第4章 『汝、隣人を』11
多くのことを知った夜だった。
シルヴィア・ラパットは圧倒的な暴力を前に、未だ、無力であった。
王城の奥、深い闇に支配された一室でシルヴィアは深く、深く思考に沈む。
「考えごと、でしょうかね?」
それは音も無くやってきて、どこか場違いな明るい声を出した。
それは理も無く燭台に火を灯し、明かりをつけるとどこか飄々とした笑顔で会釈した。
グレン・シュナイダー。
灰色の魔術師と呼ばれるその魔術師にシルヴィアは首をもたげた。
背を預けていた古い樫の木の椅子が軋み、不機嫌な音を立てる。
殺意を向けた眼光にも気がつかないこの男は、どこか彼女の知る男と似ている。
「至らない、理由については察しているのでしょう?」
小首を傾げて尋ねる男は悪意を感じさせない屈託の無い笑みを浮かべる。
その笑みまでもが似ているからこそ、余計に腹立たしい。
シルヴィアは目を逸らし、鼻を鳴らした。
「理由があるから、斬るのではなく、斬るのが剣、なのでしょう?」
灰色の魔術師はとつとつと語る。
その言葉の一つ、一つがシルヴィアの心に染み入り、蝕んでいく。
「あなたは、決して思う人達に追いつけていない」
「何が……」
グレン・シュナイダーの言葉に、シルヴィアは応える。
ゆるやかに身を起こす。
銀色の髪が燭台の炎の照り返しを受け、鈍く輝く。
「……何が、言いたい?」
気だるげな瞳が魔術師を捕らえる。
多くの夜を震え上がらせた銀髪鬼の手が届けば死ぬ位置にその青年は居た。
だが、手のひらの上で怯えることのない愛玩動物のように屈託の無い笑顔を眼鏡の奥に浮かべる青年は苦笑して告げた。
「抱えているものが多いんですよ。だから、デッドボトルになる」
グレン・シュナイダーはガラスの瓶とナイフを手に取る。
ゆらめく炎の中で砂の詰まったガラス瓶を逆さにし、零れる砂を見つめる。
「砂を出すなら、瓶の口は要らない」
ごりごりとガラスを削り、瓶を斬る。
やがて切り落とされた瓶は砂を床に吐き散らす。
「ほら?」
シルヴィアは薄暗い光の中で鈍く輝く、瓶の口を見つめ小さく息を吐いた。
「……それは、瓶ではない」
「だけど、瓶である必要は無い」
灰色の魔術師は小さく、そう、小さく囁いた。
「覚悟が、できないのかい?」
シルヴィアは能面に悪魔の笑みを隠して鼻を鳴らした。
「覚悟は、すませました」
グレン・シュナイダーが笑った。
「なら、斬るべきだ」
この男は悪魔だとシルヴィアは直感した。
「人に許された時間というのは、そう、とても短い」
だが、それでもだ。
彼女が求めた強さというのはそれらを全て飲み込み、下す力。
シルヴィアはどこまでも深く広がっていく暗い愉悦を飲み下し、剣を取った。
「……いずこへ?」
「……斬りに」
そう呟いて立ち去るシルヴィアの背中を見送り、グレン・シュナイダーは苦笑した。
手の中にある口の無い小瓶を弄び、眼鏡を直すと呟く。
「だけども、君はどこまで行こうと硝子の小瓶だ。それは変わらない。変わりたいと願うから……歪むんですがね?」
◇◆◇◆◇◆
全てが終わる頃には朝日が黎明の中に浮かんでいた。
傷病人の収容や避難を終えた人々の誘導を終えて騎士団に戻ることもできずダグザは聖フレジア教会の中庭で微睡んでいた。
どれだけ無力で、何もできずとも身体は疲労を訴える。
それがどこか意地汚く思い、ダグザは意味もなく睡魔と戦い、それでも弱さに負けてベンチにどっかりと座り空を見上げていた。
知らずに、涙を零していた。
自分は、何をやっているのだろう。
友は自分を置いてどこまでも高みに登り、いつしか手の届かないところに居る。
自分は身の置き場を無くし、騎士団では疎まれ、聖堂騎士団にも居場所を無くした。
戻る家にだって居場所は、無い。
どうしようもないから未練がましく、今の場所に居るしかできない。
「なんだかなぁ……」
頬を伝う涙を拭い、鼻を啜ると背中を丸め、肩を震わせる。
その視線の先、シルヴィアが立っていた。
「……シルヴィア?」
ダグザは情けない自分を見られるのが嫌で必死に笑顔で取り繕う。
涙を拭い、笑顔を作ると友人を迎える。
「ここに来るのは、久しぶりじゃないか」
シルヴィアはゆらゆらと揺れながらダグザに歩み寄る。
ダグザはそれでもやはり、涙が零れてしまう。
思い出してしまったのだ。
行儀見習いに出された幼い頃、二人で何かあれば夜に抜け出してはここで集まったことを。
「すまないな」
ダグザは涙を拭い、モルジアが花を咲かせる生け垣を広げる中庭を見渡す。
「こうして、会うのは本当に久しぶりだな?」
「そうね」
腕白と揶揄されていた昔、友であったシルヴィアは悪友につきあう令嬢という評価であった。
どこかおとなしかったシルヴィアを引っ張っていたのはいつも自分であった。
口やかましい修道長に悪戯をする時も、夜中に修道院を抜け出して墓場に行くときもシルヴィアを引っ張っていたのは自分であった。
だが、自覚はあったのだ。
自分が引っ張っているツモリで、いつも、このどこまでも冷静で頼りになる友人が自分を導いてくれるということに。
いつの間にか、歩む道を二人違えた。
「ここで過ごしていた頃は、本当に、良かった」
感慨深く吐き出し、ダグザは語る。
シルヴィアは頷いた。
「そうね……何も知らない子供でいられた」
「私とお前は、ずっと友達で居られると思っていたよ」
どこか、寂しそうに呟くダグザにシルヴィアは首を振る。
「いつまでも、友達であることには、変わらない」
「そう、思ってくれるのか……」
どこか、情けなさを覚え、それでも友と言ってくれるシルヴィアにダグザは鼻柱が熱くなる。
シルヴィアはどこまでも冷めていく感情のまま、告げた。
「私をかばって、罰を受けてくれたあなたの優しさを、今でも覚えている」
「罰をうけた私に、パンを分けてくれたお前を、覚えているよ」
どこまでも良き隣人であった二人は、互いに違う笑みを浮かべた。
ダグザはそれでも最早、自分が友に追いつけないことを悟っていた。
「シルヴィア、すまない、私は……」
謝ろうとした。
いつまでも友であろうと誓ったから。
自らが、至らないために友であれないから。
だが、謝罪の言葉がその口から吐き出されることはなかった。
「だからこそ、私はあなたを斬る」
ダグザは自分の胸に突き立てられた剣を、愕然として見下ろす。
流麗に突き出した剣は、他愛もなくダグザの胸に吸い込まれていた。
他の誰を斬る感触とも、変わらない。
シルヴィアは理解する。
鉄は、ただ、人を殺す。
人は、斬れば死ぬ。
ただ、振るえば人は、死ぬ。
「……シル、ヴィア?」
引き抜き、崩れ落ちるダグザを見下ろしシルヴィアは鼻を鳴らす。
断ち切ってしまえば、なんということはない。
「こんなものか」
そう呟いてシルヴィアは静かにその場を立ち去った。
取り残されたダグザは眩んでゆく意識の中、どこまでも至れない自分を侮蔑した友に激しい悲しみを覚えた。
◇◆◇◆◇◆
秋の残滓が終わり、冬が来た。
それは多くの人に冷たく、厳しい時代が訪れたことを知らせるには十分な、硬く冷たい空気だった。
「――これらの者は王国特別律法が禁じる悪魔崇拝を行い、みだりに人心を掻き乱した。それをヴァフも、フレジアも許しはしないッ!」
ヨッドメントの徽章を掲げる騎士が、広場へと多くの人間を引き立てる。
国の暴力として憚ることのなくなったヨッドメントは『邪教徒狩り』と称して、多くのフィダーイーをその凶刃にかけた。
処刑台に吊される邪教徒を遠巻きに見つめ、ヨッドヴァフの民達は不安に顔を歪める。
その人々の中でラナは静かに息を吐くと、その光景をじっと見つめた。
その肩に現れたパーヴァが呟く。
「……あれは、人だろうよ」
「ええ」
「奴らはフィダーイーを口実に、自らの意に沿わない連中もすべからく淘汰するツモリでいる」
「……それが、暴力の本来のあるべき姿」
ラナは外套を抱き寄せるように引くと、篭を抱えなおした。
処刑台の上に黒衣の処刑人が現れる。
苦痛の悲鳴を上げる罪人を磔台に引き上げ、腕と、足を釘打つ。
いつまでも緩慢な悲鳴が響き渡る中、彼等に火が放たれた。
後ろに従うタマが静かに白日の下に振るわれる暴力が血と矯正を受け止める。
どこか冷めた瞳で見上げる少女の前に立ち、ラナは大きく溜息をついた。
「……弱き者が、いつだってその矛先に挽きつぶされる」
「あなたも、元は」
「小さき身だ。長く生きれば至ることより、至らぬことの方をよくも覚えているものさ」
パーヴァは溜息混じりに吐き出し、ラナを見上げた。
「……フィダーイーは決して、そう、決して人を許しはしない」
「多くの血が、流れます」
「理解しているのか?お前が、望んだことを」
どこまでも静かなラナにパーヴァは改める。
「スタイア・イグイットは人の身にありながら、全てを斬ると言った。だが、叶うものか。真の暴力を前に、人一人、どれほどあがこうと暴力の濁流に押し流される。そうなれば流れるのは多くの……弱き人々の血だ」
ラナは肩に止まる小さな隣人に少しだけ微笑むと、告げた。
「……どこまでも、悲しいから、夢を見る。それは叶えばきっと素晴らしい。あなたも悲しみの途中に居る。だから、いつか、必ず」
ラナは繋ぐべき手を繋ぎ、タマの手を引いた。
苦しむ人々の声を背に、彼女は再びヨッドヴァフの暴力の中へと舞い戻る。