第三章 『不徳の業、愛惜の行方』6
いつの世も民は遊興を求める。
人は麦のみでは生きてゆけない。
演劇はそういった民衆の一つの楽しみであった。
サウスグロウリィストリートに面した劇場には街壁の内側に住む人間がひしめきあい、話題の演目を見るために集まっていた。
街の東に住まいを持つ貴族の婦人達に混ざり、タマとネルは劇場を後にした。
「やっぱり、ブレイシィ・メスはかっこよかったねえ」
そう零すネルの隣、タマはぼぉっとした表情で演劇の余韻を噛みしめていた。
ネルは世間の流行に敏感でアカデミアに通う貴族の子女達が話題にしていた演劇を見てみたいだけである。
タマはすでにそのことを見抜いていた。
「艱難に臨む君に、命運を拓く剣をぉ!」
興奮冷めぬネルが芝居の台詞を真似る。
市井の出である彼女をそれだけで小馬鹿にした子女達を見返してやりたいだけであるのも知っていた。
だからこそ、ネルが気軽に誘える同じ市井の出のタマに声がかかったのだ。
色々なことを教養とすべしと解く師の教えに従っているタマは、演劇を見てみるのも悪くは無いだろうと思っていた。
冒険者として稼いだ金を貯えにまわすことも覚えていた。
そして、自らがより多くのことを覚えるのに、お金を使うということを知るべきだとスタイアに教わった。
だからこそ。
演劇というものを見て、その凄まじさに驚いた。
人の声がああまで綺麗なものか。
架空の出来事をああまでの迫力をもって表現できるのか。
その為に、彼らが普段、どんな研鑽をしているのか。
「うん……すごかった」
そこには演劇という場で生きる人々の凄さがあった。
静かな熱気が引きずる感動の中で、タマはネルの言葉に上の空で答えていた。
宵闇の帳が空を閉じ、家路に急ぐ人々の波に二人は揉まれながら歩く。
「……タマ、今日はありがとうね?」
「え?」
どこかしおらしく呟くネルにタマはようやく現実を思い出す。
「タマは優しいね。クロウフル師の最後の弟子って言われてるだけあって、やっぱそういうのってわかっちゃうのかなぁ」
ネルはどこか同情されていることを恥じているようだった。
「ニンブルドアだっけ?冒険者としては凄いんでしょ?この間のガルパトライン討伐戦も本当は行けるだけの実力があったっていう話だし。じいちゃんにただ通わされているだけの私とはなんか、違うよねえ」
ネルはそういって溜息を零した。
アカデミアは誰にでも門戸を開いている訳ではない。
ネルだってその門戸を開くために相応の努力はしていた。
だが、それでも安くは無い学費を賄う祖父に負い目を感じているのだろう。
そして、また、アカデミアという閉ざされた世界の中での負い目も。
「そんなこと、ないよ」
「またまた、謙遜してぇ」
「だって、私、奴隷だもん」
タマはそう言い切った。
「元々は壁の外で泥棒やってた。悪い巡りもあったし、だけど、それでも良い巡りがあって、今の主人に買われてクロウフル師匠に教えて貰ってるけど、それが私に価値を与えてるんじゃないって知ってるから」
ネルはとりとめもなくそう呟くタマがとても寂しいのだと知った。
アカデミアでもどこか肩を小さくして本を読んでいるタマの姿を思い出す。
何かに追われるように必死なタマはやはり、必死だったのだ。
だけど、そんなことを微塵も見せないようにタマはやはり笑うのだ。
「おじいちゃん、優しいね」
「そうだね」
本当は誰かに目一杯、甘えたいのだ。
だがそれが許されない立場にある。
そして、それすら考えることが許されない場所から来たから。
その幸運をただ享受するだけでは、恥ずかしいから。
「私のお父さん、戦争で死んじゃった。お母さんも流行病でお父さんを追いかけてニンブルドアへ旅立った。おじいちゃんにとって私だけが家族なんだろうね。昔は何やってたかは良くわかんないけど、おじいちゃん今、騎士やってるんだ」
タマもそれは知っていた。
確か、スタイアが所属する第七騎士団に所属しているはずだ。
冒険者を中心に編成される準騎士を抱える市街警備を主とする第七騎士団。
「タマ!私たち、友達だからね!」
ネルは声を大きく張り上げてそう言った。
そうして、胸につけていたブローチを丁寧に外す。
そして、タマの胸にそのブローチをつけた。
「これは?」
「貸したげる!」
精緻な細工は並の技術のものではない。
銀という安くはない素材を用いて作られたそれは気軽に貰っていいものでもないことはタマにも理解できた。
「ダメだよ!こんなの簡単に人に貸しちゃ!」
「おかあちゃんの形見なんだ。おじいちゃんがおかあちゃんに作ってあげたものだけど……私の友達のタマに持っていて欲しい」
慌てるタマを押しとどめ、ネルが首を振った。
「それならなおさらだよ!」
「うん、わかってる。だから、預かっておいて欲しいの」
ネルはそう言って屈託なく笑った。
「友達だ友達だって言っても、なんか、私、全然だもん。だから、せめて一生懸命頑張ってタマの友達として恥ずかしくないように頑張らなきゃ」
タマはそう呟くネルがどこかとても幸せそうに見えた。
両親は居ない。だが、だからこそ恵まれた愛情の中で生きている。
その愛情に気がつかないのは幸せだからだ。
それでも、と思うことにしたのだろう。
「じゃあ、私はこれを貸してあげる」
タマはそう言って首からベルトを外し、それをネルの手首に巻いた。
「私がご主人様からはじめて貰ったものなの」
ネルはどこか寂しそうな顔をしているタマを見て、それがとても大切なものであることを理解した。
今のタマが進む道を切り開いた人への思いのこもった物である。
「……タマ」
「友達、だからね」
どこかはにかみながら、照れくさそうに笑うタマにネルは胸が締め付けられる。
黄色い歓声があがり人の波がそちらへ流れていく。
人々の間から僅かにかいま見えた美青年を見つけ、ネルはしおらしい空気はどこやら。
「あ、見て見て!あれ、ブレイシィ・メスじゃない?ブレイシィ・メスだよ!わぁあ!凄い!近くに行って見てみようよ!」
「ちょ、あ、にゃぁああ!」
飛び出し人混みの中をかき分けていくネルについて行けず、ハイヒールの踵でつま先を踏みつけられたタマは悲鳴を上げる。
みるみるネルの背中が見えなくなり、タマは大きな溜息をついた。
「なんだかなぁ……」
もう一度大きな溜息をつくとタマは帰ることを決めた。
ネルも気がつくだろうしこの喧噪の中で物騒な事は起こるまい。
ネルはあれで同年代の中でもしっかりしている方だし何より大事な祖父を心配させるようなことはすまい。
だが、タマは自分がその物騒なことに巻き込まれるとは露ほども思わなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
タレズ・リゲリアが血相を変えてやってきたのは店を閉めようかという話をスタイアが切り出したころだった。
夜巡の当番ではない日に騎士団の準騎士が一杯引っかけにくることはよくあることである。
腹一杯に食べられて勘定の安い酒を出す酒場であればどこでもいいのだが、副業として冒険者をするならばリバティベルにはたまに顔を出しておくと美味しい話にもありつける。
だが、タレズのような老齢な者には街壁の外に出るような危険な話はもとより、荷役雑益のような話すら縁は無い。
「スタイア!貴様のところの娘の教育はどうなってるんだ!」
「どうしたんですかやぶからぼうに」
仕事もしたくない日に仕事をさせられ面倒くさそうにコップを磨いているスタイアにタレズはもの凄い剣幕で迫った。
「貴様のところの娘の教育が悪いから儂の孫娘をたぶらかしおって!なにかあってからでは貴様の素っ首一つでは済まさんぞ!」
普段の好々爺の印象からほど遠く、激昂するタレズの剣幕は凄みがあった。
だが、冒険者達を相手に生業をしているスタイアにはどこ吹く風。
「たぶらかしたって……ええと、なんです?」
「高い金を出してまでアカデミアに通わせてるのに芝居だか演劇だかを友達と見に行くといって帰ってこぬのだ!ロクでもない娘だ全く!」
「はぁ……そういや今日は演劇を見に行くとか言ってましたっけ」
スタイアはカップを棚に戻し、曲がった腰を大きく伸ばす。
そこへぬっと現れたラナが険しい表情でスタイアを見るが、スタイアは小首を傾げる。
その様子にラナは小さく溜息をつくとタレズと相対した。
その並々ならぬ威迫にタレズはこの女将が並の者ではないことを理解する。
「……演劇のお誘いをされたのはそちらの娘が先ですが」
「娘ではない!孫娘だ!」
「どちらでも構いません。それをもってして人の娘がろくでもないなどとどのようなお気持ちで仰ってるのでございましょうか?」
「うちの孫娘が悪いとでも抜かすかぁっ!」
「育ての親の素行を見れば一目瞭然。うちの娘に限ってそのような不躾な真似は一切無い!」
カウンターを叩き声を荒げるラナなどを見るのは珍しい。
冒険者という荒くれ者が集まる酒場である、騒ぎになり店主が不在であれば一喝することもあった。
だが、看板娘を侮辱されたことで声を荒げるラナを見るのはスタイアもはじめてだった。
「二人ともバカじゃないですか?夜遊びですもん帰りくらい遅くなるでしょうに。僕なんか……」
「「黙ってろッ!歩く汚物がッ!」」
「……あー、うん。そうします」
スタイアは二人の剣幕にすごすごと肩を小さくして店の奥へと消えてゆく。
酔いの回ったイシュメイルがその様をげらげらと笑うがラナに一瞥されてすぐさま黙り込んで俯いた。
「このような場所で育った娘に不躾な真似が無いとな?笑わせるわ」
「その程度の浅はかさでしか物を図れぬ器量で育てて何を」
「はっ!言わせておけば!」
「受けて立ちましょう」
これはまずいとイシュメイルは直感する。
取っ組み合いの喧嘩になると誰もが思ったその時だ。
「タマー!ねータマー!」
ちりん、と澄んだ音が鳴りネルが店の中に入ってきた。
その手にはブローチが握られている。
「あ、じいちゃん。家に居ないと思ったらこんなところで何してんの。あ、またこっそり一杯引っかけに出たんでしょー?もう若くないんだからやめなさいよ」
タレズは驚き孫娘を見る。
「お前……戻ってたのか」
店の奥へすごすごと引き下がった店主がワインの瓶を傾けながら戻ってくる。
「そりゃ、戻ってくるでしょうよ。ネルちゃんもタマちゃんもそれっくらいには人の気持ちくらいは汲める器量があるんですから。いちいち心配する方がアホ臭い」
カウンターに座りだらしなくワインをラッパ飲みするスタイアをラナが鋭く睨みつけるがスタイアは汚らしいゲップをしてイシュメイルのカップと瓶を打ち合わせた。
「これで、どちらの娘がたぶらかしたかがはっきりいたしました。うちのタマに不名誉な申し立て、謝罪して頂きます」
「何度も言わせるな!娘ではなくて孫娘だ!それにどっちがたぶらかしたなどはお前のところの娘に決まっておろう!ふざけたことをぬかすな!」
険しくにらみ合うラナとタレズに辟易しながらネルはカウンターでだらしなく飲むスタイアに近寄る。
「ねえ、タマはまだ帰ってないの?」
「んー?まだ帰っては来ていないね。でも心配いらないよ。君も、タマちゃんも危ないところに近寄らないくらいには頭がいいでしょうに」
「それがちょっと心配なんだよ」
ネルのその様子をスタイアは怪訝に思う。
ネルはブローチを手の中で弄びながら言いにくそうに言う。手首にはタマのものであるベルトが巻かれていた。
「……演劇の帰りにね?このベルトとブローチ、交換したの。お互い友達の印にって。そこで私、ブレイシィ・メスを見つけたから追いかけてってそこでタマとは別れちゃったんだけど……家に戻ってみると玄関の前にこのブローチが置いてあってね?」
スタイアの瞳が鋭くなった。
それを見とがめたタレズの顔が驚愕に染まる。
ラナはそれらを怪訝に見つめ、イシュメイルは興味深そうに頷いた。
「ふむ……タマちゃんが返しにきたというのは少々楽観的かね」
「幾分、規制は緩くなったとはいえ、人攫いをしても金にはなりづらい世ではあるんですがね」
酔った頭でいろいろと考えてみるがスタイアには見当がつかない。
驚いたままのタレズにラナは心当たりがあると思い尋ねた。
「……何か、心当たりが?」
「いや、知らん。だが、孫娘が戻ってこちらの娘が戻らぬのは問題じゃの。夜巡ではないが見てこよう。スタイア、すまぬがネルを頼む」
スタイアは酒にまどろんだ瞳に鋭い光を宿して呼び止めた。
「タレズじいさん」
「なに、儂も騎士じゃがや」
そう言ったタレズの背中がどこか悲壮であった。