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第5章 『露流れ、大河となりて江湖に還る』10

 それは巨大な霧であった。

 赤黒く濁った霧は森を飲み込み、ゆるやかに萎れさせていった。

 瑞々しい木々の葉が静かに渇き、緑から茶へと濁り、白くなり死してゆく。

 死した木々はその葉を灰にし奪われた生は霧となり赤黒い血のように広がってゆく。

 空に伸び、雲を喰らい、広がってゆく霧はゆるやかに生き物も喰らう。

 異変を察して羽ばたく鳥たちが飲み込まれる。

 羽が抜け落ち、地面に落ち首をひしゃげてもだえる。

 やがて膨れあがった肉がぱんっ、と乾いた音を立て血煙を上げる。

 ぼこぼことふくらみ、粘つく青黒い肉とも血ともつかない液体となり地面に吸われ禍々しい紋様となる。

 その中心に『ミステブブルグ』は佇んでいた。

 アストラの階に追いやられ、マテリの世を離れてどれほどの時を経ただろうか。

 感傷という感覚はないが、揺らぎのない静寂をただただ繰り返すよりまだ、幾分楽しめようというもの。


 ――この機をくれた灰色の魔術師に感謝しなければならない。


 感謝という感覚を知っている訳ではない。

 ミステブブルグはただ、あるがままに存在するだけだ。

 人の暴力がやがて形作られ振るわれるように、ミステブブルグもまたただ、そこに存在するだけの暴力。

 だが、その本質が根本的に違った。

 太古から存在するそれらと違い、彼等は全てに反目し、飲み込む。

 理が理とならず、マテリの狂気が産んだアストラの澱。

 それが、悪魔と呼ばれる存在の正体だ。


 ――それらの狂気と不理解を超えて自分と接した灰色の魔術師。


 長く、長く、永劫とも呼べる時の中、狂気の澱は興味を覚えた。

 不理解の存在でありながら、その不理解を超える者が時折、現れる。


 ――数多く朽ち、アストラに還るそれらは前に立つ。


 「……凄い精気さね。これが、悪魔という奴か」


 霧を切り裂き疾走する男が居る。

 血と障気に満ちた大気を渦巻く精気で切り裂きシャモンは走る。

 腐肉のように腐った大地が踝を飲む前に蹴り、波紋すら残さず風を追い越し疾走する。

 腕を伸ばす泥をかわし、顎を開く木々の間を縫い、揺れる岩を飛び、悪魔の前に降り立つ。

 その真正面に立つシャモンは静かに広げた気で自らを守り、その悪魔と対峙していた。

 ミステブブルグは、時をおかず現れた興味に喜ぶ。

 うつろな瞳を向ける悪魔はシャモンを認めると指を伸ばす。


 「……居ル、そう、居る。私は見たコとがアる。お前のヨうな者を」


 それは周囲の大気を震わせて声を作っていた。

 霧の中、ゆらゆらとゆらめき少年の姿をしたそれは言った。


 「千年ト昔にも、六百七十年と昔ニモ、ダガ、多クハ苦悶に死した。我をアストラに封じたノは精霊の力を借リた者、そして、勇者と呼バレ神に愛され死シタ者」


 ミステブブルグは霧を震わせてシャモンを前に、言葉というものを継いだ。


 「それらは、皆、等シく我に還る。悲哀は多くは無い、どれもが最初は驚ク。そして、戸惑ウ、そして、幾バクかの時を経て理解スる。我が中で挽きつブサれ、混ざり合ウことに恐レるのだ。愛を潰シ悲哀ニ暮れ、嘆キ悶エ……燃ユル。その響きが……心地ヨイ」


 ――人には理解のできぬ感性。

 だが、どこまでも邪悪に笑うその存在は決して許してはならないものだと理解した。


 「夢ヲ砕クノハ、嬉しい。愛を潰すノハ愉快ダ。情ケを喰ラウのはコノウエも無く美味デアル。故にお前は……どんナ色を見セテくれる?」


 そうして対峙したそれが人の理を超えた存在であることも。

 霧が膨れあがる。

 重く、大気を震わせシャモンを飲み込み押しつぶそうと広がる。

 大地を巻き上げ沼と化し、生の残骸である骨を伸ばし腐肉の華が咲く。

 骨が絡み合い、歯車を作り、滑車を回す。

 粘り着く沼が滑車にひかれ、地獄の扉を開く。


 ――開かれた扉の奥、虹色の海に人の甲高い悲鳴を聞いた。


 「――っ!」


 内功を狂わされる、等という生易しいものではない。

 肉体から魂魄を引きはがされ、みりみりと削り取られるような感覚。

 それがきわめて危険なものだと、理解する。

 だが、人智を超えた存在を前にどう抗えば良いのかも理解できない。

 シャモンは集気、練気をひたすらに行い内功に自らの感覚を手放さぬように必死になりながら揺らぎを留めた。


 「嗚呼、強イ魂ホド――」


 シャモンは肩に乗る悪魔の手に激しい嫌悪を覚えた。

 ぬちゃりと濡れたその手が放つ激しい腐臭に吐き気を覚え、それでも振り向き、腕を払う。


 ――虹色の海の中、うねる頭蓋の蛇の先、それはカゲロウの羽を煌めかせくゆる炎の瞳を向けてシャモンを見て舌を束ねた顎で笑った。


 ぺちゃぺちゃと笑うそのおぞましさにシャモンは自らが修めた業がとてつもなく粗末なものだと理解する。

 これは人ではない。

 魔物ですら、ない。

 この世界に肉を持ち、生きとし生けるものの理に生き、生の痛みに抗い伸びた先にあるものでは、無い。

 観念の先、理解を超えた先、その果ての途中にあるとてもおぞましき物だと理解する。

 天道が、見えない。

 吹き上がる虹の粒子が赤子の顔となり、けたけたと笑い、口から蝶を吐く。

 吐き出された蝶が血となって爆ぜ、血は色を失い白い粒となる。

 その白い粒が羽化して蠅となり、蛆であると気づく。

 蠅は伸びムカデとなってシャモンの身体をはい回る。

 そのおぞましさに身を震わせ、拳が届かぬ、手を伸ばしても届かぬ敵に戸惑う。


 「――精々結破離業陣ッ!」


 シャモンは息をのむ冷たい感覚を覚え、首の重みを思い出す。

 気がつけば自分の前にネイリンが立ち、印を組んでいた。


 「シャモン様、気を確かに」


 ネイリンは首筋に激しく汗を掻き、印を激しく切り結ぶ。

 道術の奥義をもって、幻影の海に沈んだシャモンを助けたのだ。


 「すまねえ……」

 「……謝られることのないように」


 ネイリンはどこか優しげな笑顔で笑った。


 「あなたは、再び私に立ち上がる勇気を下さいました」


 年端もいかぬ少女がそう言って悪魔に対峙した。

 ネイリンは印を切りながら、頭上に練気し渦を作ると裂帛の気合いを発した。


 「百歩震勁ッ!」


 渦から発された気が弾丸となってミステブブルグに飛翔する。

 淡い光を放つ気の弾丸を受け、ミステブブルグが僅かに傾ぐが、なんの痛痒も見せずに首を巡らせる。


 「……これは悪霊のような物です。現実に実体は無く、その本質は玄界に置き現実に獣肉し現実に影響を与える。本質を断つなれば玄界の本質を討つしか手はありません」

 「なんてこった……じゃあ、さきの幻覚は……」

 「玄界へ引きずりこまれたのでしょう。お気をつけ下さい。一度引き込まれればその肉を取り込まれ、あれからは逃れられなくなります」


 ネイリンは印を切る腕を開き、ミステブブルグに飛びかかった。


 ――大気中にかき集めた気を爆ぜさせ、急降下からの蹴撃。


 少年の姿をした悪魔は虹色の盾を広げ蹴撃を受け止めると盾から骨の槍を伸ばした。

 ゆるやかに回るネイリンの掌が槍を打ち付け、波紋のような衝撃を広げ槍が砕ける。

 砕けた槍の破片が蠅となりネイリンの身体を持ち上げ地面に叩きつける。

 蠅たちはぐるぐるとネイリンの身体を貪り、喰らおうとする。

 駆け寄ったシャモンが気を発し大気の渦をつくると渦に巻き込まれ蠅達が四散する。

 引きずりだしたネイリンは唇を真っ青にして憔悴していた。

 だが、目だけは死んでおらず外気の無い霧の中、内気を燃やし復調する。


 「遣う……勝てぬと婆が騒ぐ訳だ」


 シャモンはネイリンの前に立ち、悪魔に相対する。

 多くの人を屠った拳が悪魔に届かぬことを知る。

 だが、それでも戦う事を諦めない鬼は自らが極めた業を振るう。


 「心身発気冥玄渦脱法」


 ――冥玄法と呼ばれる技法。


 ヨッドヴァフの知人が伝えた幻の技法で気脈の流れで心身ともに異界へと渡る。

 僅かに渡った異界で自らの境界が崩れる前に再び現界へと戻る。

 シャモンは色あせた世界の中、少年の背後に立つ虹色に揺らめく蜃気楼を見た。


――自らを玄界へ置き、その本質に手を伸ばす手法。


 パーヴァリア・キルという彼の友人が遣う魔技。

 それらをシャモンの聞き伝えた技法で再現し体得した奥義である。

 虹色の蜃気楼が伸び、シャモンを絡め取ろうとする。


 「発気散砕ッ!」


 両腕を広げ、蜃気楼を掌で掴むと発する気が冥玄にその身を置く悪魔の意志を砕く。

 ゆるやかな怨嗟の声を残し、のたうつ蜃気楼が渦を巻きシャモンを取り囲む。

 蜃気楼の向こうにうつろな瞳を見つけ、シャモンは恐怖という感覚を思い出す。

 激しく揺さぶられる意識に、静かに内気を充足させ暴力の水平を思い出す。


 「――矮小ナ。人の覚エタる暴力の水平の遙か先に我らハ在る」


 虹色の蜃気楼が少年に集まり、激しく大気が揺れる。

 揺れる大気が質量を持ち、シャモンを締め上げた。


 「――ガァ」


 締め上げられた肺が空気を漏らし、蛙のような悲鳴を零す。

 足下に広がる大地が燃え、シャモンの肌を焼く。

 ネイリンがシャモンを取り巻く大気を崩そうと腕を伸ばすがその背後にミステブブルグが既に立っていた。


 「――あ」


 強固に渦巻くネイリンの金剛渦気すら突き破り、その腕が虹色の波紋を広げる。

 広がった波紋がネイリンを打ち据え腐肉の上を転がす。

 腐肉から伸びた骨がネイリンの太ももを貫き、血が吹き上がる。

 びちびちと落ちた血を吸う大地がじゅるりじゅるりと舌を伸ばした。

 捻られた大気を練気、発勁しふりほどくとシャモンはネイリンに駆け寄ろうとする。


 「ネイリンッ!」

 「来てはなりませんっ!」


 シャモンの足下から吹き上がったガスが瞬時に岩へと変わる。

 伸ばした腕を岩に絡め取られ、シャモンは僅かに身じろぎする。

 大地が割れ、腐肉が足を飲み、岩から伸びた腕がシャモンを抱いた。


 「他のアニマウスを思ヒ、論理ヲコヘて死せる汝ラは美シい」


 ミステブブルグはずるずると肉を腐らせ、笑った。


 「美しいアニマウスが腐レ、悶エル様は美しイ」


 ――シャモンを捕らえた岩がみちみちと解け、腕を焼く。


 焼かれた皮膚を剥ぎ、剥き出しになった肉にうっすらと滲む血を吸い上げ岩が鋭くふくれ、肉に食いこむ。

 ざりざりと肉を削り肉を吸う岩が吐き出す腐汁にシャモンの腕が飲み込まれてゆく。

 「がぁああっ!」


 ――抱いた腕からはい出たムカデが腹の肉をみちりみちりと喰らう。


 みちみちと身体をうねらせ腐肉の腕を突き破って現れたムカデの頭がうごめき喰むべき肉を探す。

 せわしなく動かされるその足がシャモンの腹を探りあてるとその口を開き、ブラシのような牙で腹の肉をこそぐ。

 何匹ものムカデが次々と腐肉の中から現れてはシャモンの腹に頭を刺す。

 ムカデの頭が腹の中に埋まると肉を得たムカデが腹の中へとずぶり、ずぶりと入り込んでゆく。

 やがて全身をシャモンの腹にうずめたムカデは腹の中をその小さな足でせわしなく漕ぎながらはい回る。

 ずぶり、ずぶりと足下から腐肉がシャモンを飲み込み溶かす。

 暖かく生ぬるい感触は血のようでもある。

 だが、どれだけ力を入れて逃げようとしても放さないその重さにくるぶしが軋む。

 静かに流れる腐肉は鉛のように重く、シャモンのつま先を捻る。

 捻られたつま先の先、足首がぎりぎりとたわみ、耐えきれなくなった関節がごきゅり、と嫌な音を立てて外れた。

 だが、腐肉はゆるやかに流れごりごりと小麦をひく臼のようにシャモンの足首を重々しく回す。


 「あぁぁっ!があぁあっ!ああっ!」


 激痛、にも生ぬるい痛みが全身の勁を狂わせてゆく。

 呼吸すらままならない。

 シャモンは死を覚悟した。

 人としてどれほどの研鑽を積んだとしても悪魔は積み上げた血肉を凌駕し屍を喰らう。


 「シャモン様っ!」


 だが、それでもシャモンはネイリンに首を振るった。

 最早、自分は助からない。

 それは自らの愚行であり、自らが選んだもの。

 死してなお、果たさなければならない義責がある。

 たとえ汚泥に落ち自らが乾き天に還ろうと、意志は汚泥の中の滴が拾いやがて届ける。

 それが、江湖である。

 だからこそ、ネイリンに生きて戻ってもらう。

 シャモンは自らの意志が狂い、死に至るその間際、最初に教わった渦中丹田法で最後の練気を行う。

 幾度も見えた天道が総て失した。


 ――目の前に生きる道が、無くなった。


 死を前にして、狂うシャモンはまた、暴力の水平の先に居る兄弟を思う。


 「死に望ミ、ナオ他のアニマウスを思フか。成れば、鳴ればソレスラ喰らう未来を見せよフ」


 それは幻覚だった。

 痛みに、勁を乱され狂うシャモンが見た幻覚だった。

 灰色に染まったヨッドヴァフの街。

 焼かれ、暴力に染まり激しく血がぶちまけられた壁と道。

 乾いた空気の中、生きる息吹は無く、そこに乾いた少女が膝を折っていた。

 それは哀れでも強く、強く生きようと輝いたタマであった。

 その眼科がくぼみ、元気よく毒舌を吐く唇はしおれ、指先は欠けていた。

 傍らには剣を手に四肢を両断されたスタイアが転がっていた。

 どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 灰に埋もれ、白くなった腕の切れ目から覗く無惨に折れた骨が痛々しかった。

 傍らにはラナが蹲り、倒れていた。

 表情のある無表情は、最早、何も映さない死せる貌となりスタイアの側にあった。

 数多くの墓の横に、白く灰に固められた墓守が立つ。

 死せることのない墓守はただ、永劫の時を灰となり眺め、涙すら流せずにいる。

 その足下には小さき友人の羽のみが風に吹かれて飛ぶ。


 ――グロウクラッセが輝きを失い、アルバレア平原の灰に折れた刀身を沈める。


 灰色の王城に座る幼き女王は骨となり、物を言わず。

 その臣民達は総て灰となって風に消える。

 シャモンが愛した多くの力なき者達も灰の中、一人、また一人と倒れ伏す。

 静かに絶望がシャモンの心を手折ってゆくなか、どこまでも強く優しい声が喝を入れた。


 「立ちなさいッ!この根性無しのどんゴロ糞がッ!」

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