第4章 『汝、隣人を』7
エレメラは幼いフィッダ達を連れ最後の贅沢をさせた。
長い逃亡生活となるだろう。
人でもなく、また、魔物にもなりきれない彼女達が新たな生活を築くのは容易ではない。
忌み嫌う人の街であるヨッドヴァフがどこか恋しく思える。
良い思い等は何一つなかった。
だが、それでも生きていられる場所ではあった。
「エレメラ」
幼きフィッダ、ネガリとジュジュがエレメラを心配そうに見上げていた。
手にした甘菓子を口にすることなくエレメラを見上げた瞳が不安に揺れている。
エレメラはかがみ込み、そっと頭を撫でると小さく微笑んだ。
強く、生きねばならない。
それが理なれば、能う限り逃げ、全ての境遇と戦わなければならない。
「エレメラ、我らはもうこの地に」
「選べる強さは、我らに無い。夜の帳が開けば、我らは東へゆく」
生の短さは理由にならず、それでも立ち向かう覚悟だけは持っていた。
「生きて、ゆけるのでしょうか」
「艱難は生を強くする。渇望し、選ぶことに手を伸ばせ。世界は強きお前達を拒まない」
エレメラはそう告げて足早に街を抜けて貧民街へと戻る。
幾人かのフィッダと街中ですれ違い、誰もが異変に気がついていた。
あれだけうるさく街を巡回していたヨッドメントの姿が、無い。
公の暴力が昼に姿を潜めているなれば、彼等は瞼を閉じているのであろう。
夜の帳が開けば、彼等もまた瞼を開く。
そうなれば。
大がかりな襲撃を前に、立ち向かうことを考える者もあれば、エレメラのように立ち去ることもあるのだろう。
不穏なヨッドヴァフの夜を迎えるのは幾度になるだろう。
今宵、彼女らはそのヨッドヴァフを発つ。
――その時、全ての者が知らなかったのだ。
その夜を境に、ヨッドヴァフは誰に知られることなく暴力の時代を迎える。
◇◆◇◆◇◆
スタイア・イグイットは当面の糧秣を犬の背に乗せると、自らの具足を纏う。
すり切れた外套を手にしたラナが背中から外套をかけ、ゆるやかに羽織る。
背中から外套をかけたラナが静かに後ずさり、静かな眼差しをスタイアに向ける。
スタイアは犬の背に跨ると、ラナを見つめ返し、グロウリィ・ウィングヘルムのバイザーを僅かに上げた。
「……すぐに戻ります」
ラナはゆるやかに首を振った。
「闇の帳が、開きます」
「なれば」
「なればこそ」
ラナの静かな声にスタイアは瞼を閉じ、息を落とした。
ラナはスタイアに告げる。
「未だ、時と場所を越え、意思を繋ぐ術はなく、だからこそ、人は赴く。あなたは知らなければならない。人が、あなたに願う思いを」
スタイアは犬の背から静かに頭を下げる。
僅かに歩み寄るラナに犬を寄せると曲がった背をさらに降り、ラナの顎をなぞる。
あげた唇に重ね、刹那の邂逅をすませるとスタイアは剣をなぞった。
「あしには人を斬ることしか、できゃせん。そっがなんばといわねじかが」
「過去を」
ラナはそれだけ告げると静かに頭を下げた。
スタイアは振り返ることなく犬の腹を蹴った。
歩み出した犬の背が人の流れの中に埋もれ、その後ろ姿を眺めてラナは小さく息を吐いた。
どこまでも名残惜しく景色を見つめると、ラナはやがて覚悟を決める。
「……君は、人ではなかったのか」
影の中、静かにそのニザは告げた。
「私は未だ、古き約定の中に居る」
影から現れたのはイシュメイル・スタークラックであった。
人の輪郭を影にゆらめかせ、白鯨の瞳を持ったニザは思いに揺れるラナに歩み寄った。
「君は未だ、人になれずにいる。あの男の強さは、君の全てを断ち切るには至れない。能わず、至れず、それでも繋ぐ、それが人なのだろう。連綿の時が繋ぐなら、刹那の時は君の嘆きを誘う。そして、君の嘆きは暗きフィッダの夜の中に響く」
ラナは振り返り、静かにイシュメイルを見つめた。
「私は、私です。また、彼も」
その傍らに立つ、タマが静かな目でラナを見上げていた。
不安を隠し、見上げるタマにラナは微笑んだ。
イシュメイルはその笑みに、驚きを隠せずに狼狽した。
「……大丈夫よ」
紫紺の姫は争う覚悟を決めた。
◇◆◇◆◇◆
多くの血が流れる夜となった。
音もなく、声も無く、ただ、鋼が風を切る音を響かせ、赤と青の血がヨッドヴァフの夜を染め上げた。
フィッダ・エレの凶刃がヨッドメントの胸を貫く。
鮮血をモザイクを彩る石畳の上にまき散らし、苦悶の声すら上げず男はこと切れる。
だが、次の瞬間、闇の中から腕を伸ばしたヨッドメントがフィッダ・エレを掴み、いくつもの鋼がフィッダ・エレの青き血を赤い血の上に広げた。
折り重なるようにフィッダ・エレがヨッドメントの中を滑り、人の喉を破ってゆく。
だが、死してもフィッダ・エレに絡まる人の腕は腕ごと、他の鋼によってフィッダの命を潰してゆく。
ディスケス・ダリドの指揮はあざやかであった。
押し殺したように響く、命が潰れる音を聞き、ディスケス・ダリドは呟いた。
「……数、というのも力だ」
ヨッドヴァフの西、街壁の上に設けられた尖塔の上で街を睥睨しながらディスケス・ダリドは配下の者に次の手を伝える。
「被害が、甚大となりますが」
「それでいい」
ディスケスが取った手段は最も、非効率な手であるとアルヴィーテは思った。
――フィッダ・エレを三人の命を使って、殺す。
一人が斬られるならば、その間に残りの二人で。
数に恃む方法を地でやっているのだ。
フィダーイーに繋がりのあるアルヴィーテはヨッドヴァフに潜むフィダーイー達がヨッドメントの取る手管が人海戦術によるものと既に看破していることを知っている。
当然の如く、それらに応じる手管をフィダーイーは用意していた。
だが。
「暴力は、無くならないンだよ」
ディスケス・ダリドは英雄が抱えている幼いヨッドメントの少女を嗤った。
「わからンか?」
アーリッシュ・カーマインの元でその動向を探り、フィダーイーの動向を逐次伝える少女に教えてやることにした。
「いつの時代、どこの場所、どんな奴であろうと……隣に人が居れば、暴力を持つンだ」
「傷つけあうならば、それは互いを滅ぼします」
「そいつァ、至言だ」
ディスケスは鼻で笑うと、再び街を見下ろした。
ヨッドヴァフの紋章を刻んだ甲冑が月明かりの中、禍々しく輝く。
「だからこそ、互いに理解し合う必要があるんだよ。『こいつにゃ、逆らえねぇ』ってことをな?」
視線の先、屋根に逃げ延びたフィッダ・エレを貫く矢がひらめき、青い血が飛沫を散らした。
「いくら殺そうが、俺達は次々と人を用意する。この夜にほとんどが死のうが、また、すぐに人は足せるンだ。逆らえば、滅びる」
血に酔っている、と、言葉を飲み込んだ。
「知ってるだろうさ。奴らも。だからこそ、真正面から折るんだよ」
アルヴィーテは眼下に広がる光景を見下ろすディスケスの眼差しがどこまでも冷たく、怜悧な知性の光を絶やしていないことが理解できた。
「血に酔っている、と思うか?」
どこまでも血を見てきた男の瞳だった。
血の中で抗い、生き続けてきた男は痛みを覚え、痛みを忘れる程暴力の中で生きてきた歳月の中、諦めることなく暴力の真実を見据えて、覚えてきた男だからこそ。
「痛ぇ、だの、辛ぇ、だのはな。机の上と頭の中にゃ無いンだよ」
人が覚えた暴力の高みに居ると理解した。
屋根の上から上を渡り、フィッダ・エレに追いすがる銀の甲冑があった。
シルヴィアだ。
自分と同じくヨッドメントの暴力に染まった少女が、一陣の銀閃となってフィッダ・エレを切り伏せる。
青白い血が髪に絡み、銀色の光を放つ。
「ヨッドメントの殺戮人形、銀髪鬼か。よくよく殺すわな」
いくつもの暴力を刻みつけ、夜を怯えさせる少女は血の匂いにむせび僅かに咳き込む。
暴力の渦中に居て、己の振るう暴力に静かな猛りを覚えていた。
何者をもねじ伏せる力を。
全ての境遇を切り裂く、力を。
ただただ、闘争の中でしか見えない本質を身の上に置き、命が命を叩く戦場で力を振るう。
放たれた毒が霧となり、霧を裂いて伸びる短刀が甲冑の上を切り裂いて飛ぶ。
血が滾り、どこまでも世界が遅くなり、シルヴィアは駆ける。
霧の向こう、逃げ込んだ先に渦巻く殺気は自らを殺そうと伏せたる刺客のものである。
だが、その殺気の渦中に飛び込み、フィッダ・エレが銀閃を振るうより早く、シルヴィアの剣がひらめいた。
遅く流れる時の中で、青い血の飛沫の一粒さえ瞳に映しシルヴィアは駆け抜けた。
命を叩けば、叩いただけ強くなる。
多くの命が轢かれ、潰され、そして淘汰されてゆく。
ヨッドメントの一人がフィッダ・エレに刻まれる。
その背中から刺し貫き、フィッダの額を貫く。
命を命と思わない、暴力の水平に立ち、少女はただ一匹の鬼と化していた。
ヨッドメントの殺戮人形。
銀髪鬼。
国が誇る暴力の印となった少女は己の力を振るい続ける。
その少女の前に、一人のフィッダが立ちはだかる。
「銀髪鬼。ヨッドヴァフの殺戮人形。よく、殺してくれる」
「……三つ腕。赤きラメンマか。貴様の殺し名もこれまでだ」
そのフィダーイーの名をシルヴィアは聞き及んでいた。
紅の装束を纏った三本腕のフィッダ・エレ。
二人が交わした言葉はそれだけだった。
ラメンマと呼ばれたそのフィッダは懐から銀環をそれぞれの手に握るとシルヴィアに投擲する。
銀の環が宙を飛翔し、闇を切り裂きシルヴィアに奔る。
シルヴィアは身を沈め、駆け出すとラメンマに銀閃となって迫った。
ラメンマの手に黒く染まった剣が握られる。
緩慢に振り上げるラメンマの所作に、一抹の危険を読み取ったシルヴィアは奔りながら踵を捻り旋回する。
背面に迫っていた銀の戦輪を一閃し、弾く。
戦輪の後に僅かに銀の光が追って伸びるのを認めた。
薙いだ剣をそのままに、振り向きざまに突き込む。
だが、身を捩って避けたラメンマが翻した剣がシルヴィアの甲冑を抉った。
互いの殺気が交錯する距離。
爆ぜた熱気に二人の腕が激しく巡る。
シルヴィアの剣が中空を翻る戦輪を弾き、剣を打ち払う。
ラメンマは眼前の少女が、臆することなく手の内を明かさぬ自分に挑む力強さを持つことを覚えた。
ただ一本の剣を振るうことは知っていた。
そのほかに、何も手を持つことは無いことは推して知れた。
だからこそ、生きるために手を伏せる。
人には在らざる三本の腕を持つラメンマは二本の腕に絡む鋼糸を操る。
どこまでも細い鋼糸に引かれた戦輪が夜空を生き物のように翻る。
残る一本の腕で握る剣で渡り合えば、戦輪の刃の元に切り伏せられる。
だが、対等に、いや、それ以上に渡り合う少女にラメンマはさらなる手を開く。
戦輪の数が二つから四つに増えた。
四つから、八つに。
ラメンマは腕だけではなく、足に繋がれた戦輪も放っていた。
めまぐるしく飛ぶ戦輪にシルヴィアはより早く腕をたぐり、振り向くことすらなく剣を振るう。
首の後ろを掠めた戦輪が剣の腹を滑り火花を散らし、髪を焼く。
構築された刃の檻の中、目前に立つフィッダが赤き鮮血を纏う魔物であることを覚える。
――赤きラメンマ。
多くの人間を屠った力強きフィダーイーに相違無い。
その敵の距離に居る。
確実に迫る死の腕に、シルヴィアは暴力の水平の上、静かに燃えた。
引き下がることをしなかった。
追った強さが、下がることをさせなかった。
先をゆく強さはこんなものではない。
だからこそ。
シルヴィアの剣が戦輪を繋ぐ銀糸に絡み、火花を散らす。
戦輪の軌道が変わり、他の戦輪とぶつかり澄んだ音を立てる。
銀輪が描く刃の障壁に僅かな亀裂が生まれた。
そこへシルヴィアは一直線に飛び込む。
そうして突き込んだ剣の切っ先が硬い感触を覚える。
ラメンマの隠していた四本目の腕が小さな盾を構えていた。
交錯して突き出されていたラメンマの剣がシルヴィアの首に食い込んで赤い血を流していた。
「まさか」
そう呟いたのは、ラメンマだった。
盾を貫き、真っ直ぐに心臓へと届いた刃が捻られ、血脈を断つ。
鈍く広がる死の腕にだかれ、ラメンマは自らが数多く追いやった死の渦へと飲まれる。
「この程度」
そう、この程度。
追い越さねばならない強さは、どのような奇術も謀りもなく。
ただただ、全てを切り伏せる剣の化身達。
不条理を飲み下し、真正面から叩き伏せる。
強きフィダーイーを下し、至らないフィダーイー達のみが彼女を取り囲む。
シルヴィアは首筋に浮かんだ血を指で掬い、舐め取ると闇の中に居るフィッダ・エレ達を一瞥した。
既に、勝敗は決した。
だからこそ、疑念を覚える。
この、諦めないこの瞳は何だ?
生を諦め、それでも抗おうとするこの魔物達の意思は、何だ?
死をもってして恐れねばならない、それは、一体?
思考の奥にアルヴィーテの数日の奇妙な動きが思い浮かぶ。
そして、嗤う。
「諦めろ。ここはヨッドヴァフだ」




