第4章 『汝、隣人を』2
パーヴァリア・キルはリバティベルの屋根裏から入ると、厨房へと回る。
くたびれた屋根に開いた穴から滑るように降りると厨房では黙々とラナが包丁を振るっていた。
その隣では珍しく店主がデザートを作っており、給仕の娘が忙しそうに店と厨房を行き来している。
給仕の娘もいささか死の臭いが漂ってきたとはいえ、未だ傷のような臭いである。
パーヴァの来訪に気づいているのは店主であるスタイアと女将のラナの二人だけであろう。
「ラナさん、虫が飛んでますよ」
存分に皮肉を告げるパーヴァだが、そのパーヴァに対してこの男は皮肉を言う。
子供のように屈託無く笑う店主はできあがった甘菓子をラナに手渡す。
ラナは忙しい時間帯であるにもかかわらず、一切の作業から手を引き、椅子に腰掛けて甘菓子を頬張り始める。
幾度も見た光景である。
「来客を先にもてなすのが、人の礼儀と聞くが?」
ラナが面倒くさそうにパーヴァを眺め、スタイアが苦笑してカップに暖めたミルクを掬う。
丁寧に作られた甘菓子を小さく切り分けて頬張るラナは一口ごとに小さくため息をつき甘さの余韻に浸っている。
「ふむ、紫紺の姫の密時の邪魔をしたかな?いや、これからか」
からかわれるが慣れたもので、ラナは小さく切り分けた甘菓子を口に運ぶのを止めない。
パーヴァは隣にぞんざいにカップを置かれるが無視されたことに僅かに苛立ちを覚える。
「虫が無視されてますね。ははっ」
苛立ちをスタイアが加速させる。
「ラザラナット、少しは分けろ」
皿に手を伸ばそうとしたパーヴァをラナの手が叩く。
びたん、とテーブルの上に突っ伏す形となるパーヴァは以前にも無心してこうして断られたことを思い出す。
「甘菓子に目が無いというのも困りものだな」
「でっしょう?僕もレパートリー考えるの、結構大変だったりしますよ本当に」
一度だけむすっとした顔でスタイアを睨みあげるがラナは再び甘菓子を頬張ると無表情でため息をこぼす。
子供のように屈託無く笑うスタイアの表情から、それがラナの至福の表情であることは伺える。
全てを食べ終えて、皿をテーブルの上に戻し、エプロンを叩くとラナは再び作業に戻る。
パーヴァは野菜を手早く切り分けていくラナに溜息を漏らすと、面倒くさくなって風呂に入ることにした。
「しっかしま、こんなところまで虫が来るなんて珍しい」
「掃除をしっかりしないから虫が沸くのだろうさ。店主の無精の賜だ」
「あれ?自分で自分を虫だと認めちゃうんですかね」
「虫に刺されて死ぬ人間も多いのだぞ?特にこのヨッドヴァフでは。お前みたいに戸締まりがだらしがないと朝方、冷たくなってベッドに横たわることもあるのだがな」
「まだ、あのこと根に持ってるんですか?体だけじゃなくて器も小さいですねえ」
からかいに皮肉で返し、皮肉で返される。
「ああ、思い出した。思い出したとも。騎士団の蔵から偽の金貨をジェザートの蔵に運べなどと無茶をやらせおってからに。おかげで未だ腰と羽が痛くてかなわん。夜通し鉛を抱えて飛ばされる身にもなってみろ」
「年ですよ。何年生きてるかわかんないボケも入ってるし、そろそろ卵でも産んで隠居した方がいいんじゃないですかね?」
「百年も生きられない貴様ら人間と一緒にするな」
パーヴァはスタイアと軽口を交わし、大きな溜息をつく。
漆黒の仕手と呼ばれるくらいにはヨッドヴァフで人を殺してきた。
正しくはもっと、多くの人間を殺してきた。
ハイ・フェアリアンと呼ばれる種族は現在の人では理解できない高次元の存在である。
だが、今の人間からしてみればそんな彼女であっても魔物の一つでしかない。
長すぎる寿命、人にあらざる容姿の彼女は今の人間に理解できない。
多くの歴史の中、彼女は人や魔物の命を奪い、生きてきた。
「何か、ありましたかね?」
「貴様をどう殺してやろうかと考えていたところだ」
ほんの僅かな所作で思考の機微を伺えるのは人間の特徴なのであろうか。
軽口を叩きながらも、多くの歳月をかけた業でもっても自らでは殺すことができなかったこの男に今一度、興味を持った。
「嫌ですよ面倒くさい。何日僕をつけねらったと思ってるんですか。この時期に人の家の軒先借りて寝るのって寒いから大変なんですよ?」
「娼婦の安ベッドに転がり込んでおいてよく言ったものだ。危うくお前ではなく娼婦の方を消すところだった」
「枕元に置いてた虫かごに捕まったてた時はびっくりしましたよ」
「最大の屈辱だ。千年生きていてあのような仕打ちをしたのは貴様が初めてだ」
「この間、二千年とかって言ってませんでしたっけ?」
パーヴァが鼻を鳴らすと、スタイアは手ふきでせこせこと手を拭きながら背中を丸めた。
「手に負えない何かがやってきましたかね?」
「どうして、そう思う」
「時期ですからね。アーリッシュ卿がオーロードに赴いてヨッドヴァフに不在となれば、女王に取り入って何かを吹き込むにはいい機会ですから。ヨッドメントが忙しく働き回ってますが、そのどさくさに紛れてフィダーイーまで始末しようとしてます」
「動かずによく理解している」
「ユロさん見てれば、誰が死んだかはわかります」
パーヴァは溜息をつくと、言葉を続けた。
「遅かれ早かれ、貴様もオーロードへ赴くのだろう。セステナス・ミルドはフィダーイーにも深く繋がりのある男だ。王都に置いた目が途絶えれば、新たな目を置く。それを担うのはヴァフレジアンになるのだろうが、ニヴァリスタが不穏な動きを見せている」
「元々、あちらの方出身でしたっけ?パーヴァは」
「違う。あの国の興り、エボニーバイブル戦争に深く携わっているだけで、あそこには私の知己が居るだけだ。だからこそ、あの国は魔術、魔法に深く執着するのだ」
「魔法、ねぇ……勇者マチュアも一時期、あの国で魔王退治に勤しんでいたはずですが魔法ってのはやっかいな物なんですかね」
「魔術と魔法の違いも知らぬのも無理はない。ヨッドヴァフは歴史が浅い。ここで学んだ貴様がその違いに理解が及ばないのも頷ける話だ」
スタイアの顔に僅かだが、怪訝の色が浮かぶ。
饒舌に話すパーヴァが珍しいのだ。
それを理解した上でパーヴァはスタイアに講釈を続けた。
「魔術とは、環石に蓄積されるマナ……マンフとも呼ばれる。あるいはエーテル、あるいはアウラと呼ばれるエネルギーを変換して仕事をさせる技術の総称だ。この国の魔術は拙く、魔法と魔術の明確な違いさえ理解していないが、おおよそこの解釈が正しい。誤った解釈であるのは魔物と悪魔もそうだ。この国の学術はいろいろな面で概念の齟齬が多い」
「パーヴァ?」
「魔法とは魔術とは明らかに一線を画す。あれは秘技なのだ。携わる一族が連綿と秘密を守り抜き、それが拡散しないように努める。そうしなければいけない理由が厳然と存在する秘められた業。そうして執り行われるのが魔法だ」
パーヴァはそこまで一気に話し、スタイアを見上げる。
「不思議そうだな?私が博識なのが珍しいか」
「いえ、虫でも本を読むのかと思いまして」
「これが本当の本の虫、とでも揶揄するのだろう?茶化さずに聞け」
無理に話を続けるパーヴァの意図を漠然と理解しながらスタイアは作業する手を止め、椅子に腰掛けた。
「……魔法とはな、『術』ではなく『法』なのだよ。世界の根幹を揺るがす秘法。それは人はもとより我々とて軽々しく扱ってはならない。それを私は小さき星のクレアの元で学んだ。我より長く生きる正真正銘、本物の魔法使いだ。世界は広い。私とてその全てを知る訳ではないが、真に正しく魔法使いと呼べるのは小さき星のクレアを除いて他に1人しかいない」
「ふむ、それが話の核心になるのですかね」
スタイアは顎をさすりながら、なんとはなしにパーヴァが言いたいことを理解した。
「『灰色の魔術師』グレン・シュナイダーだ。奴の出自については多くを知らない。だが、数年前からニヴァリスタに身を寄せているという話は聞いていた。それが、ヨッドヴァフに来る」
パーヴァはそう呟いて、ぶるりと羽を震わせた。
どこか怯えた様子のパーヴァにスタイアは目を静かに細め、細く息を吐いた。
「魔法、ですか……」
「厄介だよ。嵐や地震などであれば逃げる事は叶う。だが、誰が地に足をつくことから逃れられよう。魔法とはそういうものだ」
「ですが、魔術師なのでしょう?パーヴァの話を聞く限りでは、その、魔法使いと魔術師には限りなく隔たりがある、みたいな話ですが」
「奴が、紛れも無く、正真正銘の、どこまでもまっとうな、お前と同じ人間だからだ」
スタイアは眉根に皺を寄せる。
パーヴァはそれだけ告げると、傍らに置いてあった布巾を羽で引っかけると体に纏い、滴を拭う。
「フィダーイーのニザはこれより、この男の対応に当たる。害が無ければ捨て置くが……そうでない場合は」
そこまで言ってパーヴァは言葉を飲んだ。
その先の事態を想像するにスタイアはこの小さな隣人が抱えている問題に漠然と察しをつけた。
「パーヴァ」
「なんだ」
「入ってきた穴、塞いでおいてもらえます?ほら、もうすぐ冬ですし」