第三章『不徳の業、愛惜の行方』8
翌日の夜、タレズはぐっすりと眠るネルに毛布を被せると外に出る。
昔の業で覚えた調薬である。
眠り薬を含めた食事を執ったネルは朝からずっと眠り通しである。
すくなくとも、自分が居なくなるまでは。
家の鍵を閉めると、小さく溜息をつき振り返る。
一人、郊外の墓地へと赴く。
冬の寒さが迫るヨッドヴァフの秋の夜空に珍しく、雨が降る。
秋の雨は雷を伴う。
だが、今夜の雨だけはどこか静かであった。
静かに降り続いた雨はやがて静かな流れとなる。
黒いローブを纏って墓地で待つその男達の足下に、泥の流れを作りタレズは静かにその男達の元へ歩み寄る。
静かな雷光が夜空を走った。
光の中浮かんだタレズの顔はどこか恐ろしかった。
相対するバンディドは僅かにそう感じたが、それでも臆することはしない。
首を傾け合図し、手下がタレズを取り囲む。
「……娘を」
遠く森の影から三人の男達に引きずられ、タマはタレズに向き合った。
タレズは静かにタマに目配せをすると、タマは理解した。
「約束は守ろう。娘を放してやってくれ」
「いいだろう」
バンディドが手を挙げると、男達はタマを解放した。
タマはどうすべきか迷って、声をあげた。
「タ……」
「ネぇルッ!」
タレズは声を張り上げ、遮る。
「大丈夫だ」
どこか優しげに微笑むと老人は再びバンディドに向き直り笑みを消す。
タマはそそくさとその場を後にする。
助けを呼ぶために。
バンディドはタマの逃げる方向を確認し、安心する。
その方角には手下を潜ませている。
顔を見られたからには生かしてはおけない。
タレズは十分にタマが離れたのを知ると、ゆっくりと口を開いた。
「鉛被せ、五千枚であったか」
「そうだ。三つ巡りの間にやってもらう」
「儂の腕が欲しいそうだな」
「貴様のその腕以外に叶うものはいまい」
「なれば、くれてやる」
タレズはそう言い切って短剣を引き抜いた。
怪訝に思うバンディドの前に右腕をかざし、タレズは短剣を腕に当て、力一杯引いた。
「むぅ……ぁあッ!」
「貴様、何をッ!」
泥の中にべちゃりと落ちた手首の上に雨が降る。
追って零れた血が泥と混じり、赤く、鈍く滲んでゆく。
「もって……いくがいいィ。これがっ、黄金の蛇、リゲリアの……腕じャ!」
苦しげに笑うタレズが地面に転がる右腕を顎で示した。
「貴様っ!」
「首も欲しくなったか?……くれてやるっ、いいだろうとも、くれてやるっ!」
バンディドは混乱する頭の中で、この老爺が自分たちを馬鹿にしたと知った。
「この野郎を殺せッ!血祭りに上げろっ!」
手下達が剣を引き抜き、タレズに殺到する。
背後から斬られ、俯くタレズの額を別の剣が叩き上げる。
ばしゃり、と泥の中に仰向けに倒れるタレズは痛みに視界が歪む。
かつて、多くの人を殺めた悪党が、今、別の悪党に殺される。
それが因果と思えば理解はできた。
だが、幼いネルを遺して死する自分の不甲斐なさに剣の刺さった胸が熱くなる。
泣くだろう、たんと、泣くだろう。
そして途方に暮れるネルを思えば不憫で。
ネルを必死に思い出そうとするタレズの視界一杯にバンディドが怒りの形相で映る。
「くそっ!くそっ!死に損ないのジジィがっ!」
タレズの眼前に切っ先が迫り、貫く。
愛する者の顔すら思い出せず、タレズは頭を貫かれた。
だが、バンディドは激情に任せ、何度も、何度もタレズの頭を貫く。
息を荒げるバンディドは手下達に切っ先を向けると、タマの逃げた方向を指し示す。
「……娘を、連れてこい。犯して、殺してやる」
◇◆◇◆◇◆◇
逃げ延びたタマが真っ先に向かったのがユーロのところであった。
最も近く、そして頼れる知人がユーロであったからだ。
鉄の棺桶を作っていたユーロは突然の珍客にただならぬ雰囲気を感じ、そして、概ね何が起こっているか悟った。
「ユーロ!」
ユーロはどこか緩慢な動きでタマの方に向き直ると、頷いた。
改められた鎖で棺桶を吊し、背負う。
重たい棺桶の重みを背にし、雨の中立ち尽くすタマの頭を撫でると小さく告げた。
「店に戻れ」
「え?」
「死んだ」
この男はいつだって結論から、話す。
それが人の身に抗えないことであることを知りすぎていた。
だからこそ。
「……お前は、何だ」
言葉に詰まるタマに決断を迫り、俯くタマの背中を叩く。
そうあることを決めたのは自分たちである。
ユーロは誰しもが忌み嫌う、死を埋めにゆく。
◇◆◇◆◇◆◇
死者しか残らない墓地に、ネルは一人立っていた。
遅れてやってきたユーロはネルの後ろに立ち、ネルが俯き眺めているものを見つけた。
タレズ・リゲリアだ。
体のあちこちを断たれ、顔は無惨に潰されている。
遠く離れたところに転がる右腕がのみが血に染まらず、綺麗であった。
「……多分、知ってた」
白い息を吐き、ネルは零した。
「おじいちゃんが、そういうことをしてたって」
ネルは屈み込み、変わり果てた祖父の亡骸に涙を零す。
どこか、暗い影はあった。
時折零す溜息に、喜ぶ顔の隅に、そして、自分を叱る掌の奥に。
どこか後ろめたく、いつまでも拭えない何かを引きずっているのは知っていた。
だが、どこまでも誠実に自分を愛した祖父には紛れも無く。
だからこそ、それらが胸中に渦巻き溢れ、零れて慟哭となる。
「でも、ね……おじいちゃんは……おじいちゃんなんだ!……優しかったんだよぉ……ずっと、おじいちゃんだったんだよぉぉっ!」
それらの言葉は意味を成さない。
だが、深い慟哭はどれだけの愛があったかを重く響かせる。
「なんでおじいちゃんがぁ?だって……悪い人、ほかにも……一杯いるじゃん……どうして……どうしてなんだよぉ!」
溢れる憤りは矛先を無くし、さ迷う。
偽りの血縁が紡いだ愛は深く、深く、泣き叫ぶ少女の心に根付いていた。
「おかあさんだっておじいちゃんを恨んでなかった!ずっと、ずっと……おじいちゃんが頑張ってくれたから!頑張ってくれたんだがらぁ!あぁあああっ!」
だからこそ、その愛が引き裂いた少女の心は深く、深く傷つく。
ユーロは静かに棺桶をタレズの傍らに置いた。
重く鈍く、扉を開き、その亡骸を抱き上げる。
「うわあぁああっ!あああぁあっ!ああああん!ああ、あ……アァアーッ!」
空を引き裂かんばかりに響く慟哭の中、ユーロは静かにタレズの身を沈める。
最後に静かにその右手を拾い上げ、その右手が行ったことに思いを馳せる。
死を忘れた彼でも、それくらいは許されるだろう。
多くの過ちを犯し、そして、多くの正しさを成す。
時がその数を増やし、責めるべき悪徳と悼むべき愛惜を紡ぐ。
死すべき人はおらず、ただ、厳然と死が突きつけられる。
その倫理と論理から外れた彼は久しく、そして正しく人の死を受け止めた。
それが、人なのだろう、と。
静かにその右腕を棺に納めるとユーロは気がつく。
そこが、ネルの母、ビリア・リゲリアの墓であると。
「うぅ……ああぁあっ……ひぐっ……グゥゥウッ!ウッ!」
どこまでも力なく泣き咽ぶ少女は恨めしげに天を睨んでいた。
知っている。
彼は、知っている。
そのどこまでも耐え難きに震え、抗えない震えを知っている。
だからこそ、呟く。
「……リバティベルという、店がある」
ヨッドヴァフの最後の自由。
「金貨5枚で人を、殺してくれる」
ユーロはタレズ・リゲリアが最後に手がけた鎖で彼を引いて、静かに立ち去った。