第2章 『鉄の理、英雄の果て』 3
マリナとアンネは姉妹ではない。
がしかし、身寄りを亡くし娼婦として生きる道を互いに選ばされ、形だけの姉妹となる。
それが奴隷としての境遇ではある。
「アンネ、あなたは何故そう、身なりがだらしないの?」
マリナは妹のアンネをしかりつけ、アンネは怯えるようにうつむく。
「あの……お掃除してて、その、ごめんなさい、お姉ちゃん」
娼館、とはほど遠い、場末の酒場の片隅で店を閉める手伝いをしていた時だ。
「だから、あなたには買い手がつかないの。タダ飯を喰らうだけの娼婦なんてお店にとっては要らないのも同じよ?」
「でも、掃除してて、ちょっと汚れてしまって……でも、その」
「口答えは要りません。すぐに替えてらっしゃい」
彼女らは酒場の客を相手にし、買い手がつけば一夜共にする娼婦だ。
娼館のようにそれを目的として来た相手をする立派なものではないが、奴隷として売られた身としては生計を選んではいられなかった。
アンネが帰ってくるころには店を閉じる仕事は終わっていた。
「あの……お姉ちゃん、その……」
「本当に仕事のできない子ね。お客にちやほやされるのは若いウチだけだと思いなさい。支度をしたなら帰りますよ?」
厳しい姉に従えられ、アンネはしぶしぶ頷いた。
客の居ない日の彼女らには自由になる収入は無い。
それは苦しい生活には違いなく、そういう身上であることは奴隷である以上、仕方がない。
だが、その生活が決して彼女らにとって悪い訳ではない。
「……スタイアさん、今日も来ませんでした」
「ああいう人を当てにするのはおよしなさい。帰ったらクローゼットを点検なさい。虫が沸いていたら承知しませんからね」
帰宅する道すがら、マリナはアンネをたしなめる。
店の用意した仮住まいではあるが、二人にとっては家のようなものだ。
いつもなら、夜が明けてから帰路につく二人だが、客の居ない日は早くに戻ることができる。
繁華街のある西側のグロウリィストリートの裏側には多くの娼館が存在する。
彼女らはその少し怪しげな雰囲気の通りを慣れた足つきで歩く。
酔った勢いで繰り出す若者や、うらぶれた身なりの男が一夜限りの夢を求めて彷徨っている。
それらを背中に流し、戻る彼女らの心は僅かながらに浮いていた。
早くに眠ることができるからだ。
がしかし、その日はその幸運がかえって仇となる。
「あれ、なんだろう?」
仮住まいまでの道すがら、人がまばらとなるのはどうしようもなかった。
だが、いつもとは違う雰囲気を二人は敏感に感じ取り訝しむ。
妙な生臭さに満ちていたからだ。
生理的な欲求を相手に商売することから、生臭いのには慣れていたが今まで覚えたどの匂いともつかない匂いに二人は眉を潜める。
「なに、あれ?」
アンネがマリネに尋ねるがマリネは首を傾げる。
建物の壁にうずくまるようにして黒い影がぴちゃぴちゃと音を立てていたのだ。
物もらいが店の残飯をさらって食べている光景は二人も幾度となく見てきた。
がしかし、それにしても異様であった。
残飯にしては糞尿のような刺激臭も混じっているし、それが口にくわえているものはロープのように長く、薄い桃色をしていたからだ。
アンネが恐る恐るそのヒモを覗いたとき、それと眼があってしまった。
――眼が一つしかなかった。
「ひぃあ――」
悲鳴を上げようとした頭が、無くなっていた。
勢いをつけて転がるアンネの体から追って吹き出た血が石を敷き詰めた道に叩きつけられる。
「あ、あ――」
マリナはそこまできてようやく、客の話した噂話を思い出した。
――グロウリィドーンに出る、魔物の話だ。
足が震え、アンネを助けなければいけないと考え、それがもう手遅れであることを知る。
錯乱し、顔を手で覆うが眼はしっかりと魔物の口で潰されていくアンネの頭を見ていた。
自分と同じ赤い髪が魔物の口から跳ね、先の別れた舌先に絡んでいる。
「ひぃ……あああっ!」
声の限り叫んで、走り出す。
魔物はぎょろりと一つしか無い瞳をアンネに向けると、六本の足を器用に動かし追ってきた。
自分の遅い足では追いつけぬと知った魔物は背中から二対の羽を生やすと羽ばたかせる。
マリナは振り返り、夜空に血を滴らせながら飛翔する魔物を見てしまった。
「――ギュルゥゥ……オォォウウ……」
喉の奥から発せられた咆哮に押されるように魔物がマリナに飛びかかる。
足で肩口から組み伏せられ、まだ、アンネの髪飾りが残る魔物の口がマリナの眼前で広がる。
「いやぁ!やぁっ!たす……助けてっ!いやぁぁああっ!」
もがくマリナを魔物は無理矢理に押さえつけるとその牙を振り下ろそうとした。
「ああ、ああぁぁっっ!」
「一斉射ッ!続けて包囲っ!かかれっ!」
飛翔したボルトが魔物の頬を貫いていた。
伏せ撃ちの態勢から打ち上げられたクロスボウのボルトが魔物をマリナから引き剥がした。
ガシャガシャと鎧の響く音が聞こえたと思った時には、マリナは抱え上げられていた。
マリナの見つめる魔物との間に騎士団の紋様が入った鎧が割り込む。
それらは魔物を囲むと、手にした槍を突き立てた。
「ギャアアン!ギャン!」
槍ふすまにされても、まだ生きている魔物は悲しげな声で泣く。
「油断するな!止めを早く!」
そう告げたのは第七騎士団所属のアーリッシュ卿だった。
身長ほどもあるクレイモアの刀身の根本を掴み、槍のように突き出して魔物を貫く。
その横から振り下ろされたハルバードが真っ二つに魔物の体を押しつぶした。
「……大丈夫、ですか?」
シルヴィアは腕の中でがちがちに震えるマリナにそう尋ねた。
「あ、ああ?あ?……あの、アンネを助けてあげなきゃ……あの子、グズだから何もできなくて……でも、良い子なんです……あの、アンネを」
「落ち着いて下さい」
「アンネを助けてあげてくださいっ!助けてあげなきゃいけない子なんです!まだ、一人で生きていくことのできない子だから、厳しくしなくちゃいけないんです!早く!お願いします!」
「残念ですが、落ち着いて下さいっ!」
シルヴィアはマリナの頬を張り飛ばす。
マリナは全身から力を無くし、嗚咽をはじめた。
「アンネ……ああぁ……アンネェ……」
シルヴィアは悲しみに泣く娼婦を見下ろしながら、何も言えずに側にしか居れない自分の弱さを恥じる。
こんなとき、スタイアはなんと声をかけるだろうか考え、全てを能面のような無表情の下に押し殺し、淡々と任務に逃げる。
「……怪我は無いようだな」
「はい、ですが……」
「生きづらい時代だ。仕方があるまい」
そう言いきったアーリッシュに驚きを感じるが、その顔に苦悩があることを見て知ったシルヴィアは静かに頷いた。
「……アーリッシュ、第三騎士団の到着だ」
魔物を真っ二つにしたハルヴァードを肩に担いだダッツが顎で示す。
道の奥を抜き身の剣を手にした第三騎士団の紋様の入った騎士達が駆けつけてきた。
「む……」
先頭を走っていたのは騎士団長の勲章を持つ、第三騎士団長のオズワルドだ。
四十を過ぎた落ち着きのある巨躯に、色の褪せた使い込まれた金の鎧を身に纏っている。
手に握られた抜き身の剣はがっしりとした合戦用のもので、相当の手練れであることがその所作の一つ一つから伺えた。
「アーリッシュ卿か」
「オズワルド卿。今し方、状況は納めました」
「第七騎士団は騎士団長自ら見回りに参加するのか」
「……命を張らねばならぬ時に指揮官が前に出られぬ臆病者では誰もついて来てはくれはしません。それが平和というものです。第三騎士団こそオズワルド卿自らが前に出張らなければならないとは」
「それが平和だ。平和な指揮官は生き延びて汚名を背負って部下をより多く救うより自ら死んで誰かの代わりになった方が尊ばれる。そんな矜持はいい。それより――」
オズワルドはアーリッシュの向こうで泣き崩れるマリナを見つめ、眼を細めた。
「……遅かったか」
「はい」
うなずき返したアーリッシュは剣を背負うと深く溜息をついた。
「ガルフォ、バーメラ、死体の検分と搬送を手伝え。手厚く葬ってやれ。カチスは第二班に連絡して予備巡回に当たらせろ。メッツとウェグンは俺とこのまま予定通り巡回を続ける」
オズワルドは手早く指揮をするとアーリッシュの肩越しに泣き崩れるマリナをもう一度だけ見つめる。
そのまま背中を向けて去るオズワルドにアーリッシュは自分と同じ強さを感じた。
「……ダッツ。オズワルド卿は信用に足る人のようだな」
「冒険者上がり、といえば聞こえはいいが、辛い時代を生きてきているのは確かだ」
「だけど、忘れてはならない。誰かの思惑のせいで悲しむ人が居る」
アーリッシュはいつまでも泣き崩れたままのマリナを見てそう呟いた。