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第5章 『露流れ、大河となりて江湖に還る』9

 小さな村だった。

 アブルハイマンの山麓に流れたヨッドヴァフの民がニヴァリスタから流れてきた流れ者を受け入れ、小さいながらも自活できるだけの規模を手に入れた村。

 そこにネイリン達も受け入れられた。

 流浪の民であった彼等は人が寄り添うことで生きていけることを知っていた。

 いくら畑を耕したて得た糧であろうと、やがては奪われることを知っていた。

 生きていけるなら、奪わせても、構わない。

 与えることで、得られるものもある。

 小さな村だがそこにはしっかりと人が生きる心の息吹が吹いていた。

 冷たい北の風に吹かれ、遅い春の息吹に畑を起こし、静かな夏の日差しを受け、実りの秋を祭り、そして、寒く厳しい冬に方を抱く。

 小さな、どこにでもあり、それでいてどこにもない優しさがある村だった。

 大きな戦乱、そして、遠い首都の争乱を遠くに耳にしてもどこか遠い国の話として平和に生きていける。

 ネイリン達は彼等の中で暮らし、そして自らの技を研鑽し、自警団を買ってでていた。

 遠く離れた異郷の彼等の技は人の持つ業にしては過ぎたるが、アブルハイマンから時折人里に降りてくる魔物から守るには十分過ぎる程、役には立った。

 彼女らが村に影響を与えることなく、また、過ぎたる力が災いにしかならないことを理解できる聡明さを村の人々は持っていた。

 彼女らは村の中心となることなく、自らの業を修め、そして良い隣人としてその村で仇敵を捜し続けていた。

 昨年は不作であった。

 今年の冬を超すには至らない。

 なればこそ、隣人として山賊を買ってでた。


 ――そうなれば、最悪の事態として裁きを受けるのは自分たちだけであるから。


 そんな折りである。

 ヨッドヴァフへ向かうニヴァリスタの学者が行商と共に訪れたのは。

 学者の容貌は若い男であった。

 彼等の仇敵の年齢を考えれば、これほどには若くは無い。

 そう思い、看過してしまった。

 また、この学者の屈託の無い笑顔、そして、村人に親切に接する態度。

 そして、何より、彼女らですら治せぬ病にかかった村の子供を治療するために使った技術とそれを惜しみなく与える優しさ。

 それを善意の人と認識してしまうには、十分だったのだ。

 ネイリンはその時、自分が優しさの中で自分の中の牙が丸くなってしまったことを悟った。

 だから、本来、守るべき人達を守ることができなかった。


 「異変は、まず、子供から現れた」


 最初は湿疹だった。

 赤く晴れ上がる程度の湿疹で、森で遊ぶ子供達が触れてはいけない草木に触れたものだと思った。

 軟膏を塗り、腫れが引くのを待てばよかった。

 腫れはすぐにも引いていった。

 ここで、気がつくことができればよかったのだ。

 その子供達は決して、森に行って草木に触れた訳ではなかった。


 ――それが、草木によるものではなく、悪魔の所業であったことに。


 湿疹はやがて大人にも現れるようになった。

 軟膏も底をつき、いよいよおかしいと気がつく頃には既に手遅れであった。

 草木を調査し、時間を空費しそして、事態は収拾がつかなくなる。


 ――奇形の子供が産まれた。


 人の腹から産まれたその子供は人ではなかった。

 浅黒い肌を持ち、濁った沼が気泡で膨れあがるように肌に隆起を持ち、腐った卵のような匂いを発していた。

 顔に瞳は無く、肩に一つだけ開いた瞳が爛々と見開き、喉に開いた口から産声を上げた。

 母親は発狂し、自害した。

 産まれた子供は母親を求め、泣き、乳の代わりに首を裂いて死んだ母の血をねぶる。

 村を包みはじめた異様な気の流れに気がつけたのはこの頃であった。

 次に、現れたのは妻を喰う夫だった。

 長年連れ添い、病に伏せた時に遠くグロウリィドーンまで薬を買いに行った夫は、赤い湿疹が黒くふくれ、痒みに耐えきれず、自らの血を塗った。

 赤い血が青く染まり、やがて、黒ずんでくると自分の痒みが渇きとなる。

 そして、健常な妻をどこまでも欲した。

 そう思った時、彼は人の姿を崩し、一匹の魔物の姿へと形を変える。

 愛した、そして、愛をくれた夫が変貌し戸惑う妻に夫だったものは泣きながらに愛を囁く。


 ――お前だけだ、お前だけなんだ。だから、助けてくれ、助けてくれ。


 戸惑い、狼狽える妻に口づけし、その顎を喰らった。

 ネイリンが見たのは男が泣きながら動かなくなった妻に顔を埋め、慟哭を上げている姿だった。

 愛を叫び、失った慟哭を響かせ、それでも喰らう夫の引き裂かれた心の末路と、魔物となり最早、生きていくことが叶わなくなった絶望であった。

 討ち果たし、最後に泣きながらに訴えた言葉を覚えている。


 ――痛い、痛いんだ、どこへ行ったんだメリー、嗚呼、痛いよ、お前が見えない。


 その惨劇は村のあちこちに広がった。

 人が人を喰らい、やがて、魔物のみが闊歩し互いを喰らい合うようになるのに時間はかからなかった。

 ネイリン達も例外ではなかった。

 次第に狂わされていく内気に異常を感じた。

 彼女らがその狂気に捕らわれずに入れたのは卓越した内功のおかげであった。

 だが、功夫の至らない者らはそうではなかった。

 ネイリンがその異常の原因が水にあると判断できたのは、朝餉の時であった。


 ――修練の為に、食事の水は離れた山麓の水を運ぶ。


 不調の為、村の井戸から水を汲んできた若い修道者が変調し、また、自らも口にし僅かに内気を狂わす流れを感じた。

 その原因は先日の学者が救った子供のみが知っていた。

 変調を来たし、魔境と化していく村の中、その子供だけが変調することなく健常なまま精神を蝕まれていた。

 ネイリンはその少年についても深く、知っていた。

 産まれてからこの方、肺を病んでおり他の子供と一緒に遊ぶことができない。

 いつも家に閉じこもり、時折やってくる行商から高い薬を買い付けていた。

 不憫であった。

 ネイリンも時折、尋ねては内功を整えた。

 そして、長くは無いだろうと診ていた。

 少年は聡かった。

 父母やネイリンの態度から、自分が長く生きられないということを知ってしまった。

 自らの不遇を嘆き、他を羨み、それでも他を愛せるのがこの少年だった。

 そんな少年の前に、その学者は現れ、言ったという。


 ――君は生きることができる、と。


 そうして尋ねたのだ。


 ――だけどもその代わり、君は今まで得ていたものを失う。君が病弱であったことから特別であった親の愛、友人の優しさ、全てを失うけど、それでもいいのか、と。


 それは並び立ち、甘えられなくなることだと思ったのだという。

 だからこそ、少年は頷いたのだ。


 ――それでも、生きたい、と。


 誰が死と向き合う少年が得た光明を責められようか。

 少年は瞬く間に病を治し、自らの足で井戸へ向かい水を飲んだ。

 生きていけることを覚え、世界が開けた。

 だが、それは共に彼の世界を閉ざしたのだ。

 徐々に戻る体力と同時に、村では異変が起こり始めた。

 流行病だと思い、両親は少年の体調により気を配った。

 だが、病が蔓延するにつれ、少年は自分の体調がより良くなっていくことを覚えた。

 やがて両親が病に冒され、湿疹を出すようになる。

 軟膏を塗っても治らず、やがて両親は互いに喰らい合う。


 ――少年の目の前で両親は互いに泣きながら喰らい合ったのだ。


 それは少年の未だ強くはない心を砕くには十分すぎた。

 だが、それでもだ。

 日に日に体調が良くなっていく自分に異常を覚える。

 最初は、ドアの扉だった。

 古びたドアの取っ手を軽く、握っただけだ。

 その取っ手がひしゃげ、破片が掌につきささった。

 異常な力に驚くが、掌の傷を見てさらに驚く。

 突き刺さった木片を押しだし、するすると塞がっていく傷に少年は恐怖を覚えた。

 村中が阿鼻叫喚に包まれていくなか、力を得て、心を壊した少年はやがて知る。

 あの、学者が言った言葉の本当の意味を。


 ――全てを失う、と。


 ネイリンに吐き出し、少年は人間として最後の涙を流す。

 自分は死んでもいい、得た物は全て返す。

 だから、どうか、村のみんなを救って欲しいと。

 ネイリンの前で少年は泣きながらに願い、そして、人間を終えた。

 一度成された契約は破棄することは、叶わない。

 そう告げて、少年は悪魔へと変貌する。

 沼気が漂い、瞳を赤く染め、村を闊歩する魔物達が少年の元へと集まる。

 それらは巨大な腐肉の塊となり少年を飲み込み、そして悪魔は本来の姿を取り戻す。

 それは、霧の悪魔『ミステブブルグ』と名乗った。

 少年の姿をしたそれは、うつろな瞳で虚空を眺め、アストラの階から降りたことに歓喜の声をあげた。

 ネイリン達は少年の儚き願いを喰らい、ただ穏やかに生きる人々を殺めた悪魔に怒りを覚えた。

 修めた奥義の数々を用い、この悪魔を討ち果たそうとした。

 だが、悪魔はそれらの奥義の数々を霧のように避け、一人、また一人とネイリン達を喰らっていった。

 やがて、敵わないことを知り、ネイリンは村を後にした。

 そして、その悪魔を討ち果たす為に、仙人と謳われ数々の武と術を修めた紅麗仙の話と二代目江湖宗主が療養の為に幾度かアブルハイマンの街に訪れていることを聞き、その庵を訪ねたのだ。


  ◇◆◇◆◇◆


 話を聞き終えるや、シャモンの顔つきが変わった。

 そこに立つ男は先ほどまでのどこか茫洋とした男ではなく、死生の先を見つめそれでも不徳を許さぬ江湖の宗主が居た。


 「あいわかった。力となろう」


 それを押しとどめたのはコーレイセンだった。


 「ダメだダメだ!それは悪魔だ!今のお前では敵わない!お前より功夫を修めたネイリンが敵わない相手なのにどうしてお前が勝てる!少し天道が見えるからといって増長するんじゃないよ!」

 「なれば何か?悲哀に沈む者達の慟哭を聞き、敵わぬからと座して時を待ち、不徳のままにするを看過しろと」

 「ふざけるのも大概におし!あんたは見たんじゃないのかい!鉄鎖解放戦役でそのとおりのことが起きたじゃないか!あんたが救ってやった奴隷達は一体どうした!国にどうされた?そうして纏め上げたのが江湖じゃなかったのかい?」


 コーレイセンは悲痛に訴える。

 その二人のやりとりにネイリンはこの二人の師弟が多くの苦悩の先に居ることを知る。


 「国は大きな戦役を起こした奴隷達を秘密裏に処断した。私やアスレイ達はその筆頭として元は仲間だった奴隷達に売られた。それだけじゃない、恨みつらみが折り重なって最後は子供達にまでむごいことをされたじゃないか。だから私は江湖を作った。奴隷達が生きていくのに、国と戦っていけるように」

 「理解はしている。だが、その理念はどこにいったんだ。不徳を仇とし、卑しく貧しくとも気高く生きる江湖の魂はどこにある?ただ、無為に集まり力をつければそれは等しく悪魔と同じ所業を繰り返す。なればこそ、なればこそ、その理念のみは息吹をもって吹きつけ正しく行わなければならない」


 シャモンはどこまでも正しく江湖宗主として言葉を師にぶつけた。

 どこか泣きそうな顔でコーレイセンが告げた。


 「勝てることの無い相手に背を向けることに、誰もあんたを責めることはできない。それができるのは戦える力を持つ者だけだよ。そして、そんな奴ぁ誰一人居ないよ。だから、あんたは逃げて力をつけるんだ。今は」

 「婆ちゃん」


 シャモンは天を指さし地を指して告げる。


 「居る、居るんだ。天と地の狭間に立つ、ただ一人、それを責める者が居る」

 「誰だい、それは」

 「――俺だ」


 シャモンはそう告げて静かに目を伏せた。


 「……天と地の狭間、ただ一人我は立つ。天知る地知る、我が知る。ただこの時、己が成すべきを知れ」


 生きてなお、死してなお。


 ――戦うべき理由を得た鬼は全ての慟哭を背負う覚悟を見せた。


 「婆ちゃん……婆ちゃんが言ったんだ。酔っぱらいから銭盗んだ俺に。己だけは死ぬまで最後まで自分で見つめなくちゃなんねえって」


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