨッドヴァフも面白い場所さね……貧乏でも、笑って生きていけるのさ」
大きく伸びをして歩き出したシャモンの後に続き、メイリンは静かに続く。
果てしなく、どこまでも遠く、いくつの空を渡って辿り着くことができるだろうか。
冬の凍てつく風に凍ってしまっても。
また、春が来て流れてゆけばよい。
一つ寄り添う露を抱え、二代目江湖宗主シャモンはまた、歩む。
先に乾いた露を想い、だからこそ、その先へ――
「――露流れ、大河となりて江湖へ還る、か」
今、また、歩き出し、どこまでも遠い道のりを流れてゆく。